第六話 裏切り
五月になった。
志乃は毎日動いた。
銀行を回り、融資の相談をした。三行に断られた。四行目でようやく話を聞いてもらえた。担当者は若い女性で、志乃の事業計画書を丁寧に読んでくれた。
「審査に二週間ほどかかります」
それだけで志乃は頭を下げた。
並行して、派遣元責任者講習を受けた。一日がかりの講習で、労働者派遣法の基礎から派遣スタッフの管理まで、びっしり詰め込まれた。隣に座った五十代の男性が途中で居眠りしていた。志乃は一言も聞き漏らさなかった。
事務所も見つけた。駅から徒歩八分、二十二平方メートルの小さな部屋。家賃は月七万円。許可要件の二十平方メートルをぎりぎり超えていた。
一つずつ、前に進んでいた。
そんな時、田中から連絡が来た。
田中誠二、四十二歳。志乃が前の会社にいた頃の取引先だった。人当たりがよく、いつも志乃の仕事を褒めてくれた。
「起業するって聞いたよ。応援してる。うちの会社、ベビーシッターの需要があるから、ぜひ契約したい」
志乃は胸が高鳴った。
初めての顧客になるかもしれなかった。
田中と会うことにした。
待ち合わせは駅前のカフェだった。
田中は先に来ていた。よく日焼けした顔で、白い歯を見せて笑った。
「志乃ちゃん、元気そうだね。起業、すごいよ。俺、感動した」
志乃は事業の説明をした。ベビーシッター派遣に特化すること、子育て中の女性スタッフを優先して採用すること、企業の福利厚生として導入してほしいこと。
田中は何度もうなずいた。
「いいね、いいね。で、初期費用はどのくらい?」
志乃は資料を出した。
田中はそれをざっと見て、少し考えるような顔をした。
「ねえ志乃ちゃん、一つ相談があるんだけど」
「はい」
「うちの会社、今ちょっと資金繰りが厳しくてさ。先に契約金として五十万払ってもらえると、すぐ動けるんだけど」
志乃は田中を見た。
「契約金、ですか」
「そう。形式上ね。後で全部返すから。志乃ちゃんのこと信用してるから言えるんだよ」
志乃は資料をゆっくり閉じた。
何かが、おかしかった。
顧客が先に契約金を払う。そんな話は聞いたことがなかった。
「少し考えさせてください」
田中の顔が一瞬曇った。すぐ笑顔に戻った。
「もちろん。でも早いほうがいいよ。他にも声かけてるから」
家に帰って、志乃はすぐ調べた。
田中の会社名で検索した。
出てきた。
口コミサイトに書き込みがあった。
「契約金を取られたまま音信不通になった」「詐欺まがいの手口」「複数の被害報告あり」
志乃はスマホを置いた。
騙されるところだった。
怒りよりも先に、疲れが来た。
信用した人間だった。応援してくれると思った。
志乃はしばらく動けなかった。
陽子が麦茶を持ってきた。
志乃の顔を見て、何も聞かなかった。ただ隣に座った。
あかりが志乃の膝に乗ってきた。小さな手が志乃の指を握った。
志乃はあかりを抱き寄せた。
泣かなかった。
ただあかりの温かさだけを、しばらく感じていた。
——幸せはまだ、飛んでいる途中だ。
探すのをやめない。絶対に、やめない。




