第五話 二千万の壁
日本政策金融公庫の相談窓口は、駅から歩いて十分のビルの四階にあった。
志乃は番号札を取って、待合の椅子に座った。
隣には五十代くらいの男性が分厚い書類を膝の上に置いていた。向こうの席には若い男性が二人、ノートパソコンを広げていた。
みんな、何かを始めようとしている人たちだった。
番号が呼ばれた。
担当者は三十代の男性だった。名札に「村田」と書いてあった。
志乃が事業計画を説明すると、村田は静かに聞いた。メモを取りながら、時々うなずいた。
説明が終わると、村田は一枚の紙を出した。
「人材派遣業の許可要件なんですが」
紙には数字が並んでいた。
基準資産額:二千万円以上
志乃はその数字を見た。
「貯金は百二十万です」
村田は少し間を置いた。
「創業融資で補うとして、自己資金が少ないと審査が厳しくなります。通常、融資額は自己資金の二倍程度が目安で」
「二百四十万、ということですか」
「目安として、はい」
志乃は計算した。百二十万+二百四十万=三百六十万。二千万まで、まだ一千六百万以上足りなかった。
「他に方法はありますか」
村田はもう一枚紙を出した。
「民間の金融機関への融資相談、あとは事業規模を小さく始めて実績を積む方法もあります。ただ派遣業は許可が下りるまで事業ができませんので——」
志乃は深く息を吸った。
「わかりました。ありがとうございます」
帰り道、志乃は川沿いの道を歩いた。
遠回りだったが、まっすぐ帰れなかった。
二千万。その数字が頭の中で鳴り続けていた。
甘かった。自分の見通しが、甘すぎた。
川の水が光っていた。春の午後だった。
志乃はベンチに座って、スマホを開いた。
検索した。「派遣業 資産要件 クリア方法」
いくつかの記事が出てきた。読んだ。また読んだ。
一つの方法が目に止まった。
増資——株主から出資を募る。
志乃はスマホを閉じた。
出資してくれる人間が、どこにいる。
川を見た。水は黙って流れていた。
その夜、俊一が珍しく早く帰ってきた。
夕飯を食べながら、志乃は今日のことを話した。二千万の壁のこと、融資では足りないこと、出資を募る方法があること。
俊一は黙って聞いていた。
話し終えると、俊一は箸を置いた。
「正直に言う」
志乃は俊一を見た。
「俺は反対じゃない。でも心配だ。あかりはまだ一歳だし、もし失敗したら——」
「失敗しない」
「根拠は」
志乃は少し間を置いた。
「ない。でもやる」
俊一はまた黙った。しばらくして言った。
「俺の貯金、三百万ある。使っていい」
志乃は俊一を見た。
「いいの」
「家族だろ」
それだけだった。多くを語らない男だった。でも今日の三百万は、志乃には何より重かった。
「ありがとう」
俊一は照れたように箸を取った。
「飯、冷めるぞ」
その夜遅く、志乃はノートに数字を書いた。
自己資金百二十万、俊一の三百万、融資で積み増す分。それでもまだ足りなかった。
でも昨日より、少しだけ前に進んでいた。
志乃はノートを閉じて、あかりの部屋を覗いた。
小さな寝顔が、暗がりの中にあった。
幸せはどこへ飛んでいったのか。まだわからない。
でも明日、また探しに行く。




