第四話 幸せの話
退職から一ヶ月後、志乃は区役所に行った。
開業届の書き方がわからなくて、窓口で三十分かかった。担当者の男性は丁寧だったが、志乃の質問が多すぎて少し困った顔をしていた。
それでも書類は受理された。
帰り道、志乃はコンビニでお茶を買って、公園のベンチに座った。
鞄の中に、さっきもらった控えが入っていた。
個人事業主 天野志乃
たった一枚の紙だった。でもその一枚が、今日の志乃の全部だった。
家に帰ると、陽子がリビングであかりと遊んでいた。
積み木を積んで、あかりが崩す。積んで、崩す。それを飽きずに繰り返していた。
志乃は鞄を置いて、その隣に座った。
「開業届、出してきた」
陽子は積み木を一つ手に取りながら言った。
「そうか」
しばらく三人で積み木をした。あかりが笑うたびに、部屋が少し明るくなった。
夜、あかりを寝かしつけてリビングに戻ると、陽子がお茶を入れて待っていた。
珍しかった。陽子がこうして待っているのは。
志乃は向かいに座った。
陽子はお茶を一口飲んで、少し遠くを見るような目をした。
「志乃、赤ちゃんってなんで泣きながら生まれてくるか、知ってるか」
志乃は首を振った。
「生まれた瞬間に、幸せが飛んでいくんだよ」
陽子は静かに言った。急ぐでもなく、教えるでもなく、ただ話すように。
「ふわっと飛んでいく。どこへ行くかは誰もわからない。だから赤ちゃんは泣くんだ。悲しくて泣くんじゃない。さあ、行くぞって泣くんだよ」
志乃は黙って聞いていた。
「寝て、寝返りして、ヨチヨチ歩いて。喋るようになって、立って、走り出して。ぜんぶ、その幸せを探す旅なんだ。生まれた瞬間からね」
陽子はあかりが寝ている部屋の方を見た。
「あかりも今日、一生懸命探してたよ。積み木の向こう側に何があるか知らないけど、崩すたびに笑ってた」
志乃は目の奥が熱くなった。泣かなかった。
「お母さんは」と志乃は言った。「見つけたの。自分の幸せ」
陽子は少し笑った。
「さあね。でも探してる途中が、一番よかったかもしれないね」
お茶が冷めていた。志乃はそれを両手で包んで、飲んだ。
その夜、志乃はノートを開いた。
会社の名前をまだ決めていなかった。
ベビーシッター派遣。子育て中の女性を守る会社。自分が欲しかった会社。
ペンを持って、しばらく考えた。
そして書いた。
株式会社 あかりワーク
あかりの名前を入れた。この子が生まれた日に、志乃の幸せも飛んでいったから。だから一緒に探しに行く。
ペンを置いて、志乃は窓の外を見た。
夜空に星が一つ見えた。
——ママを見ててね、あかり。
今度は声に出して言えた。小さく、でもはっきりと。
部屋の奥で、あかりが寝息を立てていた。




