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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第一章 氷獄に火を灯す

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第十一話 赤い帰還柱


 第十話の翌日。


 名もなき集落の広場には、いくつもの小さな山ができていた。


 皮。


 骨。


 脂。


 灰。


 削り損ねた板。


 氷木の端材。


 壊れた金属片。


 魔物の牙や爪。


 使えるかどうかもわからない黒ずんだ破片。


 それらが広場の一角に、種類ごととは言い難いが、少なくとも「これは燃やすものではない」「これは食べるものではない」「これはあとで使うかもしれない」という程度には分けられて積まれている。


 炉がある。


 粥がある。


 木も切れるようになった。


 門もできた。


 温室も動き始めた。


 昨日までなら、それだけで大きな前進だった。


 だが、物が増えれば、次の問題も見えてくる。


 素材はある。


 しかし、素材があるだけで物が作れるわけではない。


 ヴェスパーは、広場の端で作業を始めようとしている悪魔たちを見た。


 メルツは、魔物の皮を広げていた。


 ただ、その手つきはまだ頼りない。


 職人の手というより、壊してしまわないように恐る恐る触れている手だった。


 ザグは壊れた金属片を拾い上げ、炉の火にかざしている。


 以前より目に光は戻っているが、まだ声にも体にも芯が戻りきっていない。


 リトは、脂と灰を小さな骨皿の上で混ぜながら、鼻を近づけ、すぐに顔をしかめた。


「……これ、使えるんでしょうか」


 リトが不安そうに言う。


 ザグも、金属片を見つめたまま、小さく唸った。


「脂だからな。腐る前なら、たぶん使える……と思う」


「たぶん、か」


 ヴェスパーが言うと、ザグは少し肩を縮めた。


「すまん、王。昔なら、もっとわかったはずなんだが」


「責めてねぇよ。今わかる範囲でいい」


 その言葉に、ザグはわずかに息を吐いた。


 メルツも皮の端を押さえながら、そっと顔を上げる。


「王様……今日は、何を作るのでしょうか」


 その声は小さい。


 だが、聞く気はある。


 動こうとしている。


 それだけで、数日前とは違っていた。


 ヴェスパーは広場に積まれた素材を見回した。


 皮革工房を作るには、作業台がいる。


 針がいる。


 刃物がいる。


 なめすための桶がいる。


 干す場所がいる。


 機構工房を作るには、金属がいる。


 石がいる。


 工具がいる。


 安定した炉がいる。


 保存小屋を作るにも、棚がいる。


 燻製設備がいる。


 容器がいる。


 乾燥させる場所がいる。


 そして、そのすべてを作るために、また材料と道具がいる。


「……工房はまだ無理だな」


 ヴェスパーが言うと、メルツの手が止まった。


 ザグも金属片を握ったまま黙る。


 リトは骨皿を抱え、少しだけ目を伏せた。


 アガレスが、ヴェスパーの横で顔を上げる。


「王様、工房は作らないんですか?」


「作らないんじゃねぇ。作れない」


 ヴェスパーは素材の山を指さした。


「皮革工房を作るなら、皮を扱う場所がいる。機構工房を作るなら、金属と工具がいる。保存小屋を作るなら、棚と容器と煙を逃がす仕組みがいる。今あるのは、皮と骨と脂と、壊れた金属片が少しだ」


「でも、昨日よりはたくさんあります!」


「昨日よりはな」


 ヴェスパーはうなずいた。


 そこは否定しない。


 昨日より確実に進んでいる。


 だが、次に進むにはまだ足りない。


 足りないものを、足りないまま気合で埋めようとすると、たいてい何かが壊れる。


 物か。


 体か。


 作ったやつの心か。


「工房はまだ無理だ」


 ヴェスパーはもう一度言った。


 そして、メルツを見る。


「だが、防寒具だけは作る」


 メルツが顔を上げた。


「防寒具……ですか」


「外套。手袋。靴。炉番用の厚手手袋。探索用の簡易防寒具。完璧じゃなくていい。短時間、外に出て帰ってこられればいい」


「……やって、みます」


 メルツは小さくうなずいた。


 声は震えている。


 だが、逃げてはいない。


 ヴェスパーは地面にしゃがみ、焦げた骨で凍った土に線を引いた。


「形は単純でいい。まずは体を覆う。風を入れない。手足を守る。細かい装飾はいらん。動けることが大事だ」


「王様の外套も作るんですよね!」


 アガレスが勢いよく身を乗り出した。


「いや、俺は後でいい」


「駄目です! 王様は一番いい外套です!」


「飾りはいらんぞ」


「もちろんです! 王様にふさわしく、黒い縁取りと骨飾りと、赤い紐を――」


「いらん」


「では銀の留め具を――」


「ない」


「じゃあ骨の留め具を――」


「凍えないことを最優先にしろ」


 アガレスは口を尖らせた。


「王様なのに地味です」


「王様だから凍えないのが先だろ」


「それは、そうです!」


 妙に納得した顔で、アガレスはうなずいた。


 その横で、メルツが魔物の皮を重ね、骨針を手に取る。


 指先がわずかに震えていた。


 厚い皮だった。


 外側は硬く、内側にはまだ脂の膜が残っている。


 メルツは何度か息を整えてから、慎重に針を通そうとした。


 ぎり、と嫌な音がした。


 次の瞬間。


 ぱきん。


 骨針が折れた。


「あ……」


 メルツの顔から血の気が引いた。


「申し訳、ありません。私が、下手で……」


「違う」


 ヴェスパーは折れた針を拾った。


「折れたなら、なぜ折れたか見ろ」


 メルツが、おそるおそる顔を上げる。


「……なぜ、折れたか」


「そうだ。お前が駄目だから折れたんじゃない。皮が硬い。針が弱い。穴を先に開ける道具もない。条件が悪い」


 メルツは、折れた骨針を見つめた。


 すぐに捨てようとはしなかった。


 震える指で折れた断面を拾い集め、並べる。


「失敗も、材料……ですよね」


「ああ」


「なら、次は折れた場所を見ます」


 その声はまだ弱い。


 だが、最初のように怯えてはいなかった。


 ヴェスパーは、折れた骨針をザグへ渡した。


「金属針がいるな」


 ザグは両手でそれを受け取った。


「細く、硬く、折れにくいもの……」


 声は小さい。


 だが、目に少しだけ火が戻っていた。


「できるか?」


「……一本なら。たぶん、試せる」


「それでいい。一本作れ。一本あるだけで、次が変わる」


 ザグは小さくうなずいた。


「やってみる」


「頼む」


 ザグは金属片を炉の火にかざし、何度も角度を変えた。


 赤くなる場所。


 黒く沈む場所。


 脆く崩れる場所。


 それを見ているうちに、彼の目つきが少しだけ変わっていく。


「……ここは、まだ使える」


 ザグは、ほとんど自分に言い聞かせるように呟いた。


「昔なら、見ただけで分かったんだ。どこまで叩けるか。どこで折れるか。どの熱なら曲がるか」


「戻りそうか」


 ヴェスパーが聞くと、ザグは困ったように笑った。


「少しだけな。手が、思い出しかけてる」


「なら、その少しを使え」


「ああ」


 その時、バルガンが試作途中の外套を持ち上げた。


 まだ縫い目も粗く、肩を通す穴も仮のものだ。


「王! これは俺も着られるか!」


「まだ待て」


「寒くねぇか試す!」


「待てって言ってんだろ」


 止める間もなく、バルガンは腕を通そうとした。


 皮がぎしりと鳴る。


 縫い目が悲鳴を上げた。


 メルツが固まる。


「ぬおおおお!」


「力を入れるな!」


「入らん!」


「通らないんじゃねぇ。お前が破ってる」


 ヴェスパーが外套を奪い取ると、バルガンは首を傾げた。


「服とは難しいものだな!」


「お前が難しくしてんだよ」


 メルツは半泣きになりながら、縫い目を確認した。


 幸い、完全には破れていない。


 ヴェスパーはバルガンを指さした。


「お前用は別に作る。普通の型で作ると全部壊れる」


「特注か!」


「言い方だけは立派だな」


「王に認められた!」


「認めてねぇ。危険物指定だ」


 周囲の悪魔たちが笑った。


 笑い声が、炉の煙に混じって広場へ広がる。


 少し前まで、ここに笑い声などなかった。


 凍える音。


 腹の鳴る音。


 諦めた息。


 それだけだった。


 だが今は違う。


 不格好でも、物を作ろうとする者がいる。


 壊して怒られる者がいる。


 失敗して、次を考える者がいる。


 半日ほどの作業で、完璧とは言えないが、いくつかの防寒具が形になった。


 皮を重ねた外套。


 手首を縛る簡易手袋。


 足を包んで骨紐で縛る靴。


 炉番用の厚手手袋。


 探索用の短い外套。


 縫い目は粗い。


 形も歪んでいる。


 動くとがさがさ音がする。


 それでも、何もないよりは遥かにましだった。


 悪魔の一人が外套を羽織って、東門の外に少しだけ出る。


 門の外は、外縁部の東側へ続く道だ。


 その先には、凍った森がある。


 彼は数歩歩き、すぐに戻ってきた。


「風が……少し、痛くない」


 その一言で、メルツの肩から力が抜けた。


「よし」


 ヴェスパーはうなずいた。


「短時間の外作業ならいけるな」


「外に出られますね!」


 アガレスが嬉しそうに言う。


「長時間は駄目だ。凍る」


「ちょっとだけです!」


「その『ちょっとだけ』で死ぬのが外だ」


 ヴェスパーは東門の向こうを見た。


 門の東には凍った森がある。


 北には採取地帯がある。


 そのさらに奥には、地底湖が眠っている。


 そして南。


 まだほとんど地図のない、すり鉢の内側へ下っていく方向。


 広げるなら、そこだ。


 だが、その前に必要なものがある。


 考える場所だ。


 ヴェスパーは炉の周辺区画へ歩いた。


 炉の隣は熱い。


 だが、危ない。


 火の粉が飛ぶ。


 作業するには狭い。


 素材を置けば乾きすぎたり、燃えたりする。


 逆に離れすぎると寒い。


 図面を書いても手がかじかむ。


 試作品を置いても凍る。


 相談している間に、相談しているやつが動かなくなる。


「ここじゃ駄目だな」


 ヴェスパーは炉の横から少し離れた区画を見た。


 近すぎず、遠すぎない。


 炉の熱がまだ届く。


 風も、氷木の壁である程度遮れる。


 製材所から板を運ぶにも近い。


 広場にも出やすい。


 ヴェスパーは地面を足で踏んだ。


「ここを研究所にする」


 その瞬間、アガレスが跳ねた。


「研究所です!」


「小屋だ」


「研究所小屋です!」


「図面を書いて、試作を置いて、面倒な相談をする場所だ」


「それを研究所と言います!」


「言い張るな」


「王様の研究所です!」


 周囲の悪魔たちがざわついた。


 研究所。


 その響きだけで、何か大層なものが始まる気配がしたらしい。


 実際に作るのは、粗末な小屋である。


 製材所で作った歪んだ板。


 氷木の柱。


 魔物皮の覆い。


 骨で作った棚。


 炉の灰を固めた床。


 隙間だらけだ。


 扉も、板を立てかけただけに近い。


 だが、壁がある。


 風が直接入ってこない。


 図面用の板が置ける。


 焦げた骨の筆記具を束ねておける。


 素材置き場を分けられる。


 試作品を踏まれずに済む。


 それだけで十分だった。


 悪魔たちは、妙に張り切って小屋を建てた。


 誰かが柱を立てる。


 誰かが板を運ぶ。


 誰かが皮を張る。


 ザグが骨棚を組み、リトが素材置き場を分け、アガレスが勝手に入口の板に文字を刻もうとして、ヴェスパーに止められた。


「王様研究所って書きます?」


「書くな」


「では第九圏中央研究所――」


「中央じゃねぇ」


「未来の中央です!」


「未来を勝手に先取りするな」


 そんなやり取りをしているうちに、研究所小屋は形になった。


 粗末だ。


 寒い。


 狭い。


 だが、そこには確かに、考える場所ができた。


 ヴェスパーは小屋の中に入り、板の上に手を置いた。


 図面を広げるには十分ではない。


 だが、線は引ける。


 問題を書き出せる。


 次に何が必要かを並べられる。


 それだけで、頭の中の混沌が少し整理される。


「これで、少しは考えられるな」


「王様、寝床はどこにしますか?」


 アガレスが当然のように言った。


「寝床?」


「はい。研究所の横に作るんですよね?」


「なんでそうなる」


「王様、まさか今まで広場で寝てたんですか?」


「だいたいそうだな」


 小屋の中が静かになった。


 アガレスが固まる。


 メルツが皮を抱えたまま固まる。


 フルカスが杖を突いた姿勢で、ゆっくりと目を閉じた。


「……王よ」


「なんだ」


「それは、いけませんな」


「何がだ」


「王が広場で雑魚寝というのは、いけません」


 フルカスの声は静かだった。


 だが、妙に重い。


 メルツも小さくうなずいた。


「せめて、風除けと寝台は必要です」


「いや、俺だけ特別扱いする必要は――」


「あります!」


 アガレスが食い気味に叫んだ。


「王様が凍えたら終わりです!」


「俺より凍えてるやついるだろ」


「それも改善します! でも王様も改善します!」


 そこで、外からバルガンが顔を出した。


「王! 俺の横で寝るか!」


「うるさくて寝られねぇ」


「俺は寝ている時は静かだ!」


「寝言で戦ってそうだろ」


「たまに戦う!」


「駄目じゃねぇか」


 悪魔たちは、なぜか急に団結した。


 研究所小屋の横に、風を防ぐための低い壁を作る。


 皮を何枚も重ねる。


 骨で簡単な枠を組む。


 干しきれなかった皮は炉の熱で少し乾かしてから敷く。


 氷木の板を並べ、その上に厚い皮を重ねる。


 上からもう一枚、外套にもならない硬い皮をかぶせる。


 ヴェスパーはその様子を見ながら、眉をひそめた。


「なんで俺の寝床が公共事業になってんだよ」


 アガレスが胸を張る。


「王様の生活改善です!」


「俺がやってたやつを俺に返すな」


「返します!」


「胸を張るところじゃねぇ」


 やがて、粗末な寝床ができた。


 立派ではない。


 柔らかくもない。


 皮はまだ少し硬く、骨の枠もところどころ歪んでいる。


 だが、風は直接当たらない。


 下からの冷えも、少しは防げる。


 ヴェスパーは試しに腰を下ろし、皮の上に手を置いた。


 その瞬間、ふと、石棺の冷たさを思い出した。


 骨の奥まで染み込むような、あの冷たさ。


 目覚めた時、体ではなく魂まで凍っていたような感覚。


 思わず、肩が小さく震えた。


「……あれよりはいいな」


 そう呟くと、アガレスが満面の笑みになった。


「王様が寝床を認めました!」


「認めるほどのもんじゃねぇだろ」


「大進歩です!」


 フルカスが静かに笑った。


「王の寝所ができた。これもまた、国の形ですな」


「寝床ひとつで国にするな」


「始まりとは、得てしてそのようなものです」


 ヴェスパーは返す言葉に困り、研究所小屋へ戻った。


 研究所小屋は、完成した時点ではただの粗末な小屋だった。


 氷木の柱。


 歪んだ板壁。


 魔物皮を張った風除け。


 骨で組んだ棚。


 床は炉の灰と砕いた黒石を踏み固めただけで、歩くたびにぎしぎしと音を立てる。


 だが、そこにヴェスパーが立つと、少しずつ様子が変わっていった。


「キャンバス」


 短く呟く。


 灰色の光が、空中に一枚浮かんだ。


 最初の一枚には、村の区画図が描かれた。


 炉。


 広場。


 調理場。


 保存場所。


 寝床。


 木材置き場。


 排水溝。


 貯水穴。


 ヴェスパーが指を動かすたび、線が増え、不要な線が消え、区画が少しずつ整理されていく。


「もう一枚」


 そう言うと、隣に二枚目のキャンバスが浮かんだ。


 今度は周辺地図だった。


 中央に名もなき集落。


 東に東門。


 その先に凍った森。


 北に採取地帯。


 さらに奥に地底湖。


 西に見張り台。


 そして南には、まだ何も描かれていない白い空白。


 アガレスが息を呑む。


「王様、キャンバスが増えました!」


「一枚じゃ足りねぇ」


「足りないと増えるんですか!」


「知らん。増えた」


「便利です!」


「お前がそれを言うのか」


 ヴェスパーはさらに指を振った。


 三枚目が浮かぶ。


 そこには、炉から東の森へ伸びる排管の線が描かれた。


 途中で熱が逃げる場所。


 継ぎ目が弱い場所。


 溶けた水が流れ込みそうな場所。


 赤い印、黒い印、青い線。


 それらが、空中に浮かぶ灰色の板の上で次々と整理されていく。


 四枚目には、防寒具の型が描かれた。


 外套。


 手袋。


 靴。


 炉番用の厚手手袋。


 バルガン用の、やたら大きい外套。


「俺だけ型がでかくないか!」


「お前がでかいんだよ」


「なるほど!」


「納得するな」


 五枚目には、温室の図が描かれた。


 炉の熱。


 風除け。


 キノコの棚。


 水の流れ。


 温度が下がりそうな場所。


 リトがそれを見上げ、小さく呟いた。


「……見えると、分かりやすいです」


「だろうな。頭の中だけだと、俺も混乱する」


 ヴェスパーは空中に浮かぶ複数のキャンバスを見た。


 村の区画図。


 周辺地図。


 排管設計。


 防寒具の型紙。


 温室の管理図。


 保存小屋の棚割り。


 まだ粗い。


 まだ足りない。


 だが、今まで口で言っていたものが、線になってそこにある。


 悪魔たちは、それを見上げていた。


 まるで、星図でも見るように。


 アガレスが、ぽつりと言った。


「王様の頭の中が、研究所に出てきましたね」


「言い方が怖い」


「でも、本当にそうです」


 フルカスが静かに頷く。


「かつての王都にも、作戦室はございました。戦の地図、物資の図、各砦の配置図……それらが並んでいたものです」


「戦争の作戦室と一緒にするな」


「これはこれで、戦でございましょう」


「何との戦だよ」


 フルカスは、空中に浮かぶ村の区画図を見た。


「寒さと、飢えと、無秩序との戦です」


 ヴェスパーは少し黙った。


 それから、面倒くさそうに頭をかく。


「……戦場にしちゃ、ずいぶん地味だな」


「地味な戦ほど、長く続きます」


「嫌なこと言うな」


 アガレスは楽しそうに、浮かぶキャンバスの下を飛び回った。


「王様! この研究所、すごいです!」


「小屋だ」


「キャンバスがいっぱいある小屋です!」


「それはもう小屋じゃない気もするな」


「研究所です!」


「……まあ、好きに呼べ」


 その日から、研究所小屋の中には、灰色のキャンバスが増えていった。


 一枚は村を見るために。


 一枚は外を見るために。


 一枚は作るものを見るために。


 一枚は失敗を残すために。


 そして、一枚は、まだ何も描かれていない未来のために。


 だが、問題はすぐに起きた。


 研究所小屋の中は、気づけばひどいことになっていた。


 空中に、灰色のキャンバスが何枚も浮かんでいる。


 村の区画図。


 東門から凍った森までの道。


 北の採取地帯。


 その奥にある地底湖。


 南へ伸ばす探索予定図。


 炉と排管の設計図。


 防寒具の型紙。


 温室の管理図。


 保存小屋の棚割り。


 さらに、バルガンが壊した試作品の一覧。


「なんでこれ専用のキャンバスがあるんですか?」


 アガレスが最後の一枚を見て、首を傾げた。


「増えてきたからだ」


「増えないでほしいものです!」


「俺もそう思う」


 ヴェスパーは腕を組み、空中に浮かぶキャンバス群を見上げた。


 便利ではある。


 便利ではあるが、邪魔でもあった。


 小屋が狭い。


 ただでさえ粗末な研究所なのに、空中に図面が何枚も浮いているせいで、移動するたびに頭や角をぶつけそうになる。


 ザグは排管図を覗き込もうとして、防寒具の型紙に角を引っかけた。


 メルツは外套の型を見るつもりで、なぜか温室の棚割りを見て固まっている。


 リトは保存小屋の図を探して、三枚ほどキャンバスをくぐり抜けた。


 アガレスは両手を広げて叫んだ。


「王様! 情報が散らかっています!」


「お前が言うと説得力があるな」


「知識は、整理されてこそ知識です!」


「それはそうだ」


「このままでは、研究所ではなく、空中に紙を貼りすぎた小屋です!」


「紙じゃねぇけどな」


「本にまとめたいです!」


 アガレスは、心底もどかしそうに言った。


「本なら、目次を作れます。章分けできます。ページをめくれます。必要な図だけ開けます。保存できます。持ち運べます。記録できます。王様、これは本にするべきです!」


「本か」


 ヴェスパーは、何気なく呟いた。


「ブック……みたいなもんか」


 その瞬間だった。


 空中に浮かんでいたキャンバスが、一斉に震えた。


「……あ?」


 ヴェスパーが顔を上げる。


 村の区画図が、薄い光を放って折れ曲がった。


 排管設計図が、端から丸まるように縮んだ。


 温室の管理図が、ページのように薄く変わっていく。


 防寒具の型紙も、周辺地図も、保存小屋の棚割りも、南の探索予定図も。


 すべてのキャンバスが、ぱたぱたと音を立てるように折り畳まれ、重なり、束になっていった。


 灰色の光が渦を巻く。


 その中心に、黒い表紙が現れる。


 骨のような白い縁取り。


 赤黒い炉火のような留め具。


 そして、表紙の中央に、何も書かれていない空白。


 数秒後。


 研究所小屋の中央に、一冊の本が浮かんでいた。


 アガレスが口を開けた。


「……本に、なりました」


「なったな」


「王様」


「なんだ」


「今、何をしました?」


「俺が聞きたい」


 ヴェスパーは浮かぶ本へ手を伸ばした。


 本は当然のように手の中へ収まる。


 重さはある。


 だが、物質というより、記録そのものが重くなったような感覚だった。


 表紙を開く。


 一ページ目には、村の区画図。


 二ページ目には、東門と凍った森。


 三ページ目には、北の採取地帯と地底湖。


 四ページ目には、南へ伸ばす探索予定図。


 五ページ目には、炉と排管の設計。


 指で触れると、ページの中の線がわずかに動いた。


 まるで、生きた図面だった。


「……便利だな」


「王様!」


 アガレスが両手を震わせた。


「便利で済ませていいものではありません!」


「でも便利だろ」


「便利です!」


「どっちだよ」


 アガレスは本に飛びつくように近づいた。


 金色の瞳が、これまでにないほど輝いている。


「王様、これは記録媒体です! しかも空間投影された図面を階層化し、参照可能な形に再編した、極めて高度な知識保存術です!」


「長い」


「本です!」


「短くなったな」


「本です! 王様の本です!」


「変な言い方をするな」


 アガレスは感極まったように胸を押さえた。


「知識が……知識が本になりました……!」


「知識の悪魔としては嬉しいのか」


「嬉しいに決まっています!」


 アガレスは本の周囲をぐるぐる飛び回った。


「目次を作りましょう! 章分けしましょう! 索引も必要です! 村の区画、素材、食糧、炉、排管、探索、危険地帯、バルガン破損記録――」


「最後はいらん」


 外にいたバルガンが顔を出した。


「俺の名が聞こえたぞ!」


「破損記録だ」


「俺の武勇伝か!」


「違う」


「似たようなものだな!」


「違うと言ってるだろ」


 アガレスはすでに聞いていなかった。


 本を前に、完全に知識の悪魔の顔になっている。


「王様、この本に名をつけましょう!」


「またか」


「名は重要です!」


「知ってる」


「これは、第九圏再建の最初の記録です。村の図面も、道も、炉も、食事も、探索も、全部ここに入ります。ならば――」


 アガレスは目を輝かせた。


「第九圏再建書!」


「重い」


「王様施工記録!」


「業者みたいだな」


「欠落王の大図鑑!」


「やめろ」


「では、王様のブック!」


「雑になったな」


 ヴェスパーは本の表紙を見た。


 黒い表紙。


 白い骨の縁取り。


 まだ何も書かれていない空白。


 そこには、これから増えていくものが入る。


 失敗も。


 修正も。


 道も。


 食事も。


 防寒具も。


 石切り場も。


 まだ見ぬ南の地図も。


 ヴェスパーは少し考えた。


「ただの記録帳でいい」


 アガレスが、露骨に不満そうな顔をした。


「地味です」


「地味でいい」


「王様、もう少し威厳を」


「威厳で飯は食えない」


「またそれです!」


 ヴェスパーは本を閉じた。


 表紙の空白に、ゆっくりと文字が浮かび上がる。


 記録帳。


 それだけだった。


 アガレスは頭を抱えた。


「地味です!」


「分かりやすいだろ」


「分かりやすいですが!」


「ならいい」


 ヴェスパーは、浮かんでいる記録帳のページに指を置いた。


 一ページ目は、村の区画図だった。


 炉。


 広場。


 調理場。


 保存場所。


 寝床。


 排水溝。


 貯水穴。


 それらが、薄い線で描かれている。


「これ、また出せるのか」


「出す、とは?」


 アガレスが首を傾げる。


「本の中に入ったなら、逆もできるだろ」


 ヴェスパーはページに触れたまま、空中へ押し出すように指を動かした。


 すると、ページの上の図面が淡く光った。


 線が浮き上がる。


 文字が浮き上がる。


 ページそのものから、薄い灰色の板が抜け出すように現れた。


 それは研究所小屋の空中で広がり、もとのキャンバスになった。


 村の区画図が、再び全員の前に浮かぶ。


「おお」


 ヴェスパーは思わず声を漏らした。


「戻った」


 アガレスが固まった。


「……」


「アガレス?」


「……王様」


「なんだ」


「めちゃくちゃ便利です」


「お前がそれを言うのか」


「これは便利です! 便利すぎます!」


 アガレスは目を輝かせて、空中のキャンバスと本を交互に見た。


「つまり、本に保存しておいて、必要なページだけキャンバスに戻せるということですね!」


「たぶんな」


「村の区画図を出せます!」


「出せるな」


「排管図も出せます!」


「出せるだろうな」


「防寒具の型紙も!」


「便利だな」


「温室の管理図も!」


「便利だな」


「バルガン破損記録も!」


「それはいらん」


 外からバルガンの声がした。


「俺の記録も出せるのか!」


「出さねぇよ」


「なぜだ!」


「邪魔だからだ」


 アガレスは興奮したまま、記録帳に飛びつくように近づいた。


「王様、これなら研究所の中が散らかりません!」


「最初から散らかすな」


「情報は増えるものなのです!」


「開き直るな」


 ヴェスパーは空中に戻った村の区画図を見た。


 指で線を一本引く。


 その線はキャンバスの上に現れた。


 そして、下に浮かぶ本のページにも、同じ線が薄く書き加えられる。


「……連動してるな」


「連動!」


 アガレスが両手を握った。


「王様、今の見ましたか!」


「見たから言ったんだよ」


「キャンバスで直すと、本にも反映されます!」


「逆もできるのか」


 ヴェスパーは本のページに指を置き、貯水穴の位置を少しずらした。


 空中のキャンバスでも、同じ印がすっと動く。


「できるな」


「王様!」


 アガレスが叫んだ。


「これはもう、ただの記録帳ではありません!」


「じゃあ何だ」


「生きた記録帳です!」


「怖い名前をつけるな」


「では、動く設計書!」


「それは少し分かる」


「第九圏再建設計書!」


「重い」


「王様の便利帳!」


「急に軽いな」


 ヴェスパーは本を見下ろした。


 黒い表紙。


 白い骨の縁取り。


 赤黒い留め具。


 中には、村の図面と、外の地図と、作りかけの設計が入っている。


 必要なものを開き、空中に出し、皆で見て、直し、また本に戻す。


 それだけだ。


 だが、それだけで作業のやり方が変わる。


「……めちゃくちゃ便利だな」


「王様も言いました!」


「言うだろ。これは便利だ」


「記録します!」


「それは記録しなくていい」


 アガレスは、すでに記録帳の端に小さく書き込んでいた。


 ――王様、便利と認める。


「消せ」


「消しません!」


「消せ」


「重要記録です!」


「どこがだよ」


 ヴェスパーはため息を吐き、それから空中のキャンバスを指で軽く押した。


 村の区画図が、すっと薄くなり、本のページへ戻っていく。


 ぱたん、と記録帳が閉じた。


 研究所小屋の中が、少しだけ広くなった。


「よし」


 ヴェスパーは記録帳を見た。


「必要な時だけ出す。使い終わったら戻す」


「整理整頓です!」


「お前が一番苦手そうだな」


「知識の悪魔ですので、知識の整理は得意です!」


「部屋の整理は?」


「苦手です!」


「だろうな」


 アガレスは胸を張った。


「でも、本なら得意です!」


 ヴェスパーは少しだけ笑った。


「じゃあ、この本の管理はお前に任せる」


 アガレスの金色の瞳が、ぱっと輝いた。


「よろしいのですか!」


「知識の悪魔だろ」


「はい!」


「なら、知識を散らかすな」


「承知しました!」


 アガレスは記録帳を両手で抱えるようにして、満面の笑みを浮かべた。


「王様、これで第九圏の再建記録は完璧です!」


「まだ一ページ目みたいなもんだろ」


「だからいいのです!」


 アガレスは本を開き、白紙のページを見つめた。


「ここに、これから全部書いていけます」


 ヴェスパーはその白紙を見た。


 まだ何も描かれていないページ。


 そこには、南へ伸びる道も、黒い岩稜も、石切り場も、まだ存在しない。


 だが、書き込む場所はできた。


「じゃあ、次のページだ」


 ヴェスパーは言った。


「南の探索図を作る」


 アガレスは勢いよくうなずいた。


「はい、王様!」


 記録帳の白紙に、赤い点がひとつ灯った。


 研究所小屋で、初めての地理会議が開かれた。


 集まったのは、ヴェスパー、フルカス、アガレス、ザグ、リト。


 必要に応じて、メルツも呼ばれていた。


 記録帳が中央に浮かび、開かれたページから周辺地図のキャンバスが空中へ押し出される。


 灰色の光の板が、小屋の中に広がった。


 中央に名もなき集落。


 東に東門。


 東の外縁に凍った森。


 北に採取地帯。


 さらに北の奥に地底湖。


 西に見張り台。


 南には、まだ空白。


 ヴェスパーは地図を見上げた。


「まず、方角を整理する」


 アガレスがすぐに骨筆を構えた。


「はい!」


「正門は東門だ」


「東門が正門ですね!」


「東門を出て、東側へ行けば凍った森。今の木材ルートだ」


 ヴェスパーは東側に黒い線を引き、小さな木の印を描いた。


「北は採取地帯。ブエルが草や苔や灰豆を採ってる」


「灰豆は最近おとなしいですよぉ」


 外から、ブエルののんびりした声がした。


「油断するな。豆はまた飛ぶ」


「はいぃ」


 ヴェスパーは北のさらに奥に、黒い丸を描く。


「その奥に地底湖。凍った軍団がいる」


 フルカスの表情がわずかに引き締まる。


「はい。あそこは封印地でございます。むやみに人を増やす場所ではございませぬ」


「だから北へ探索隊は出さない。採取班の動線と混ざるし、奥が重すぎる」


 アガレスが真剣にうなずく。


「北は採取と封印地。探索隊は入れない」


「西は見張り台だ。防衛と監視。今はそっちも広げない」


「では、探索は南ですね!」


「そうだ」


 ヴェスパーはキャンバスの南側へ指を滑らせた。


 白い空白に、細い線が伸びる。


「南はまだ地図が薄い。第九圏のすり鉢を、内側へ少し下る方向だ。まずはそこを調べる」


 ザグが顔を上げた。


「石と、金属……」


 声はか細い。


 だが、明らかに反応していた。


「工房にもいる。炉の改良にもいる。針にも、刃物にも、煙道にも、土台にもいる。木と皮と骨だけじゃ、次に進めねぇ」


 ザグは、自分の指先を見た。


 煤と脂で汚れた手。


 まだ細い手。


 だが、その指は、金属片を握った時だけ少しだけ確かだった。


 ヴェスパーはフルカスを見た。


「石切りができそうな場所はあるか」


 フルカスはしばらく黙った。


 古い記憶を探るように、目を細める。


「第九圏の中心には、かつてパンデモニウムという王都がございました」


「中心?」


「はい。すり鉢の底にあたる場所です」


 フルカスの言葉を、アガレスが横から補う。


「旧都パンデモニウムです。王軸塔を中心に築かれた、第九圏最大の都でした」


「今、そこへ行けるのか」


「無理でございます」


 フルカスは即答した。


「今の我らでは、たどり着く前に凍りつきます」


「だろうな」


 ヴェスパーは空中の地図を見下ろした。


「それで、石切り場は?」


「パンデモニウムから東に、石材を切り出していた岩稜があったと記憶しております」


「王都の東か」


「はい。ただ、この集落は第九圏の北東外縁にございます。王都を基準にすれば東でも、この村から見れば、おそらく南へ下る方角になるかと」


 アガレスが地図の上で、村から南へ赤い線を引いた。


「王様、このあたりですね!」


 中央から東へ伸びる線。


 村から南へ下る線。


 二つの線が、すり鉢の斜面で重なりかける。


 ヴェスパーはそれを見て、眉をひそめた。


「古い地図は王都基準。今の俺たちは村基準か」


「その通りでございます」


「面倒だな」


「地図とは、基準を決めねば面倒なものです!」


「お前、そういう時だけ楽しそうだな」


 ヴェスパーは村の南側に、小さな黒い印を置いた。


「南だな」


 そして、外で待機していたグレルとバルガンたちへ視線を向ける。


「石切り場を探してきてくれ。ただし、無理はするな。見つけたら戻れ。石を持って帰ろうとするな。場所だけでいい」


 バルガンが、どん、と胸を叩いた。


「任せろ、王! 石切り場だな! 気合い入れて行ってくる!」


「気合いはほどほどにしろ。凍るぞ」


「凍る前に帰る!」


「それでいい」


 グレルが静かにうなずく。


「匂いと風の流れを見ます。危険なら引き返します」


「それで頼む」


 バルガンがにやりと笑った。


「王のために、南を見てくる!」


「俺のためじゃない。村のためだ」


「では、村のために!」


 バルガンは言い直し、また胸を叩いた。


「ついでに王のために!」


「ついでを足すな」


 探索の前に、帰るための仕組みが必要だった。


 ヴェスパーは記録帳を開き、新しい白紙のページを出す。


 指で押し出すと、その白紙は空中で小さなキャンバスになった。


「外に出るのは、勝つためじゃない」


 ヴェスパーは言った。


「帰るためだ」


 アガレスが、その言葉を記録帳に書き込む。


「外に出るのは、帰るため……」


「でかく書くな」


「大事なので!」


「壁に貼るなよ」


「本に書くだけです!」


「似たようなもんだろ」


 ヴェスパーは続けた。


「東門を出る。森へは行かない。北にも入らない。南へ回る。門から戻れる範囲。炉の煙が見える範囲。帰還できる時間内。必ず複数人。資材より命を優先。魔物を見ても追わない。帰還後は炉の前で状態確認」


 アガレスが慌てて書き写す。


「命を優先、魔物を追わない、帰ったら炉の前で確認……」


「長期遠征はしない」


「はい!」


「長く外に出せば、石と鉄を拾う前に氷像が増えるだけだ」


 グレルが静かにうなずいた。


 バルガンは少し物足りなさそうだったが、それでも黙って聞いていた。


 力任せに進めばいい段階ではない。


 外は、ただ広いだけではない。


 寒く、白く、何もかもを見失わせる。


「帰還用の目印がいる」


 ヴェスパーは言った。


「目印ですか?」


「杭を立てる。氷木の杭だ。一定間隔で立てる」


「白い杭ですね!」


「白い地獄に白い杭を立てても意味がない」


「あっ」


「真っ赤に塗れ」


 アガレスの目が輝いた。


「魔物の血ならあります!」


「却下」


「早いです!」


「血の匂いは魔物を呼ぶ。道標のつもりが餌場になる」


「なるほど!」


 アガレスは素直に納得した。


 リトが小さく手を挙げる。


「血以外の赤い素材なら……毒草、苔、菌類に候補があります」


 声は自信なさげだ。


 だが、出てきた言葉は使える。


「匂いがきつくないやつだ」


「……確認します」


「ブエルを呼べ」


 少しして、採取担当の悪魔、ブエルがやって来た。


 おっとりした顔つきの悪魔で、両手にはいつも何かしらの草や木片を抱えている。


「王様、呼びましたかぁ?」


「赤いものを探せ。血以外で、匂いがきつくないやつだ」


「赤いものですかぁ」


 ブエルは首を傾げた。


「北の採取地帯なら、赤いキノコが少しあります。あと、紅霜苔もたぶん……地底湖へ行く手前の風が弱いところに」


「奥へ行きすぎるな」


「はいぃ。地底湖までは行きません」


「毒は?」


「たぶん、あります」


「たぶんじゃ困る」


「リトさんに見てもらいますぅ」


 リトが小さくうなずいた。


「毒性、保存性、匂いを確認します……できる範囲で」


「できる範囲でいい。無理はするな」


 リトは少しだけ目を伏せる。


「……はい」


「ザグは脂と灰で混ぜろ。凍っても剥がれにくい塗料にできるか試す」


「塗料か」


 ザグが小さく息を吸った。


「今の手で、どこまでできるか分からんが……試す」


「それでいい」


 翌日から、採取班が北側を動いた。


 ブエルを中心に、数人の悪魔が短時間だけ外へ出る。


 防寒具を着込み、互いの位置を確認し、採取地帯を離れない。


 北の奥、地底湖方面へは近づかない。


 赤いキノコ。


 紅霜苔。


 燃料になりそうな乾いた根。


 繊維が取れそうな草。


 使えるかどうかわからない木の皮。


 拾っては戻り、炉の前で体を温める。


 リトが毒を調べる。


 ザグが脂と灰を混ぜる。


 赤いキノコは潰すと鮮やかな色を出した。


 紅霜苔は乾かすと色が濃くなる。


 脂と灰を混ぜると、粘りが出る。


 何度も失敗した。


 凍ると剥がれた。


 乾く前に黒ずんだ。


 匂いが強すぎて、ヴェスパーが即座に却下したものもあった。


 リトは、赤いキノコを骨皿に潰していた。


 鼻を近づけ、すぐに離す。


 指先で粘りを確かめ、色の変化を見て、また別の皿へ移す。


「毒はあります。けれど、揮発する匂いは弱いです。乾かせば、たぶん……使えます」


「嬉しそうだな」


「え?」


 リトは驚いたように顔を上げた。


 その目は、不安そうで、それでも少しだけ明るかった。


「毒を調べるのが、役に立つなら……少し」


「十分役に立ってる」


 リトは小さくうなずき、また骨皿へ目を落とした。


 リトは何度も小さな声で「すみません」と言った。


 ザグも何度も「まだ弱いな」と呟いた。


 そのたびに、ヴェスパーは同じことを言った。


「失敗は材料だ。捨てるな。見ろ」


 数回目の試作で、赤い塗料らしきものができた。


 氷木の杭に塗る。


 炉の近くで乾かす。


 外へ持ち出し、風にさらす。


 剥がれない。


 白い荒野の中で、赤はよく見えた。


「いいな」


 ヴェスパーが言うと、アガレスがぱっと顔を明るくした。


「赤い帰還柱です!」


「杭だろ」


「赤い帰還柱です!」


「見えるなら何でもいい」


 ヴェスパーがそう言うと、悪魔たちの間でその名が定着した。


 赤い帰還柱。


 白い地獄に立つ、帰り道の印。


 それはただの赤い杭だった。


 だが、ただの杭ではなかった。


 外に出た者が、戻る方向を失わないためのもの。


 門が見えなくなりそうな時に、次に目指す赤い点。


 吹雪の中で、まだ帰れると知らせるもの。


 ヴェスパーは研究所小屋で、次の仕組みを決めた。


「毎日遠くへ行くな」


 空中キャンバスに、交互の印をつける。


「一日目は採取班。ブエル中心。北で赤いキノコ、紅霜苔、燃料、草、繊維を集める。ただし地底湖方面には入らない」


 次の印。


「次の日は探索班。グレル、バルガン、他数名。東門を出て、南へ回る。赤い帰還柱を立てながら、地形と危険を確認する」


 また次の印。


「その次の日は採取班。探索班が確認した安全範囲で素材を採取し、帰還柱を補修する」


 さらに次の印。


「さらに次の日は探索班。帰還柱をもう少し南へ伸ばす」


 アガレスが、骨筆を握りしめながら復唱する。


「道を伸ばす日と、道を固める日を分けるんですね!」


「そうだ」


「一歩進んで、一歩固める!」


「地獄相手に走るな。足場を作れ」


「はい!」


 アガレスは、まるで名言を聞いたかのように記録帳へ大きく書き込んだ。


 ヴェスパーはそれを見て、少し嫌な顔をした。


「でかく書くな」


「大事なので!」


 研究所小屋では、マッピングも本格的に始まった。


 記録帳から周辺地図のページを押し出すと、空中に地図が広がる。


 中央に村。


 東に東門。


 東の外縁に凍った森。


 北に採取地帯。


 その奥に地底湖。


 西に見張り台。


 南に、まだ空白。


 赤い顔料で帰還柱の位置を点で記す。


 黒い煤で危険地帯を記す。


 骨片で魔物の巣や危険地点を示す。


 アガレスが記録係として地図を更新する。


 フルカスが古い記憶と照合する。


 ヴェスパーが地図を見ながら、次に伸ばす範囲を決める。


 赤い点は、最初は東門のすぐ外に一つだけだった。


 次の日には、南へ回る途中に二つになった。


 その次には、三つになった。


 白い荒野に、赤い点が少しずつ伸びていく。


 探索班が東門を出るたび、白い荒野に赤い点がひとつ増えた。


 吹きつける風は、外套の上からでも皮膚を削るように冷たい。


 足元の氷は白く濁り、少し離れれば門も炉の煙もすぐにぼやける。


 その中で、赤い帰還柱だけが見えた。


 一つ目。


 二つ目。


 三つ目。


 振り返れば、白い地獄の中に、村へ戻るための赤い点が並んでいる。


 グレルは風の匂いを嗅ぎ、バルガンは杭を打ち込み、他の悪魔たちは互いの姿を見失わないよう声を掛け合った。


「前に進むぞ!」


「進みすぎるな!」


 バルガンの声に、グレルが即座に返す。


「王の命令だ。帰れる距離までだ」


 その言葉で、探索班は足を止めた。


 勝つためではない。


 帰るために進む。


 その感覚が、少しずつ彼らの中にも染み込み始めていた。


 村の悪魔たちは、それを見に来た。


 炉の前で温まりながら、門の外を眺める。


「あそこまで行けるのか」


「昨日より先だ」


「赤いのが見える」


「帰ってこられるんだな」


 誰かがそう言った。


 帰ってこられる。


 その言葉は、第九圏ではとても大きかった。


 これまで外は、出たら戻れるかわからない場所だった。


 吹雪に飲まれ、魔物に襲われ、足跡を失い、凍りつく場所だった。


 だが今、そこには赤い印がある。


 帰るための点がある。


 たったそれだけで、悪魔たちの顔つきは少し変わった。


 数日が経過した。


 採取班と探索班の交互リレーで、村の外の地図は少しずつ広がっていった。


 北は採取。


 東は森。


 南は探索。


 その区別ができただけでも、村は少し混乱しなくなった。


 赤い帰還柱は、白い地獄の南側へ点々と続いた。


 ある日。


 探索班が、いつもより早く戻ってきた。


 門番が声を上げる。


 炉の前にいた悪魔たちが振り向く。


 グレルが先頭だった。


 その後ろに、バルガンと数人の悪魔が続く。


 彼らの外套には霜が張りついていた。


 息は荒い。


 だが、目は死んでいない。


「王」


 グレルが研究所小屋の前で膝をつく。


 ヴェスパーは外に出た。


「どうした。魔物か」


「違います」


 グレルは顔を上げた。


「南の白の向こうに、黒がありました」


「黒?」


「切り立った岩場です。氷の下ではありません。剥き出しの岩です」


 周囲がざわついた。


 グレルは、外套の内側から小さな欠片を取り出した。


 黒い石だった。


 ザグがすぐに近づき、それを受け取る。


 爪で削る。


 歯で軽く噛む。


 炉の火にかざす。


 匂いを嗅ぐ。


 動きはまだ少し頼りない。


 だが、その目だけは真剣だった。


「氷ではない」


 ザグの声が低く響いた。


「骨でもない」


 彼はゆっくりと笑った。


「本物の石だ」


 一瞬、広場が静まり返った。


 次の瞬間。


 歓声が爆発した。


「石だ!」


「本当にあったぞ!」


「工房が作れる!」


「炉の周りを固められる!」


「煙道だ! 煙道を作れるぞ!」


 アガレスが跳ねる。


「王様! 石です! 石がありました!」


「見ればわかる」


「でも石です!」


「だからわかるって」


 フルカスが静かに歩み寄った。


 黒い石を見つめ、深く息を吐く。


「次へ、つながりましたな」


 ヴェスパーはザグから石を受け取った。


 冷たい。


 重い。


 確かにそこにある。


 木でもない。


 皮でもない。


 骨でもない。


 燃えて消えるものでも、凍って砕けるものでもない。


 石だ。


 土台になる。


 炉を囲える。


 道を作れる。


 煙を通せる。


 工房を支えられる。


「よし」


 ヴェスパーは石を握った。


「次につながったぞ」


 村に、もう一度歓声が上がった。


 だが、ヴェスパーはすぐに冷静になった。


 岩場を見つけた。


 それは大きい。


 だが、見つけただけだ。


 石は勝手に村まで歩いてこない。


 あの場所で石を切るには、長時間の作業が必要になる。


 今のままでは、作業員が凍る。


 バルガンが胸を叩いた。


「王! 俺なら凍らん!」


「お前一人で村の分の石を全部切る気か」


「切るぞ!」


「何日かかると思ってんだ」


「気合だ!」


「気合で石切り場は回らねぇ」


 バルガンは不満そうに唸ったが、反論はできなかった。


 ヴェスパーは研究所へ戻る。


 記録帳を開く。


 南の探索図のページを押し出すと、空中にキャンバスが広がった。


 東門。


 南へ回る赤い帰還柱。


 その先に記された黒い印。


 黒い岩稜。


 そこまでの道は、まだ細い。


 帰れるだけの道だ。


 作業できる道ではない。


「石を切れる環境を作る必要がある」


 ヴェスパーは言った。


 ザグが眉を上げる。


「環境?」


「炉の熱を、南の石切り場方面へ送る」


 小屋の中が静かになった。


 ザグが、ゆっくりと聞き返す。


「熱を、外へ……?」


「全部じゃない」


 ヴェスパーはすぐに言った。


「村の炉を冷やしたら意味がない。余った分を通す道を作る。途中に暖を取れる場所も置く」


「排管ですか」


 リトが呟く。


「そうだ。全部を溶かすんじゃない。道中に暖を取り、岩場の作業場所を局所的に温める」


 アガレスが手を打った。


「赤い帰還柱の次は、あったかい道ですね!」


 ヴェスパーは少し考えてから、うなずいた。


「まあ、そうだ」


「王様、すごいです!」


「まだ何もできてねぇよ」


「でも、次が見えました!」


 ヴェスパーは、空中の地図を見る。


 北は採取。


 東は森。


 南は探索。


 南の赤い点の先に、黒い岩場がある。


 さらにその奥には、いつか旧採掘坑があるかもしれない。


 だが、今はそこまで行かない。


 地図はまだ狭い。


 第九圏は、もっと広い。


 今見えているのは、北東外縁の小さな集落と、その周囲だけだ。


 それでいい。


 今は、ここから始める。


 ヴェスパーは黒い石を作業台の上に置いた。


「石を見つけた」


 皆が静かに聞いていた。


「次は、石を切れる場所にする」


 炉の火が、ごう、と音を立てる。


 外では、赤い帰還柱が白い荒野に続いていた。


 その先に黒い岩場がある。


 まだ遠い。


 まだ寒い。


 まだ危険だ。


 だが、そこへ至る線は引けた。


 ヴェスパーは指を動かし、記録帳から押し出された地図に、炉から南の岩場へ向かう線を引いた。


「地図の次は、排管だ」


 赤い点の先へ。


 黒い岩場へ。


 そして、炉の熱を外へ。


「白い地獄に、熱の道を通す」


 誰かが息を呑んだ。


 誰かが笑った。


 誰かが拳を握った。


 第九圏の白い荒野に、初めて帰り道ができた。


 次は、その道に熱を通す。


 地獄の改革は、また一歩、南へ伸びようとしていた。


 まだ白い空白の多い地図。


 ヴェスパーはそれを見て、小さく息を吐いた。


「次は、石切り場だ」


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