第七話 限界の朝
六月になった。
四行目の銀行から返事が来た。
封筒を開けた。
「今回はご期待に添えない結果となりました」
お断りの文章は丁寧だった。それがかえってきつかった。
志乃はその封筒をテーブルに置いて、しばらく見ていた。
五行目を当たるしかなかった。
その週、志乃は五行目の銀行に電話した。担当者に会えたのは三日後だった。
また事業計画書を説明した。何度目かわからなかった。
担当者は四十代の男性で、話を聞きながら何度か腕を組んだ。
「ベビーシッター派遣、需要はあると思いますよ。ただ実績がないと、うちとしては——」
「実績は、これから作ります」
「そこが問題でして」
志乃は深く息を吸った。
「実績がなければ融資できない。融資がなければ許可が取れない。許可がなければ実績が作れない。そういうことですか」
担当者は少し目を泳がせた。
「おっしゃる通りで、難しいところで——」
「わかりました」
志乃は立ち上がって、頭を下げた。
帰り道、雨が降り出した。
傘を持っていなかった。
志乃はコンビニに飛び込んで、五百円のビニール傘を買った。
レジで小銭を出しながら、財布の中を見た。
諭吉が二枚。あとは小銭だった。
今月の家賃をどうするか、まだ決まっていなかった。
家に帰ると、俊一がいた。
珍しく定時で帰ってきていた。
リビングに入ると、俊一とお母さんが向かい合って座っていた。あかりは俊一の膝の上で眠っていた。
「おかえり」と陽子が言った。
志乃は濡れたコートを脱ぎながら言った。
「また断られた」
俊一は何も言わなかった。
陽子も何も言わなかった。
志乃は椅子に座った。疲れが、足の先から頭まで全部に来ていた。
「もう無理かもしれない」
声に出したのは初めてだった。
自分でも驚いた。
俊一があかりをそっと横に寝かせた。
「飯、食ったか」
「食べてない」
「食え」
それだけだった。俊一は台所に立って、冷蔵庫を開けた。
陽子は志乃の手の上に、自分の手を重ねた。
何も言わなかった。ただ重ねた。
志乃は俯いた。
涙が一粒、テーブルに落ちた。
一粒だけ落として、志乃は顔を上げた。
俊一が作ったのは、卵雑炊だった。
不格好だったが、温かかった。
三人で黙って食べた。あかりが途中で起きて、陽子があやした。
食べ終えて、俊一が言った。
「一個だけ聞いていいか」
志乃はうなずいた。
「本当にやりたいのか」
志乃は俊一を見た。
疲れていた。お金もなかった。銀行にも断られ続けていた。
それでも。
「やりたい」
俊一はうなずいた。
「なら続けろ。金のことは、もう少し考える」
多くを語らない男だった。でもその一言で、志乃の背骨がまた立った気がした。
その夜、寝る前に志乃はノートを開いた。
今日断られたこと、財布の中身、残りの選択肢。全部書いた。
最後に一行書いた。
それでも、明日がある。
ノートを閉じて、電気を消した。
暗闇の中、あかりの寝息が聞こえた。
小さくて、均一で、揺るぎなかった。
志乃はその音を聞きながら、目を閉じた。




