第十三話 結界装置
黒石材が届き始めると、村は次の段階へ進んだ。
壁を直す。
床を敷く。
炉を補強する。
排管を支える。
やれることは増えた。
だが、ヴェスパーが最初に作らせたのは、王宮でも、館でも、立派な門でもなかった。
「工房を作る」
研究所の前でそう言うと、アガレスが目を輝かせた。
「王様、ついに地獄の工業化ですね!」
「屋根付き作業場だ」
「言い方が地味です!」
「現実は地味なんだよ」
ヴェスパーは黒石板の上に簡単な図を描いた。
炉の近く。
ただし近すぎない場所。
石材加工場。
皮革作業場。
骨加工場。
保存確認場。
道具置き場。
それぞれを完全な建物にする余裕はまだない。
黒石で土台を作り、氷木で骨組みを組み、魔物皮で風除けを張る。
壁は低くてもいい。
床が冷えにくく、風を遮り、道具を置けるだけで作業効率は変わる。
「作る場所がないと、作るものが増えない」
ヴェスパーが言うと、ザグが黒石材の山を見た。
「石は使う場所で形が変わる」
「そうだ。工房の床に使う石と、壁に使う石と、炉を支える石は違う」
「なら、規格を分ける」
「頼む」
ザグは頷き、すぐに石材を選び始めた。
救出された悪魔たちの中から、手先の動く者が補助に入る。
まだ力仕事は無理でも、石を運ぶ順番を揃えることはできる。
皮紐を渡すことはできる。
骨の留め具を並べることはできる。
モルクもその中にいた。
まだ肩は細く、外套も手放せない。
だが、荷運びをしていたというだけあって、物の置き方を見る目はあった。
「ここに置くと、運ぶ時に詰まります」
モルクが控えめに言う。
バルガンが石を抱えたまま振り返った。
「詰まるだと!」
「はい。ここの通路が狭いので、そりが通れません」
「そりは俺が持ち上げれば通る!」
ヴェスパーが即座に言った。
「お前を基準にするな」
「王!」
「モルクの言う通りだ。そりが通れる幅を残せ」
モルクは驚いたようにヴェスパーを見た。
「俺の言う通りで、いいんですか」
「荷運びの目だろ。使え」
「……はい」
モルクは小さく頷いた。
助けられた悪魔が、少しずつ村の仕事へ入っていく。
ただ寝かせるだけではない。
ただ食わせるだけでもない。
できることを、できる範囲で任せる。
それが、この村のやり方になり始めていた。
メルツは皮革作業場の風除けを見て、満足そうに頷いた。
「これで皮が雪に埋まらないね。乾かす場所があるだけで全然違う」
リトは保存確認場に小さな棚を作っていた。
「食べられるものと、まだ毒抜きが必要なものを分けられます」
「混ぜるなよ」
「混ぜません」
ブエルがにこにこと手を上げる。
「毒抜き前でも、少しなら食べられるものもありますよぉ」
「新人に教えるな」
「残念ですぅ」
ハボリムは粥場を広げようとしていた。
「鍋が二つ置けるのう」
「焦がすなよ」
「火はよいのう。鍋も増えると嬉しいのう」
「焦がすなよ」
「二度言われたのう」
「二度言わせるからだ」
村のあちこちで、作業の音が増えていく。
黒石を積む音。
氷木を削る音。
皮紐を締める音。
骨具を並べる音。
粥をかき混ぜる音。
名もなき集落だった場所が、少しずつ仕事のある村になっていく。
だが、その変化はすぐに別の問題を連れてきた。
南の石切り場から、報告が戻ってきたのは昼過ぎだった。
ザグとバルガン、それにラゴが戻ってくる。
バルガンは不満そうに腕を組んでいた。
ザグは眉間に皺を寄せている。
ラゴは耳を伏せていた。
「どうした」
ヴェスパーが研究所の前で尋ねる。
ザグが短く答えた。
「石切り場の暖所が弱い」
「弱い?」
「炉の近くは問題ない。村も冷えてはいない。だが、南へ行くほど熱が落ちる」
ラゴが頷いた。
「昨日より、排管の先が冷たいです。暖所の中も、風が入るとすぐ冷えます」
バルガンが拳を握る。
「俺は平気だ!」
「お前基準で回すな」
「また言われた!」
ヴェスパーは地図を広げ、南へ伸びる排管の線を見た。
炉。
工房。
寝床。
保存小屋。
そして南の石切り場。
熱を使う場所が増えている。
だが、炉の出力そのものは落ちていない。
炉の近くは暖かい。
粥も煮えている。
救出者たちも凍えてはいない。
問題は、熱が届かないことだ。
「火が弱いんじゃないな」
ヴェスパーは呟いた。
「熱が途中で逃げてる」
アガレスが記録帳を開く。
「熱が逃げている、ですか」
「南へ伸ばした排管、途中の継ぎ目、外気、上に抜ける熱。全部だ。流しっぱなしにすれば、先に着く頃には冷える」
「では、炉の出力を上げますか?」
「上げる前に漏れを止める」
ヴェスパーは排管の線を指で叩いた。
「暫定対処だ。熱源を循環させる」
「循環、ですか」
「送りっぱなしにするな。村で使った熱をそのまま捨てない。排管の戻りを作る。中継点で冷えた空気をそのまま外に捨てるな。もう一度炉側へ戻す」
アガレスは目を丸くした。
「熱を、回すのですね」
「そうだ。熱も食料も人手も、無限じゃない。配るだけじゃなく、戻せるものは戻す」
「熱の運用ですね!」
「その言い方は嫌いじゃない」
ヴェスパーはザグを見る。
「排管の分岐を見直す。南へ流しっぱなしにしない。石切り作業中は南へ。夜は村側。救出者が冷える時は寝床優先。工房は作業時間だけだ」
「切り替えがいる」
「骨板と黒石の栓で簡易弁を作る。細かい調整は無理でいい。開く、絞る、閉める。まずその三つだ」
バルガンが身を乗り出した。
「俺が閉める!」
「壊すな」
「壊さん!」
「力任せにやるな」
「なら、どうやって閉める!」
「ゆっくりだ」
「難しい!」
「弁操作から外すぞ」
バルガンは真剣に頷いた。
「ゆっくり閉める!」
アガレスが記録帳に書き込む。
「バルガンさん、弁操作注意」
「なぜ俺だけ名指しだ!」
「壊しそうだからだ」
暫定の熱循環は、その日のうちに始まった。
ザグが黒石の栓を作る。
メルツが皮で継ぎ目を巻く。
リトが灰と脂を混ぜ、隙間を塞ぐ材を作る。
ハボリムが炉の火加減を見ながら、排管へ送る熱を調整する。
ラゴが匂いで漏れを探す。
「ここ、煙が少し漏れてます」
「そこを塞げ」
「こっちは温かいです」
「なら抜けてる。外に逃がすな」
ヴェスパーは現場へ出ず、研究所で地図と報告を見ていた。
アガレスが伝令を整理する。
「南中継点、少し改善。暖所、まだ不安定。工房側、温度上昇。保存小屋、温めすぎ注意」
「保存小屋は温めるな。あそこは冷えてていい」
「全部温めればよいわけではないのですね」
「そうだ。暖かい方がいい場所と、冷えてた方がいい場所がある」
「地獄なのに、冷えていた方がいい場所があるのですね」
「保存はな」
暫定対処で、村の熱回りは少し安定した。
だが、南の石切り場まではまだ弱い。
石切り場の簡易暖所は、使えないほどではない。
だが、風が強いとすぐに冷える。
手を温める時間が長くなり、石を切る時間が短くなる。
ザグが報告した。
「熱が届いても、留まらない」
その一言で、ヴェスパーは黙った。
届いても、留まらない。
そこだ。
「熱を運ぶだけじゃ足りない」
ヴェスパーは炉の煙突を見上げた。
熱は上へ逃げる。
煙と一緒に抜ける。
隙間から漏れる。
外気に奪われる。
火を作った。
排管を伸ばした。
循環も始めた。
だが、熱を留める仕組みがない。
その時、アガレスが小さく「あ」と声を上げた。
「王様」
「なんだ」
「以前、結界の術について聞いたことがあります」
「結界?」
「はい。侵入を防ぐだけでなく、何かを留める術式です。魔力を宿す道具に刻印を施し、特定の性質を持たせるものがあります」
「魔力を宿す道具」
「魔道具です」
ヴェスパーはアガレスを見た。
アガレスは記録帳を抱えながら、いつになく真面目な顔をしていた。
「防御用の結界ではありません。熱の流出を抑える方向へ、術式を特化させれば……暖所の熱を逃がしにくくできるかもしれません」
ヴェスパーはしばらく黙った。
それから、素直に言った。
「お前、マジで知識の悪魔だったんだな」
「今さらですか!?」
「いや、記録係だと思ってた」
「知識の悪魔です!」
「知識の悪魔が記録係やってたら、それはそれで合ってるだろ」
「そうですが!」
アガレスは少し頬を膨らませたが、すぐに記録帳を開いた。
「魔道具に刻印するには、魔力を通しやすい素材が必要です。黒石は相性がよいかもしれません。炉の熱に慣れていますし、魔力も少し通ります」
ザグが黒石材を一つ持ち上げた。
「刻むなら、割れにくい石を選ぶ」
「頼む」
ヴェスパーは図を描き直した。
「要件を決める」
「ようけん?」
「何をする装置かだ」
アガレスが姿勢を正す。
「はい!」
「一つ。熱を逃がしにくくする」
「はい」
「二つ。冷気を入りにくくする」
「はい」
「三つ。煙は逃がす」
「……煙は、逃がす」
「ここ大事だ。煙まで閉じ込めるな。むせる」
「はい!」
「四つ。完全密閉しない。呼吸できる。中で作業できる」
「はい」
「五つ。壊れても爆発しない」
アガレスが手を止めた。
「爆発、するのですか」
「知らん。だからしないようにする」
「なるほど!」
「なるほどじゃない」
こうして、熱を逃がさないことに特化した結界装置の試作が始まった。
名前をつける前に、アガレスが言った。
「熱保持結界装置、でどうでしょう!」
「長い」
「保温結界一号!」
「一号を付けるな」
「では、熱結界装置!」
「それでいい」
最初の結界装置は、黒石板だった。
ザグが平たい黒石を選び、表面を磨く。
アガレスが術式の草案を描く。
リトが灰と脂と魔物の骨粉を混ぜ、刻印に塗り込む材を作る。
メルツが皮で保護覆いを作る。
ハボリムが炉の熱を少しずつ当て、石を馴染ませる。
バルガンは重い石板を運んだ。
「王! どこに置く!」
「刻印面に触るな」
「触ってない!」
「今触ろうとしただろ」
「少しだけだ!」
アガレスが慌てて叫ぶ。
「バルガンさん、刻印面に触らないでください!」
「なぜだ!」
「術式が歪みます!」
「歪むとどうなる!」
アガレスは真顔で言った。
「分かりません!」
「怖いな!」
「だから触らないでください!」
試作一号は、まず村の小さな暖所で試された。
炉から細い排管を通し、黒石板を壁に埋める。
刻印に魔力を通すと、赤い線がうっすら光った。
暖所の中が、じわりと温まる。
アガレスが息を呑む。
「王様、成功では!」
「まだだ」
ヴェスパーは煙の流れを見る。
しばらくして、バルガンが中に入った。
「暖かいぞ!」
次の瞬間、黒い煙が低く渦を巻いた。
排管から出た煙が外へ抜けず、暖所の天井で押し戻される。
黒石板の刻印が赤く光り、熱だけでなく煙まで内側へ抱え込んでいた。
「げほっ! ごほっ! 煙い!」
バルガンが目を白黒させて飛び出した。
ラゴも涙目で転がるように外へ出る。
「煙が、中に戻ってます!」
次に入ろうとしていた悪魔たちも一斉に後ずさった。
暖所の入口からは、ぬるい熱と焦げ臭い煙がもわりと吐き出される。
温かい。
確かに温かい。
だが、そこに長くいたら別の意味で倒れる。
ブエルがのんびり言った。
「これは吸うと、三日ほど夢が変になりますぅ」
「吸わせるな!」
ヴェスパーは額を押さえた。
「煙まで閉じ込めるなと言っただろ」
アガレスは記録帳を抱えて真っ青になった。
「熱を留める術式が強すぎたようです!」
「強すぎる方向が最悪だ」
「申し訳ありません!」
「煙は出す。熱は残す。そこを分けろ」
「はい!」
「あと、夢が変になる煙は全部外に出せ」
「はい!」
バルガンはまだ咳き込みながら言った。
「王……暖かかったぞ……!」
「そこだけ成功しても駄目なんだよ」
ラゴが涙をぬぐいながら小さく言った。
「暖かくて、逃げたくなりました」
「最悪の暖所だな」
失敗だった。
だが、失敗の理由は分かった。
術式は熱も煙も、まとめて内側に留めようとしていた。
それでは使えない。
アガレスは術式を削った。
ザグは排気口の周囲の石を組み替えた。
リトは煙の通り道に塗る材を変えた。
メルツは皮の覆いに隙間を作った。
ヴェスパーは何度も言った。
「煙は出す。熱は残す」
アガレスも何度も書いた。
煙は出す。
熱は残す。
何度かの失敗の後、ようやく形になった。
暖所の中に煙はこもらない。
だが、外の風が吹いても温度が落ちにくい。
黒石の壁がじわじわと熱を抱え、火が弱まってもすぐには冷えない。
「これなら南で試せる」
ヴェスパーは言った。
試作した結界装置は、南の石切り場へ運ばれた。
運ぶのはバルガン。
設置はザグ。
確認はラゴ。
アガレスは行きたがったが、ヴェスパーに止められた。
「記録係が全部現地へ行くな」
「王様、見たいです!」
「報告をまとめろ。お前の仕事だ」
「うう……はい」
南の簡易暖所に結界装置が設置された。
村で待つヴェスパーのもとへ、何度も伝令が戻る。
「南暖所、煙なし」
「温度、昨日より安定」
「風が入っても落ちにくい」
「石切り隊、作業継続可能」
アガレスが書き留める手を震わせた。
「王様、結界装置、成功です!」
「ひとまずな」
「ひとまずでも成功です!」
ザグからの報告も届いた。
「石が冷え切る前に切れる。形を揃える余裕がある」
それを聞いて、ヴェスパーは少しだけ頷いた。
火を増やしたわけではない。
炉を強くしたわけでもない。
逃げる熱を、少しだけ留めた。
それだけで、作業は変わった。
「火を増やす前に、逃がすな」
ヴェスパーが呟くと、アガレスが即座に記録した。
「王様の名言です!」
「名言じゃなくて対策だ」
「対策名言です!」
「なんだそれ」
だが、その成功は別の異変を連れてきた。
夕方。
グレルが外周から戻ってきた。
表情が硬い。
「王様」
「どうした」
「防壁の外で、水の匂いがします」
ヴェスパーは顔を上げた。
「水?」
「はい。氷が溶けた匂いです」
「どこの防壁だ」
「南西側です。排管の外。熱を送っていない場所です」
研究所の中が静かになる。
アガレスが記録帳を抱きしめた。
「熱を送っていない場所、ですか」
「案内しろ」
ヴェスパーは村の外へは出なかった。
代わりに、フルカスとグレル、ラゴ、ザグを確認に向かわせた。
しばらくして、戻ってきたフルカスが報告した。
「確かに、防壁の外側の氷が一部溶けております」
「量は」
「細い水筋でございます。大きく崩れるほどではありません」
「原因は」
「分かりませぬ。ただ、排管はそこまで届いておりません」
アガレスが青ざめた顔で言った。
「王様……旧結界が反応しているのかもしれません」
「旧結界?」
「かつて第九圏には、ルシファー様の熱と魔力の流れを整える結界があったと記録されています。冷気を防ぐだけでなく、熱道を保ち、氷獄全体の均衡を取っていたと」
「熱道」
ヴェスパーは地図を見た。
南へ伸びる排管。
新しく作った循環。
結界装置。
そして、防壁外の氷解け。
「俺たちは、古い配管に熱を戻したってことか?」
アガレスは少し困った顔をした。
「ものすごく雑に言えば、そうです」
「雑に言わせたのは俺だが、嫌な納得感があるな」
ヴェスパーは西側の地図を見た。
熱を逃がさない。
熱を循環させる。
ただそれだけのつもりだった。
だが、第九圏そのものが反応し始めている。
「ただの暖房工事じゃなくなったな」
アガレスは記録帳に書き込んだ。
熱循環により、防壁外の氷に変化。
その文字を見て、ヴェスパーは眉をひそめた。
その頃から、西の風が少し変わっていた。
冷たいのはいつものことだ。
だが、その日の風には、硬さがあった。
雪が横へ流れるたび、遠くで何かが鳴る。
氷が軋む音に似ている。
けれど、ただの自然音にしては、間隔が揃いすぎていた。
見張り台にいたニムが、西の白い闇を見つめて首を傾げた。
「誰か、笑った?」
誰も答えなかった。
笑い声に聞こえたそれは、風に削られた氷の音だったのかもしれない。
だが、グレルだけは西を見たまま、低く喉を鳴らしていた。
「西側を見たい」
ヴェスパーが言った。
バルガンが即座に顔を上げる。
「王! 俺が行く!」
「お前は行かない」
「なぜだ!」
「見に行くんだ。戦いに行くんじゃない」
「俺も見られるぞ!」
「見たものを壊すだろ」
「壊さない!」
「自信満々に言うな。不安になる」
ヴェスパーは地図の西側を指で叩いた。
「西側担当を決める」
その場にいた悪魔たちが、自然とグレルを見た。
だが、ヴェスパーは首を振った。
「グレルは村だ。狩猟番を空けるな」
グレルは黙って頭を下げた。
「では、ラゴでしょうか」
アガレスが言う。
「ラゴは補助だ。隊長じゃない」
「では……」
ヴェスパーは炉の近くに座っていたモルクを見た。
「モルク」
モルクは肩を跳ねさせた。
「はい」
「西側担当の隊長をやれ」
その場が、少しざわついた。
モルク自身も、信じられないものを見るように目を見開いた。
「俺が、ですか」
「そうだ」
「俺は、まだ……戦えません」
「戦えとは言ってない」
ヴェスパーは地図を指で叩いた。
「帰還柱を立てる。道を見る。危ないと思ったら戻る。それが仕事だ」
「でも、俺は」
「お前は一度、戻れなくなった」
モルクは息を呑んだ。
炉の音が低く響く。
「だから、戻れなくなる怖さを知ってる。どこから先が危ないか。どの辺りで体が動かなくなるか。助けを呼びに出て倒れるってのが、どういうことか」
ヴェスパーは淡々と言った。
「西側探索に必要なのは、強いやつじゃない。帰る判断ができるやつだ」
バルガンが腕を組んだ。
「なら俺ではないな!」
「分かってるなら黙ってろ」
「王!」
アガレスが記録帳を抱えたまま、モルクを見た。
「モルクさん、西側帰還柱設置隊長です!」
「隊長……」
モルクは震える指で、自分の胸を押さえた。
助けを求めて外へ出た時、自分は誰かを連れて帰るつもりだった。
だが、実際には倒れ、拾われ、そりに乗せられ、この炉の前へ運ばれた。
あの日の冷たさは、まだ体の奥に残っている。
置いていくしかなかった仲間たちの顔も、忘れていない。
戻れないということが、どれほど恐ろしいかを知っている。
だからこそ、胸の奥で何かが熱を持った。
「俺が、誰かを連れて帰る側に」
「そうだ」
ヴェスパーは言った。
「拾われたままでいるな。今度は拾う側に回れ」
モルクはしばらく俯いていた。
やがて、外套を握りしめたまま、深く頭を下げた。
「やります」
「無理はするな」
「はい」
「見つけたら戻れ。危なければ戻れ。分からなければ戻れ。勝とうとするな」
「戻ります」
「いい返事だ」
モルクを隊長に、西側探索隊が組まれた。
目的は一つ。
西へ赤い帰還柱を少しだけ伸ばすこと。
戦闘ではない。
救出でもない。
調査ですら、無理をしない。
帰れる範囲を一歩伸ばす。
それだけだ。
モルクの隊には、赤い帰還柱を持つ悪魔が二人、荷運びが二人、護衛が二人、補助にラゴがついた。
ラゴは隊長ではない。
匂いと風を見る補助だ。
バルガンは不満そうだったが、ヴェスパーは出さなかった。
「お前がいると戦いになる」
「なら勝てる!」
「今回は勝ちに行かない」
「むう」
モルク隊は昼のうちに出発した。
西側の氷は、東とは違っていた。
ただ冷たいのではない。
硬い。
重い。
踏み込むたびに、足の裏から体の奥へ冷気が上がってくる。
風が止まる瞬間があった。
いや、止まったように感じただけかもしれない。
白い荒野の先で、薄い青の光が一瞬だけ揺れた。
すぐに雪に紛れて消える。
ラゴが耳を伏せ、鼻先を上げた。
「悪魔の匂いがします」
モルクは足を止めた。
「弱ってる?」
「分かりません。ただ……冷たいです。氷と同じ匂いがします」
モルクは赤い帰還柱を雪に突き立て、周囲を見た。
「ここで止める」
隊の一人が顔を上げる。
「まだ進めます」
「進める。だが、戻りにくい」
「でも、王様は西へ伸ばせと」
「無理に広げるなとも言われた」
モルクは息を整えた。
まだ体は完全に戻っていない。
だが、だからこそ分かる。
どこから先が危ないか。
どこまでなら戻れるか。
どこを越えると、助けを呼ぶ前に倒れるか。
「今日はここまでだ」
その時だった。
赤い帰還柱の先で、氷が鳴った。
澄んだ音。
次の瞬間、透明な槍が飛んできた。
赤い柱の一本が砕ける。
隊の悪魔たちが息を呑む。
白い防壁の陰から、青白い悪魔たちが現れた。
霜をまとった角。
氷の甲冑。
透明な槍。
吹雪の中で、彼らは震えていなかった。
それどころか、楽しそうに笑っていた。
その笑い声は大きくない。
だが、風に混じると氷が鳴る音と区別がつかないほど冷たかった。
「火の道を伸ばすな」
先頭の氷悪魔が言った。
「熱道に触れるな」
モルクは剣を抜かなかった。
怖くなかったわけではない。
足は震えている。
喉も乾いている。
背中には、あの日倒れた時の冷たさが蘇っていた。
だが、ヴェスパーの声も覚えている。
見つけたら戻れ。
危ないと思ったら戻れ。
勝とうとするな。
「撤退する」
モルクは言った。
「隊長!」
「戻る!」
その声は、思ったより強かった。
「柱を見ろ! 道を外れるな! 怪我人を置くな! 戻るぞ!」
氷の刃が足元から生えた。
モルクは仲間の背を押し、最後尾に回る。
肩を氷の破片がかすめた。
痛みより先に、冷たさが傷へ入り込む。
ラゴが振り返った。
「モルクさん!」
「戻れ!」
青白い悪魔たちは追ってこなかった。
ただ、氷の上に立ち、笑っている。
「帰る道を作るか」
「火に群がる者らしい」
「伝えろ」
先頭の氷悪魔が槍を掲げた。
「熱道を開くな。火を西へ伸ばすな。次は村まで氷を戻す」
モルクは振り返らなかった。
「戻るぞ! 王に報告する!」
赤い帰還柱をたどって、探索隊は村へ戻った。
西側探索隊が戻ってきたのは、夕方になる前だった。
予定より早い。
しかも、負傷していた。
見張り台のニムが声を上げる。
「西側探索隊、帰還!」
ヴェスパーは研究所から出た。
モルクは肩を押さえている。
傷口が白く凍りつき、外套の端にも霜が広がっていた。
他の悪魔も一人、足を引きずっている。
赤い帰還柱は一本、砕けた残骸だけが持ち帰られていた。
「リト、水。ハボリム、湯。メルツ、布。グレル、外周を見ろ」
ヴェスパーは即座に言った。
それから、モルクの前に立つ。
「全員戻ったか」
「はい」
「帰還柱は」
「一本、砕かれました」
「そうか」
「申し訳ありません」
「柱一本で全員戻ったなら、上出来だ」
モルクは顔を上げた。
「でも、進めませんでした」
「進まなくていい場面だった」
「逃げました」
「戻ったんだ」
ヴェスパーは短く言った。
「お前は役目を果たした」
モルクの唇がわずかに震えた。
助けを求めて倒れた時、彼は戻れなかった。
だが今度は、戻った。
仲間を連れて。
「西に、悪魔がいました」
「弱ってたか」
「いいえ」
「飢えてたか」
「いいえ」
「震えてたか」
「いいえ。むしろ……この氷の中で、笑っていました」
ヴェスパーは顔をしかめた。
「おいおい、罪になってねーじゃねぇか」
アガレスの顔色が変わった。
「青白い肌、氷の甲冑、氷槍……」
「知ってるのか」
「霜牙軍、かもしれません」
「そうがぐん?」
「旧ルシファー軍の精鋭です。第九圏の氷結環境で戦うために編成された軍団の一角。冷気を操り、氷上戦に特化した悪魔たちです」
「なんでそんな連中が罰として第九圏にいる」
アガレスは記録帳を抱えたまま、小さく首を振った。
「罰ではなく……封じ込めだったのかもしれません」
「封じ込め」
「氷獄で弱る者もいれば、氷獄で強くなる者もいます。彼らは後者です。だからこそ、外へ出さないために第九圏に留められた可能性があります」
「なるほどな」
ヴェスパーは地図の西側を見た。
「地獄の刑務所に、寒冷地仕様の武装集団を入れっぱなしにしてたわけか」
「言い方は乱暴ですが……」
「乱暴なのは設計だろ」
モルクは肩の痛みに耐えながら続けた。
「彼らは、こう言いました。熱道を開くな。火を西へ伸ばすな。次は、村まで氷を戻す、と」
その場の空気が止まった。
炉の音だけが、低く響く。
ヴェスパーは地図の西側を見た。
赤い帰還柱の予定線。
まだ途中までしか伸びていない道。
その先にいる、氷を罰としない軍団。
「……こっちまで襲撃しに来るかもしれねぇな」
バルガンが前に出た。
「王! 俺が行く!」
「行かない」
「なぜだ!」
「向こうから来るかもしれない相手に、こっちから戦力を散らすな」
バルガンは歯を食いしばった。
「やられたなら、やり返すべきだ!」
「今は違う」
「なぜだ!」
「向こうの数も、位置も、目的も分からない。そこでこっちから出れば、村が空く」
「俺がいれば」
「お前一人で炉も寝床も救出者も守れるのか」
バルガンは言葉に詰まった。
ヴェスパーは低く続ける。
「外で勝っても、村を凍らされたら負けだ」
アガレスが小さく頷いた。
「凍らせる相手ですものね」
「そうだ」
バルガンは拳を握りしめ、やがて下ろした。
「……王の命令に従う」
「それでいい。お前は前衛だ。勝手に戦争を始める係じゃない」
「分かった!」
ヴェスパーは全員を見回した。
「全員、作業停止」
ざわめきが広がる。
「石切りは中断。工房作業も止める。粥と治療だけ継続。救出者は炉の内側へ移せ。外周に黒石材を積め。そりは搬送用に空けておけ。西側の帰還柱は一度引く」
アガレスが慌てて記録する。
「王様、防衛体制ですか」
「そうだ」
ヴェスパーは短く言った。
「第九圏に来て初めての、まともな敵かもしれん」
それから、フルカスを見た。
「防衛線はフルカスが見ろ」
その瞬間、周囲の悪魔たちが静かになった。
フルカス本人も、わずかに目を見開いた。
「私が、でございますか」
「お前以外に誰がいる」
ヴェスパーは地図から顔を上げた。
「俺は全体を見る。炉、寝床、工房、負傷者、退避、全部だ。前線の石の置き方、間合い、守る場所、引く場所。そういうのは、お前が見ろ」
フルカスはしばらく黙っていた。
老いた騎士の背が、少しだけ伸びる。
炉の熱で戻りつつあった輪郭が、今だけは、かつて戦場に立っていた悪魔のものに見えた。
「……承知いたしました」
その声は低かった。
だが、揺れていない。
「ならば、西側の門前に石材を積みます。ただ積むのではなく、敵の進路を絞る形で。バルガン殿は中央。左右には狩猟番を置き、後ろにそりを待機させます」
バルガンがにやりと笑った。
「俺が真ん中か!」
「はい。ですが、勝手に前へ出てはなりません」
「なぜだ!」
「あなたが前に出すぎると、敵は左右へ抜けます」
「む……」
「あなたは壁です。槍ではない」
バルガンは少し考えた。
そして胸を張る。
「壁か!」
「はい」
「王! 俺は壁になるぞ!」
「頼むから動く壁にしてくれ」
フルカスは続ける。
「グレル殿は匂いで接近を見てください。ラゴ殿は西側の帰還柱の線を確認。折られた場所から敵が来るとは限りません」
「承知しました」
「ザグ殿。黒石材を三段。高く積みすぎず、身を隠せる高さで。崩れた時にこちらが潰れぬよう、内側を逃がしてください」
ザグは目を細めた。
「戦用の積み方か」
「はい」
「分かった」
「メルツ殿は布と外套を。凍傷が出ます。リト殿は温水と処置を。ハボリム殿は湯と粥を切らさぬように」
「任せな」
「はい」
「火はよいのう。戦にも湯は要るのう」
フルカスは最後にアガレスを見た。
「アガレス殿。伝令を整理してください。誰がどこへ行くか、王の指示と私の指示が混ざらぬように」
「はい!」
アガレスは目を輝かせながら記録帳を抱えた。
「フルカスさん、すごいです!」
フルカスは少し困ったように笑った。
「昔取った杵柄、というものでございます」
ヴェスパーは西の地図を見ながら呟いた。
「老騎士どころか、現役じゃねぇか」
フルカスは静かに首を振った。
「現役ではございません。ですが」
彼は西側の白い闇を見た。
「守るものがあるなら、騎士は立てます」
作業音が止まった村に、別の音が生まれた。
石を積む音。
皮紐を締める音。
そりを引き出す音。
狩猟番が外周を歩く音。
負傷者を炉の内側へ移す音。
粥を鍋でかき混ぜる音。
それらを並べ直しているのは、フルカスだった。
敵を倒すための配置ではなく、村を守るための配置。
フルカスは、それを知っている。
ヴェスパーは炉の前に立った。
工房の作業音は止まっている。
石切り隊も戻した。
西側へ伸ばしかけた赤い帰還柱は、一度引く。
村の外周には、黒石材が積まれ始めていた。
寝床の悪魔たちは炉の内側へ移され、狩猟番が周囲を回る。
バルガンは西側の門の前に立ち、ザグは石材の配置を見ている。
フルカスは久しぶりに、戦場を見る目をしていた。
アガレスが記録帳を抱えたまま、ヴェスパーの隣に立つ。
「王様」
「なんだ」
「霜牙軍が本当に動くなら、これは戦になります」
「まだ戦じゃない」
ヴェスパーは西を見た。
「襲ってきたら防ぐ。話せるなら話す。殴るのは、その後だ」
「王様らしいです」
「褒めてるのか」
「はい」
「やめろ。落ち着かない」
その時、グレルが低く唸った。
西の風に、冷たい匂いが混じった。
炉の火が揺れる。
遠く、西の白い闇の中に、青白い光が一つ灯った。
続いて、二つ。
三つ。
その光の奥で、かすかに笑い声がした。
氷が鳴っただけかもしれない。
風が防壁を削っただけかもしれない。
だが、その場にいた悪魔たちは、誰一人としてそうは思わなかった。
バルガンが笑った。
「来たか」
ヴェスパーは小さく息を吐いた。
「全員、持ち場を離れるな」
青白い光は、まだ遠い。
だが、確かにこちらを見ていた。
氷獄の西から、氷を罰としない悪魔たちが、火の匂いを嗅ぎつけていた。
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