第三話 最初の一歩
退職から一週間後、志乃はハローワークに行った。
番号札を取って、プラスチックの椅子に座った。周りは志乃より年上の人ばかりだった。スーツの男性、疲れた顔の女性、手に書類を持った老人。
番号が呼ばれて、窓口に座った担当者は四十代くらいの女性だった。
「お仕事を辞められた理由は?」
「職場環境です」
「具体的には?」
「産休明けに、仕事を与えてもらえなかったので」
担当者は少し眉を動かして、何かを入力した。
志乃は窓口を出てから、もう来ないと思った。
失業給付をもらいながら次の仕事を探す。それが普通のルートだとわかっていた。でも志乃の頭の中に、別のことがあった。
それから二週間、志乃はあかりと向き合った。
朝ごはんを作って、公園に連れて行って、昼寝をさせて、夕飯を作る。陽子に頼り続けてきた日々を、自分でやってみた。
あかりが笑うたびに、胸が痛かった。
この子のそばにいたい。でも、このままでいるつもりはない。
二つの気持ちが、毎日ぐるぐるしていた。
そのある夜、志乃はリビングのテーブルにノートを広げた。
あかりは陽子に預けて、俊一はまだ帰っていなかった。
ノートの一番上に書いた。
会社を作る。
書いてから、自分でも笑えた。貯金は百二十万円。営業経験は三年。人脈はそれなりにある。でも会社を作ったことなど、一度もない。
何も知らなかった。
だから調べた。夜中の二時まで調べた。
人材派遣会社を立ち上げるには、まず労働者派遣事業許可が必要だとわかった。厚生労働省への申請で、許可が下りるまで二ヶ月以上かかる。
それだけじゃなかった。
資産の条件がある。負債を引いた純資産が二千万円以上必要。
志乃は自分の貯金を見た。百二十万円。
桁が一つ違った。
ノートに数字を書いて、線を引いた。消して、また書いた。
どうやって二千万を用意するか。銀行の融資を使うか。でも実績のない二十四歳に、銀行は金を貸すのか。
わからないことだらけだった。
それでも志乃はノートを閉じなかった。
翌朝、陽子が朝ごはんを作りながら言った。
「昨日、遅くまで何してたの」
「調べ物」
「何を」
「会社の作り方」
陽子は味噌汁をよそいながら、黙っていた。
しばらくして言った。
「お金は?」
「足りない」
「そうだろうね」
責めなかった。ただ事実を確認するように言った。
志乃はご飯を食べながら、窓の外を見た。今日は晴れていた。
あかりが陽子の膝の上でバナナを握って、ぐちゃぐちゃにしていた。
「とりあえず、動いてみる」
陽子は何も言わなかった。
それが答えだと、志乃は思った。
その週、志乃は三つのことをした。
一つ目。日本政策金融公庫に電話して、創業融資の相談予約を入れた。
二つ目。派遣元責任者講習の申し込みをした。派遣会社を作るには、この講習を受けた責任者が必要だと知ったからだ。受講料は八千円だった。
三つ目。物件サイトを開いて、二十平方メートル以上の事務所を探し始めた。許可要件に、それくらいの広さの事務所が必要だと書いてあったからだ。
どれも、まだ何も決まっていなかった。
でも動いた。
動いたことだけが、今日の志乃の全部だった。
夜、俊一が帰ってきた。
志乃はテーブルで書類を広げていた。俊一はネクタイを緩めながら、ちらりと見た。
「何してんの」
「会社作ろうと思って」
「会社」
俊一は冷蔵庫を開けてビールを取った。
「どんな」
「人材派遣」
「……うまくいくの」
志乃は俊一を見た。心配しているのか、呆れているのか、よくわからない顔だった。
「わからない。でもやる」
俊一はビールを一口飲んで、寝室に入っていった。
それだけだった。
志乃はまたノートに向かった。
窓の外は暗かった。でも明日、また朝が来る。
それだけは確かだった。




