第二話 限界
一週間が過ぎた。
志乃の仕事は、書類の整理だった。
営業部から回ってくる契約書を綴じて、棚に並べる。それだけだった。電話も取らない。外回りもない。会議にも呼ばれない。
午前中に終わる量を、志乃はわざとゆっくりやった。それでも昼前には終わった。
午後は何もなかった。
パソコンの画面を開いて、何かやっているふりをした。隣の総務の女性たちは志乃に話しかけなかった。志乃も話しかけなかった。
時計を見る。十四時。また見る。十四時十分。
窓がなかった。今日が晴れているのか曇っているのか、わからなかった。
二週間が過ぎた。
田村課長が一度だけ志乃のスペースに来た。
「どう、慣れた?」
慣れるも何も、仕事がなかった。志乃はそれを言わなかった。
「はい」とだけ答えた。
課長は「そっか」と言って戻っていった。
それだけだった。
三週間目の木曜日、志乃はトイレで木村と鉢合わせた。
木村は気まずそうに笑った。
「最近どう?」
「どうって」
「いや、まあ……大変だよな」
大変。その言葉が引っかかった。
「木村さん、私の仕事って、これからも書類整理ですか」
木村は少し黙った。
「俺にはわからないけど……田村さんが、しばらくはって」
「しばらく、って」
「子供、まだ小さいんだろ。急に外回りとかきついかなって、そういう配慮じゃないかな」
配慮。
志乃はありがとうございますと言った。木村はほっとした顔でトイレに入っていった。
志乃はその場に立ったまま、少しの間動けなかった。
配慮。
その言葉の裏側に、本当のことが全部入っていた。
戻ってこなくていい。邪魔だ。でも面と向かっては言えない。だから配慮という言葉で包んで、見えないところに置いておく。
志乃は自分のスペースに戻った。
椅子に座って、パソコンの電源を切った。
画面が暗くなって、自分の顔が映った。
——このままでいるつもりか。
誰かに言われたわけじゃない。画面の中の自分が言っていた。
違う。
絶対に、違う。
志乃はバッグを持って立ち上がった。
その日の夕方、志乃は田村課長のデスクに行った。
課長は書類を見ていた。志乃が来ても顔を上げなかった。
「課長、少しよろしいですか」
課長はゆっくり顔を上げた。
「退職します」
課長の顔が止まった。
「え、突然——」
「一ヶ月後でよければ、引き継ぎはきちんとやります」
課長は何か言いかけた。言葉が出てこなかった。
志乃は頭を下げて、自分のスペースに戻った。
バッグの中でスマホが震えた。陽子からだった。
『あかり、今日初めて立ったよ』
動画が一本。あかりがソファに手をついて、よろよろと立ち上がる。一秒、二秒——そして尻もちをついて、自分で笑っていた。
志乃は画面を見つめた。
泣いた。声を出さずに泣いた。
悔しいのか嬉しいのか、自分でもわからなかった。
家に帰ると、陽子が夕飯を作っていた。
「退職することにした」
陽子は鍋をかき混ぜながら、振り向かなかった。
「そうか」
それだけだった。
責めなかった。慰めなかった。
志乃はあかりを抱き上げた。あかりは志乃の首に小さな手を回した。
——ママを見ててね、あかり。
その言葉がどこからか浮かんで、また消えた。
まだ声には出せなかった。




