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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第一章 氷獄に火を灯す

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第十話 門とぼろ布


 防壁はできた。


 柵もできた。


 氷獄の風を遮るための壁は、まだ粗削りではあるが、確かに村を囲んでいた。氷木の杭を打ち込み、魔物の骨で補強し、皮を巻きつけたそれは、まともな城壁と呼ぶにはあまりに雑だったが、それでも昨日までの第九圏には存在しなかったものだ。


 風が弱まった。


 炉の熱が逃げにくくなった。


 悪魔たちが、身を寄せ合わずに立てる時間が増えた。


 それだけでも十分な前進だった。


 だが、ヴェスパーは防壁の一角を見て、眉をひそめた。


 そこには、出入口があった。


 いや、正確には出入口ではない。


 ただの隙間だった。


 防壁をぐるりと巡らせた結果、最後に空けておいた通路。氷木の杭もなく、皮の覆いもなく、白い荒野へ向かって口を開けているだけの場所。


 風が、そこから容赦なく吹き込んでいた。


「……壁だけあっても意味ねぇな」


 ヴェスパーがぼそりと言うと、近くで作業していた悪魔たちが一斉に顔を上げた。


 彼は隙間の前に立ち、腕を組む。


「次は門だ」


 その一言に、アガレスがぱっと顔を輝かせた。


「門ですか!」


 小柄な女悪魔は、凍った地面をぱたぱたと駆けてくる。ぼろ布の裾を揺らしながら、なぜか本人だけはやたら楽しそうだった。


「いいですね、王様!」


「何がいいんだよ」


「ちゃんと閉まるやつにしましょう!」


「そこは最低条件だ」


「閉まらない門は、門じゃないですからね!」


「当たり前のことを元気よく言うな」


 ヴェスパーはため息をついた。


 だが、言っていることは正しい。


 壁があっても、出入口がただ開いているだけでは意味がない。魔物も風も入り放題だ。内側に炉ができ、寝床ができ、加工場が動き始めた今、外と内を分ける仕組みは必要だった。


 門。


 たったそれだけのものが、今の第九圏にはなかった。


「門柱がいるな」


 ヴェスパーは防壁の両脇を指差した。


「太い氷木を二本。深く立てる。まっすぐだ。傾いたら門が閉まらない」


「王!」


 すぐ横で、どすん、と地面が揺れた。


 バルガンだった。


 先ほどまで防壁の補強をしていた巨躯の悪魔が、いつの間にか氷木を一本抱えて立っている。太さは悪魔二人分ほどあり、長さも十分だった。普通なら数人がかりで運ぶものを、バルガンは棍棒でも担ぐように軽々と持ち上げている。


「この柱でいいか!」


「声がでけぇ」


「王! どこにぶっ刺す!」


「まだ刺すな」


「む?」


「その前に板だ」


 ヴェスパーは、防壁の内側に積まれている氷木の山を指差した。


 切り倒した氷木が、長さも太さもばらばらのまま積まれている。炉の燃料にする分。柱に使う分。加工場の補強に使う分。ひとまず使えそうな木を集めておいた結果、そこには雑然とした氷木の山ができていた。


 だが、このままでは使いづらい。


 柱にはなる。


 杭にもなる。


 燃料にもなる。


 しかし、扉にはならない。


「木を切っただけじゃ材料じゃねぇ」


「板ですか!」


 アガレスが反応した。


「ああ。まず板にする」


 近くにいた悪魔の一人が、不思議そうに首を傾げた。


「切るだけなら、魔法でできますが」


「だろうな」


 ヴェスパーはあっさり頷いた。


 悪魔だ。


 ただ木を切るだけなら、刃物がなくてもどうにかなる。炎でも、氷でも、風でも、爪でも牙でも魔法でもいい。丸い刃物を回す必要などない。


 だが、問題はそこではなかった。


「切れるかどうかじゃねぇ」


 ヴェスパーは凍った地面に指で線を引いた。


「毎回、同じように使える形にできるかだ」


 悪魔たちが顔を見合わせる。


 ヴェスパーは続けた。


「厚みを揃えろ。長さを揃えろ。曲がった板と割れた板を分けろ。門に使う板、作業台に使う板、燃料にする端材を分けろ」


「な、なるほどです!」


 アガレスがぽんと手を打つ。


「木を切る場所じゃなくて、材料にする場所ですね!」


「そうだ」


「せいざいしょです!」


「まあ、そんなもんだ」


 ヴェスパーは氷木の山の横を指した。


「切った木を積んでる場所の横に作れ。運ぶ距離が短い方がいい。台を作って、固定して、魔法で切る。切った板は厚みごとに積む」


 バルガンが氷木を抱えたまま、真剣な顔で頷いた。


「王! 俺が切る!」


「お前は割るな」


「む?」


「お前がやると板じゃなくて破片になる」


「難しいな!」


「難しくない。切断が得意なやつを呼べ。力任せはいらん。まっすぐ切れるやつだ」


 ヴェスパーは氷木の一本を軽く叩いた。


「魔法は便利だが、便利なだけじゃ街は建たねぇ。一枚だけ綺麗に切れても意味がない。百枚、同じ厚みにしろ」


 その言葉に、悪魔たちは少しだけ黙った。


 今までの第九圏では、そんな考え方はなかった。


 壊す。


 奪う。


 燃やす。


 砕く。


 食う。


 使えればいい。


 なくなればまた奪えばいい。


 だが、ヴェスパーは違う。


 彼は、同じものを何度も作れるようにしろと言った。


 それはただの作業ではない。


 仕組みだった。


「まずは板を作る。門はその後だ」


 ヴェスパーがそう言うと、悪魔たちは一斉に動き始めた。


 氷木の山の横に、簡単な作業場が組まれていく。


 太い氷木を二本寝かせ、作業台にする。


 魔物の骨を支えに使い、皮紐で縛る。


 丸太が転がらないよう、左右に止め木を入れる。


 切る位置を示すため、焦げた骨で線を引く。


 切断魔法が得意な悪魔が呼ばれ、氷木に手をかざした。


 淡い冷気が走る。


 ぎし、と氷木が鳴った。


 次の瞬間、氷木の表面にまっすぐな裂け目が走り、分厚い板が一枚はがれるように落ちた。


「おお」


 悪魔たちが声を漏らす。


 ヴェスパーは板を持ち上げ、厚みを見る。


「悪くない。だが、まだ厚い」


 切断役の悪魔が慌てて頭を下げる。


「す、すみません」


「謝るな。調整しろ」


「は、はい」


「薄すぎても割れる。厚すぎると重い。門に使うやつはこのくらいで揃えろ」


 ヴェスパーは指で厚みを示した。


 二枚目の板は、見事に割れた。


 まっすぐ切れ目は入っていた。


 だが、最後のところで氷木の繊維が耐えきれず、ばきん、と乾いた音を立てて斜めに裂けた。


「あっ」


 切断役の悪魔が固まる。


 アガレスも固まる。


 バルガンだけが、腕を組んで大きく頷いた。


「王! 割れたぞ!」


「見りゃわかる」


「使えんのか!」


「使える。門板には無理だが、補強材にはなる」


「おお!」


「だから勝手に捨てるな。失敗品にも使い道はある」


 ヴェスパーは割れた板を拾い上げ、欠けた部分を指でなぞった。


「ただし、同じ割れ方を何度もするなら原因を探せ。木が悪いのか、切り方が悪いのか、厚みが悪いのか」


 悪魔たちは顔を見合わせた。


「失敗したら終わりじゃねぇ」


 ヴェスパーは言った。


「失敗した理由がわかれば、次は材料になる」


 アガレスが目を輝かせた。


「王様、失敗も素材なんですね!」


「その言い方はちょっと嫌だな」


「失敗素材です!」


「もっと嫌だな」


 ヴェスパーは割れた板を端材の山ではなく、補強材の山へ置いた。


「作業台用はもっと厚くていい。端材は炉へ回せ。欠けた板は補強材にする。捨てるな」


「王様、分類ですね!」


 アガレスが嬉しそうに言った。


「そうだ。分類だ」


「板がいっぱいです!」


「板がないと何も始まらん」


 製材所。


 そう呼ぶにはあまりに粗末だった。


 屋根もない。


 壁もない。


 丸ノコもない。


 刃物すら満足にない。


 だが、氷木を置き、固定し、魔法で切り、厚みを揃え、用途ごとに積み分ける場所ができた。


 それは、この村で初めて生まれた材料の規格化だった。


 切った木が、ただの木ではなくなる。


 板になる。


 柱になる。


 端材になる。


 燃料になる。


 補強材になる。


 使い道ごとに分けられた材料は、それだけで可能性を増やしていく。


 門。


 寝床。


 棚。


 作業台。


 工房。


 いつか建てる研究所。


 まだ名前だけの未来が、板の山の中に少しずつ見え始めていた。


「王様!」


 アガレスが製材所の横で跳ねる。


「板、できてきました!」


「ああ」


「門、作れますね!」


「作るぞ」


 ヴェスパーは門の隙間へ戻った。


 そこで改めて、門柱の位置を決める。


「ここと、そこだ。門幅は荷車が通れるくらい欲しい。まだ荷車ないけどな」


「荷車!」


 アガレスがまた反応した。


「次は荷車ですか、王様!」


「今は門だ」


「はい! 門です!」


 バルガンは大きく頷き、氷木を担いだまま指定された位置へ向かった。


 完全に舎弟だった。


 先日の騒動のあと、バルガンは妙に素直になっていた。もともと力で物事を決める悪魔らしい悪魔だったが、ヴェスパーに真正面から叩き伏せられたことで、何かが腑に落ちたらしい。


 以降、何かにつけて「王!」と呼び、力仕事に張り切って参加している。


 問題は、張り切り方が雑なことだった。


「よし、そこだ。まず穴を――」


「おおおおおおおっ!」


「待て」


 止めるより早く、バルガンは氷木を地面へ突き立てた。


 轟音。


 氷の地面が砕け、門柱が深く沈み込む。


 周囲の悪魔たちが「おお」と声を上げた。


 ヴェスパーは黙ってそれを見ていた。


 門柱は立った。


 確かに立った。


 だが、想定よりかなり深かった。


「……おい」


「王! 刺さったぞ!」


「刺さりすぎだ」


「む?」


 バルガンが首を傾げる。


 アガレスが門柱の根元を覗き込み、きらきらした目で言った。


「すごいです! 深いです!」


「褒めるところか?」


「でも抜けなくなってませんか?」


「そこだよ」


 ヴェスパーは額を押さえた。


 幸い、深く入りすぎただけで、位置自体は大きくずれていない。門柱としては使える。むしろ強度はあるかもしれない。


 ただし、調整が面倒になった。


「バルガン」


「なんだ、王!」


「次は、俺が合図するまで刺すな」


「わかった!」


「あと、刺すって言うな。門柱を立てる、だ」


「門柱を刺す!」


「聞け」


 周囲の悪魔たちが小さく笑った。


 それは、ほんの少し前の第九圏では考えられない光景だった。


 怒号ではない。


 罵声でもない。


 ただの作業中の笑い声。


 ヴェスパーはそれを聞きながら、二本目の門柱の位置を確認した。


 こちらは慎重にやらせる。


 穴を掘らせ、砕いた骨を敷き、氷木を立て、周囲を氷と土と皮で固定する。バルガンには支え役に回ってもらい、細かい調整は他の悪魔に任せた。


「まっすぐだ。傾けるな」


「王、これでいいか!」


「もう少し右」


「右!」


「行きすぎだ」


「戻す!」


「戻しすぎだ」


「難しいな!」


「門柱は戦闘じゃねぇからな」


 どうにか二本の門柱が立った。


 粗いが、門らしい形は見えてきた。


 問題は扉だった。


 最初、ヴェスパーは門柱に扉を吊るす形を考えた。


 だが、すぐに首を振る。


「……いや、無理だな」


「なになにですか、王様?」


 アガレスが首を傾げる。


「蝶番がない。金属も足りない。重い氷木の扉なんか吊ったら、たぶん一日で壊れる」


「ちょうつがい……」


「扉を開け閉めする金具だ」


「ないと困るやつですね!」


「今、困ってる」


 ヴェスパーは門柱の間を見つめた。


 ちゃんとした門を作るには、まだ技術が足りない。


 金属加工も足りない。


 正確な部品も足りない。


 ならば、今できる形に落とすしかない。


「吊るすのはやめる」


「やめるんですか?」


「ああ。横にずらす」


 アガレスがぱちぱちと瞬きをする。


「横ですか?」


「製材所で作った板を組んで、でかい衝立みたいな扉を作る。門柱の内側に溝を作って、そこに差し込む。開けるときは横にずらす。閉めるときは戻す」


「横扉ですか!」


「そんな立派なもんじゃねぇけどな」


 ヴェスパーは凍った地面に図を描く。


 門柱の内側に、氷木と骨で簡単な溝を作る。


 そこへ横板を組んだ衝立をはめる。


 下にも浅い溝を掘り、扉が外れないようにする。


 開けるときは横へ滑らせる。


 閉めるときは戻す。


 最後に、内側から太い氷木の棒を渡して固定する。


「鍵は?」


 アガレスが尋ねる。


「鍵なんてもんはまだ作れねぇ」


「じゃあ、どうやって閉めるんですか?」


「つっかえ棒だ」


「つっかえ棒!」


「門の内側に横棒を落とす。外から押されても開かないようにする。原始的だが、今はそれでいい」


 バルガンが腕を組んで頷いた。


「王! つまり、押してきたやつを俺が殴ればいいんだな!」


「それは最後だ」


「最後か!」


「まず門で止める。次に槍で突く。どうにもならなきゃお前が殴れ」


「わかった!」


 ヴェスパーは門柱を叩いた。


「初期型だ。ちゃんとした金具が作れるようになったら作り直す」


「作り直すんですか?」


「当たり前だ。最初から完璧なものなんか作れねぇ」


 彼は白い息を吐いた。


「今いるのは、閉まる門だ」


 製材所から板が運ばれてくる。


 厚みの揃った氷木の板。


 まだ表面は粗いが、ただの丸太よりははるかに扱いやすい。


 ヴェスパーは板を並べさせ、横方向に組ませた。縦に立てた板ではなく、横に渡した板を何段にも重ねる形だ。両端には厚めの板を当て、魔物の骨で芯を入れる。皮紐で締め、さらに氷で固める。


 見た目は、巨大な衝立だった。


 扉というより、横に動く壁である。


「重いな」


 ヴェスパーが呟く。


 悪魔たちが数人がかりで押すと、ぎしぎしと音を立てながら衝立門が動いた。


 下の溝に氷の粉が詰まる。


 すぐに止まる。


「溝が浅い。あと、削れ」


「削るんですか?」


「滑らせるなら抵抗を減らせ。接地面を少なくしろ。骨を敷いて滑りをよくしてもいい」


 悪魔たちは言われるがままに調整した。


 骨を削って細長い滑り材にする。


 門の下に取り付ける。


 溝の中の氷を削る。


 動かす。


 止まる。


 また削る。


 動かす。


 少し滑る。


「よし。今はこれでいい」


 ヴェスパーは頷いた。


 完璧ではない。


 重い。


 動きが悪い。


 外から強く叩かれれば壊れる可能性もある。


 だが、閉まる。


 それだけで今は十分だった。


 彼は門を見ながら、ふと周囲に目を向けた。


 門を押す悪魔たち。


 製材所で板を積む悪魔たち。


 加工場で肉を吊るす悪魔たち。


 炉の近くで氷木の端材を運ぶ悪魔たち。


 その姿を見て、ヴェスパーは固まった。


「……あれ?」


「なになにですか?」


「よく見たら、お前ら服やばくね?」


 アガレスが自分の服を見下ろした。


 服、と呼ぶにはかなり苦しい。


 破れた布。


 魔物の皮。


 凍った血の染み。


 あちこちが裂け、紐で無理やり縛っている。防寒性能などあるはずもない。ただ肌を隠しているだけのぼろ布だった。


 周囲の悪魔たちも似たようなものだ。


 皮を巻いただけ。


 布切れを肩にかけただけ。


 裸同然の者すらいる。


 これまでヴェスパーは、寒さと飢えと住処ばかり見ていた。


 火。


 飯。


 寝床。


 壁。


 それだけで手一杯だった。


 だから気づくのが遅れた。


 いや、正確には見えていたのに、問題として認識していなかった。


「っていうか」


 ヴェスパーは自分の服を見た。


 ひどかった。


 石棺から出てきたときのまま、よくわからない布と皮を巻きつけ、破れた箇所をそのまま放置している。ところどころ焦げ、ところどころ凍り、もはや衣服というより遭難者の残骸だった。


「俺もやばくね?」


「王様、今気づいたんですか?」


 アガレスがきょとんとした顔で言った。


 ヴェスパーは無言で彼女を見た。


 少し離れた場所で、フルカスが静かに口を開く。


「いつお気づきになるかと」


「言えよ」


「王は常に忙しそうでしたので」


「気遣いが変な方向に出てるな」


 ヴェスパーは深いため息を吐いた。


 衣食住。


 食と住はどうにかなり始めた。


 だが、衣が抜けていた。


 この地獄で外に出るなら、防寒着がいる。作業するなら作業着がいる。炉番には耐熱手袋がいる。狩猟番には外套と靴がいる。探索隊を出すなら、手袋、靴、防寒具、荷袋、全部いる。


 裸足で氷獄を歩くなど、ただの自殺だ。


「食と家はどうにかなった」


 ヴェスパーはぼそりと言った。


「次は服だ」


 アガレスがぱちぱちと瞬きをする。


「服ですか!」


「そうだ」


「王様の服もですか?」


「俺のもだ」


「やったー!」


「なぜ喜ぶ」


「王様が王様っぽくなります!」


「そこは期待するな。まず防寒だ」


 ヴェスパーは頭を掻いた。


「衣食住って、そういうことかよ」


 言葉としては知っていた。


 だが、実際に何もない場所で生活を立て直すと、その順番と重さが骨身に染みる。


 食べる。


 寝る。


 凍えない。


 働く。


 守る。


 外に出る。


 すべてがつながっていた。


 ヴェスパーはアガレスを見た。


「アガレス」


「はい、王様!」


「村の中から、工房に必要そうな知識持ってるやつを探してきてくれ」


「なになにですか?」


 アガレスが身を乗り出す。


「皮、保存、鍛冶、水路、道具。何でもいい。昔やってたとか、少し知ってるとか、それでいい」


「物知りそうな子を探せばいいんですね!」


「子かどうかは知らんが、まあそうだ」


「行ってきます、王様!」


 アガレスは勢いよく駆け出した。


 途中で一度転びかけたが、すぐに立て直して村の奥へ消えていく。


 ヴェスパーはその背中を見送りながら、門へ視線を戻した。


 門はまだ途中だ。


 だが、門だけ作っても意味は半端だ。


 この寒さの中で動くなら、まず防寒具がいる。


 服を作るための職人がいる。


 職人が道具を作るための工房がいる。


 工房を回すための知識がいる。


 結局、街というものは、人の集まりではなく、役割の集まりなのだ。


「強いだけじゃ回らねぇな」


 ヴェスパーは小さく呟いた。


 バルガンが近くで胸を張る。


「王! 俺は強いぞ!」


「知ってる」


「門番なら任せろ!」


「それは助かる」


「敵が来たら潰す!」


「できれば門は壊すなよ」


「む?」


「敵を潰して門も潰したら意味ねぇからな」


「難しいな!」


「難しくない」


 バルガンは真剣な顔で門を見た。


 たぶん、本気で考えている。


 ヴェスパーは少しだけ笑い、門の調整を続けた。


 門柱の内側に溝を整え、横扉をはめる。骨で滑りを補助し、皮紐で補強し、内側には太い横棒を置くための受けを作る。


 鍵ではない。


 錠前でもない。


 ただのつっかえ棒だ。


 だが、内側から棒を落とせば、外からは簡単に開かない。


 今の村には、それで十分だった。


 しばらくして、アガレスが戻ってきた。


「王様ー!」


 声が聞こえた瞬間、ヴェスパーは顔を上げた。


 アガレスの後ろには、三人の悪魔がいた。


 古い悪魔たちのような威圧感はない。


 フルカスのような老獪さも、バルガンのような圧もない。


 むしろ、悪魔というには随分おどおどしていた。


 三人とも目を合わせようとしない。


 一人は服の裾を握りしめている。


 一人は肩を丸めている。


 一人は周囲の様子をうかがい、バルガンを見るたびにびくっと震えていた。


「連れてきました!」


 アガレスは得意げに胸を張った。


「物知りそうな子たちです!」


「子って言うな」


「でも、みんな小さくなってました!」


「精神的にだろ」


 ヴェスパーは三人の前に立った。


 三人は同時に肩を跳ねさせる。


 怯えている。


 ヴェスパーは少しだけ声を落とした。


「お前ら、名前は?」


 最初に口を開いたのは、小柄な女悪魔だった。


 髪は薄い灰色で、角も小さい。服はぼろぼろだが、破れた部分を妙に丁寧に縫い合わせている。手元の皮紐の結び方も、他の悪魔よりずっと整っていた。


「メ、メルツ……です」


「メルツ。何ができる?」


「こ、こういうの……少しだけ、やってました」


 メルツは自分の服の裾をつまんだ。


「皮を柔らかくしたり、縫ったり、防寒用に重ねたり……魔物の皮なら、外套や手袋にできると思います」


 ヴェスパーは目を細めた。


「なめしもできるのか?」


「ちゃんとした薬品はないですけど……脂と灰と、炉の熱があれば、たぶん」


「十分だ」


 メルツが驚いたように顔を上げた。


 次に、痩せた男悪魔が口を開く。


 手足が細く、表情は暗い。だが、視線だけは門の溝や炉の排気口に何度も向いていた。


「ザグ……です」


「ザグ。鍛冶か?」


「鍛冶……というほどでは。ただ、機構なら少し」


「機構?」


「滑車とか、留め具とか、圧を逃がす弁とか……空気の流れを変える筒とか……」


 ザグはぼそぼそと続けた。


「炉は、今のままだとたぶん危ないです。熱がこもる場所と、煙が戻る場所があります。圧を逃がす弁なら……たぶん、作れます」


 ヴェスパーの目が鋭くなった。


「お前、今すぐ炉を見ろ」


「えっ」


「あとでいい。いや、やっぱり今すぐ見ろ。死ぬ前に直す」


「え、ええ……」


 ザグは困惑したが、ヴェスパーは完全に採用の顔をしていた。


 最後の一人は、中性的な顔立ちの悪魔だった。


 声も柔らかい。だが、目の奥だけは妙に観察力がある。肉の吊るされた加工場をじっと見ていた。


「リト……です」


「リト。お前は?」


「腐らせない方法なら……少し、知ってます」


「保存か」


「はい。燻製、塩漬け、発酵……あと、菌類も少し」


 ヴェスパーは一瞬止まった。


「菌類?」


「はい。寒い場所でも育つものがあります。食べられるものと、毒になるものがありますけど……」


「キノコか」


「たぶん、それに近いです」


 ヴェスパーは、三人を順に見た。


 戦える悪魔ではない。


 少なくとも、正面から魔物を殴り倒すような連中ではなかった。


 だが、三人とも視線の向く先が違う。


 メルツは、破れた布と皮紐を見ている。


 ザグは、門の溝と炉の煙を見ている。


 リトは、吊るされた肉と凍った血の色を見ている。


 怯えてはいる。


 だが、何も見ていないわけではない。


「……なるほどな」


 ヴェスパーは小さく呟いた。


「お前ら、弱いんじゃねぇ。見てる場所が違うだけだ」


 三人は、言葉の意味がわからないように目を瞬かせた。


 ヴェスパーは空を見上げた。


 白い地獄。


 凍った大地。


 光のない第九圏。


 そんな場所で育つものなど限られている。


 だが、菌類。


 保存食。


 発酵。


 温室。


 それらの言葉が頭の中でつながっていく。


「よし」


 ヴェスパーは言った。


 三人が同時にびくっとした。


「ひとまず広場に集める」


「へ……?」


「素材も、道具も、人もだ。皮、骨、端材、脂、灰、使えそうな金属片。全部、広場の一角にまとめろ」


 三人は顔を見合わせた。


 メルツが、おずおずと手を上げる。


「あ、あの……工房は?」


「まだない」


 ヴェスパーは即答した。


「ええっ」


「だから、まず広場でやる。屋根も壁も設備も、必要になった順に建てる」


 ザグが戸惑った顔で尋ねる。


「では、炉の調整や試作も……?」


「広場の端だ。人が寝てる場所から離せ。爆発しそうなものは、さらに離せ」


「ば、爆発する前提ですか」


「お前、さっき圧を逃がす弁がどうとか言ってただろ。信用はしてるが、油断はしない」


 ザグは小さく肩をすくめた。


 リトが加工場の方を見る。


「保存食の試作も、広場で?」


「ああ。肉、脂、灰、塩になりそうなもの、乾かせる場所。全部見て、何が使えるか分けろ」


 ヴェスパーは三人を順に見た。


「今は建物より先に、作業の流れを作る」


「流れ……」


「何が必要で、何が足りなくて、何を先に建てるべきか。それを見極める。いきなり工房を建てても、中で何をするかわかってなきゃ無駄だ」


 アガレスがぱっと顔を輝かせた。


「つまり、まずは広場研究会ですね、王様!」


「名前をつけるな」


「広場実験場ですか?」


「もっと危なそうになったな」


 ヴェスパーはため息をつき、広場の一角を指差した。


「とにかく、あそこだ。素材を集めろ。皮を扱う場所、炉をいじる場所、保存を試す場所を分ける。混ぜるな。燃えるものと火を近づけるな。腐るものと服を近づけるな」


「王様、細かいです!」


「細かくしないと死ぬんだよ」


 メルツ、ザグ、リトはまだ不安そうだった。


 だが、何をすればいいのかは少しずつ見え始めていた。


 皮を集める。


 灰を集める。


 骨を削る。


 脂を分ける。


 端材を積む。


 壊れた金属片を拾う。


 今まで散らばっていたものが、広場の一角へ集められていく。


 ヴェスパーはそれを見て、小さく頷いた。


「工房は後で建てる」


 彼は言った。


「製材所、皮革工房、保存小屋、機構を試す場所。必要な順に作る」


 アガレスが目を輝かせる。


「じゃあ、そのうち研究所も作るんですか?」


「作る」


 ヴェスパーはあっさり答えた。


「変な試作と面倒な実験をまとめる場所がいる。だが、今はまだ小屋すらない」


「研究所……!」


「だから今は広場だ」


「広場から研究所です!」


「勝手に壮大にするな」


 それでも、アガレスは嬉しそうだった。


 メルツ、ザグ、リトの三人は、不安そうに広場の一角を見た。


 そこにあるのは、まだ建物ではない。


 ただ、素材と道具と悪魔たちが集まり始めた場所。


 だが、何もなかった第九圏にとっては、それだけでも十分な始まりだった。


「強いだけじゃ街は回らねぇ」


 ヴェスパーは門を指差した。


「門を作るやつがいる。服を作れるやつがいる。炉を安全にするやつがいる。食い物を腐らせねぇやつがいる」


 次に、製材所を指す。


「木を切れるやつだけじゃ駄目だ。板にして、揃えて、使える材料にするやつがいる」


 そして、加工場を指した。


「肉を獲るやつだけじゃ駄目だ。保存できなきゃ腐る。腐れば魔物を呼ぶ。凍れば食えない。燃やせば消える」


 最後に、三人を見た。


「お前らはそれができる。なら十分だ」


 メルツは口を開きかけ、閉じた。


 ザグは自分の手を見た。


 リトは小さく息を呑んだ。


 彼らは、強い悪魔ではない。


 第九圏では、そういう者から凍えていったのだろう。戦えず、奪えず、声を上げられず、ただ縮こまって生き延びてきた。


 だが、ヴェスパーから見れば違う。


 彼らは、街を動かす側の悪魔だった。


 刃を振るう者ではなく、針を持つ者。


 炎を吐く者ではなく、炉の圧を読む者。


 肉を食らう者ではなく、肉を保存する者。


 それは弱さではない。


 役割だ。


 ヴェスパーは門の方へ歩き出した。


 門。


 服。


 広場に集まり始めた素材と人材。


 どれもまだ始まりにすぎない。


 だが、始まりが重なれば、道になる。


「門を作る」


 彼は指を折る。


「服を作る」


 もう一本。


「外に出る」


 三本目。


「そのための暖を取る仕組みもいるな」


 ヴェスパーは荒野を見た。


 防壁の外には、ただ白い地獄が広がっている。今は村の周囲しか見えていない。だが、いずれ外へ出なければならない。


 資材。


 鉱石。


 燃料。


 水路。


 他の悪魔。


 魔物の巣。


 地獄の構造。


 知らなければ、作れない。


「懐に入れる小さい炉みたいなの、作れねぇかな」


 ヴェスパーが呟いた。


「探索用だ」


 ザグが反応した。


「小型の発熱具……ですか?」


 メルツもおずおずと口を開く。


「外套の内側に、熱を逃がさない袋を作れば……火傷しないように皮を何層か重ねて……」


 リトが続ける。


「燃料を長く保たせるなら、乾いた脂や、圧縮した繊維が使えるかもしれません」


 ヴェスパーは三人を見た。


「ほらな」


 三人は不安そうに顔を見合わせた。


「お前ら、もう広場行きだ」


「ええ……」


 小さな悲鳴が三つ重なった。


 その間にも、門の作業は進んでいた。


 製材所から運ばれた板で組んだ横扉が、門柱の内側に差し込まれる。


 氷木と骨で作った溝に、巨大な衝立門がはまる。


 悪魔たちが数人がかりで押す。


 ぎし、と音がした。


 重い。


 だが、動く。


 横へずれる。


 出入口が開く。


 次に、反対側へ押し戻す。


 ぎぎ、と鈍い音を立てながら、衝立門が閉じていく。


 最後に、内側の受けに太い氷木の横棒を落とした。


 どん、と低い音がする。


 門が止まった。


 隙間がふさがった。


 風が止まった。


 その瞬間、村の中が静かになった。


 誰も何も言わなかった。


 ただ、閉じた門を見ていた。


 今までは、どこまでが村で、どこからが外なのか曖昧だった。


 炉があっても、寝床があっても、加工場があっても、白い地獄はいつでも入り込んできた。


 だが今、門が閉じた。


 内と外が分かれた。


 風が遮られた。


 悪魔の一人が、小さく呟いた。


「閉まった」


 別の悪魔が言った。


「風が止まる」


 さらに誰かが、信じられないように笑った。


「これ、村じゃねぇか」


 アガレスが跳ねた。


「王様ー!」


 彼女は門の前で両手を上げる。


「閉まりました!」


「ああ」


「ちゃんと門です!」


「ちゃんと門だな」


 ヴェスパーは少しだけ笑った。


 完璧な門ではない。


 重い。


 滑りも悪い。


 鍵はただの横棒だ。


 強い魔物が突っ込めば、たぶん壊れる。


 だが、それでも門だった。


 開き、閉じ、内と外を分ける。


 それだけで、村は一歩、街に近づいた。


 門の内側には、炉がある。


 寝床がある。


 加工場がある。


 防壁がある。


 製材所がある。


 そして広場の一角には、皮、骨、脂、灰、端材、壊れた金属片が集められ始めていた。


 まだ工房ではない。


 研究所でもない。


 ただの作業場所だ。


 だが、そこにはメルツがいて、ザグがいて、リトがいた。


 服を作る者。


 炉と仕組みを見る者。


 食べ物を腐らせない者。


 強さとは違う力が、ようやく村の中で場所を得ようとしていた。


 門の外には、白い荒野が広がっていた。


 どこまでも凍りついた第九圏。


 何も許さず、何も与えず、ただ奪うためだけにあるような地獄。


 メルツ、ザグ、リトの三人は、広場に積まれた素材の山を不安そうに見ていた。


 バルガンは門の前で仁王立ちしている。すでに門番のつもりらしい。


 フルカスは少し離れた場所で、静かに一連の光景を見守っていた。


 アガレスは、なぜか誰よりも誇らしげだった。


 ヴェスパーは門の前に立つ。


 外を見る。


 白い地獄を見る。


「門はできた」


 彼は言った。


「服も作る」


 悪魔たちが彼を見る。


「設備は順次建てる」


 アガレスの目が輝く。


 バルガンが拳を握る。


 フルカスがわずかに目を細める。


 ヴェスパーは、門の向こうを見据えた。


「その次は――外だな」


 白い風が、門の隙間をかすかに鳴らした。


 門の向こうに広がる白い地獄は、まだ何一つ許してはいなかった。


 だが今のヴェスパーには、それをこじ開けるための拠点があった。


 火がある。


 飯がある。


 壁がある。


 門がある。


 そして、役割を与えられた悪魔たちがいる。


 まだ街ではない。


 だが、もうただ凍えて終わるだけの集落でもなかった。


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