未観測者たち(四)聞かせない者
黒沼怜は、姿を見せるより先に、雨宮の選択肢を削った。
北廊下は使えない。庭の飛び石は足跡が残る。道具置き場は女中の動線に近すぎる。奥座敷の床下へ潜るには、もう一つの板を外すしかないが、そこへ向かうには池の縁を通らなければならない。
雨宮は、池の影に身を沈めて奥座敷を見た。
窓越しに、人影が三つ見える。煙草の煙が硝子戸の内側を曇らせていた。声はまだ聞き取れない。酒が入る前の挨拶と世間話だろう。
密談は、すぐには始まらない。
本当の話は、料理が一通り出て、女中が下がり、酒で口が軽くなってから始まる。
雨宮は待った。
待つのは得意だった。記者時代、彼は何時間でも張り込んだ。政治家の事務所前、病院の裏口、上場企業の社長宅。待っていれば人は必ず動く。そして人が動くとき、情報が落ちる。
だが、今日は待つことさえ安全ではなかった。
「雨宮」
背後から声がした。
雨宮は振り返らない。
「黒沼か」
「名乗った覚えはない」
「名乗る必要のある仕事じゃない」
黒沼は池の反対側、石灯籠の陰にいた。距離は五メートルほど。互いに飛びかかるには遠く、逃げるには近い。
「お前、先に入っていたのか」
黒沼が言った。
「何の話だ」
「北の廊下だ。俺の動線が潰されていた」
「こっちもだ」
「嘘をつくな。あのやり方は、お前みたいな調査屋の手口だ」
「俺は七時二十分接続だ」
「俺もだ」
雨宮は眉を動かした。
黒沼が嘘をついている可能性はある。だが、嘘にしてはあまりにも意味がない。
「七時七分から十一分の揺らぎを知っているか」
黒沼は一瞬だけ黙った。
「お前の施設でも出たか」
「薄すぎる揺らぎ」
「気味が悪い程度にはな」
二人はしばらく黙った。
敵同士が同じ違和感を共有した時、そこには妙な沈黙が生まれる。信用ではない。だが、相手も同じ暗闇を見ていると分かる瞬間だった。
「お前じゃないなら、誰だ」
黒沼が言った。
「さあな」
「さあ、で済むか。俺の前に、お前の癖を持ったやつがいた」
雨宮の喉が少し渇いた。
「俺の癖?」
「覗き穴の作り方。女中の動線の避け方。痕跡の残し方。いや、残さない失敗の仕方と言うべきか」
雨宮は腹の中で舌打ちした。
他人に癖を見抜かれるのは、不快だ。
「過去ログの俺なら、俺が覚えている」
「だろうな」
「未来の俺なら、見えるはずがない」
黒沼が笑った。
「お前、意外と理屈を信じるんだな」
「理屈で飯を食っている」
「俺は、金を払う相手の理屈しか信じない」
その時、奥座敷の襖が開いた。
女中が二人、料理を運んで出てきた。雨宮と黒沼は同時に身を低くする。
黒沼が、池の縁の小石を蹴った。
小石は雨宮のすぐ近くで跳ねた。
女中の一人が足を止める。
雨宮は瞬時に理解した。
黒沼は、雨宮を見せようとしている。
現地人に顔を見られれば、ログが重くなる。今後の行動が追跡されやすくなる。未観測者としての自由度が落ちる。
雨宮は池の縁から身体を滑らせ、低い木の枝の下へ入った。
女中が近づく。
雨宮は、手元にあった枯れ枝を庭の反対側へ投げた。
枝が植え込みに当たり、葉が揺れる。
女中はそちらを向いた。
その隙に雨宮は、石灯籠の陰へ移動した。黒沼がいた場所だ。
黒沼はすでに消えていた。
代わりに、そこには小さな紙片が挟まっていた。
料亭の箸袋を裂いたものだ。そこに、爪で引っかいたような跡がある。
二本の線と、一つの点。
雨宮の略号。
欠落注意。
雨宮は紙片を見つめた。
黒沼の仕業か。
いや、黒沼が今ここに置いたなら、雨宮に見せる意図がある。だが、黒沼が雨宮の略号を知っている理由はまだ説明できない。
雨宮は紙片を池に落とした。
証拠を残すわけにはいかない。
奥座敷の声が少し変わった。
笑い声が減り、低い話し声が増えた。密談が始まる。
雨宮は硝子戸の下に近づいた。
声は襖と壁に遮られ、はっきりとは聞こえない。だが、単語は拾える。
「井戸」
「補助金」
「県の方は」
「名義を分ければ」
雨宮は集中した。
緒方が欲しがっているのは、土地譲渡と裏金の確証だ。誰が何を約束したか。誰の名前が出るか。そこを聞き取ればいい。
部屋の中で、男の一人が言った。
「将来、あの山は必ず――」
その瞬間、廊下で器が割れた。
乾いた音が、料亭中に響く。
女中の謝る声。男たちの笑い声。密談の声が途切れる。
雨宮は歯を食いしばった。
今の一語だ。
将来、あの山は必ず何になる?
地熱発電所か。演算施設か。国家管理地か。それとも、クロノスAが現れる前から誰かが知っていた別の言葉か。
雨宮は廊下の方へ目を向けた。
器を割った女中は、本当に手を滑らせたように見える。彼女の顔は青ざめていた。演技ではない。
では、なぜ今なのか。
黒沼か。
雨宮は視線を走らせた。
庭の奥に黒沼はいない。
奥座敷の会話が再開する。
「とにかく、名義は倉田に預ける」
「電力の方は、正式には動かん」
「表に出すのは温泉開発でいい」
雨宮は聞き取った言葉を頭の中で整理する。倉田。電力。温泉開発。正式には動かない。かなり使える情報だ。
しかし、さっきの欠落が大きすぎる。
将来、あの山は必ず――
その先が聞けていない。
雨宮は別の位置へ移動しようとした。
その瞬間、背後の障子がすっと閉じた。
誰かが内側から閉めたように見えた。
雨宮は振り返る。
誰もいない。
障子の紙には、小さな破れがあった。雨宮が覗き穴に使おうとしていた場所だ。だが、破れは不自然な形で広がっている。覗けば、逆に中から目立つ。
先に潰されている。
雨宮は胸の奥に冷たいものを感じた。
黒沼ではない。
黒沼なら、もっと重い痕跡が残る。歩いた跡、触れた跡、女中の視界の端。だが、これは違う。誰かが触れた結果だけがある。そこにいた身体の重さがない。
薄すぎる。
白石の言葉が戻る。
――何かが、先に触れている。
黒沼が、庭の向こうから現れた。
彼もまた顔を強張らせていた。
「お前じゃないな」
「最初からそう言っている」
「じゃあ、何だ」
雨宮は答えなかった。
答えを出すには、あまりにも馬鹿げた可能性を考えなければならない。
未来の自分。
だが、そんなものは見えない。見えてはいけない。未来の自分を観測できるなら、クロノスAは過去の再現では済まない。
雨宮はその考えを振り払った。
未来の自分ではない。
では、何か。
自分の失敗を知っている何か。
奥座敷で、また重要な声が低くなった。
雨宮は耳を澄ませる。
「……断片は、いずれ出る」
断片。
その言葉に、雨宮の意識が引っかかった。
「出る、とは」別の男が言う。
「表には出ん。だが、拾う者は必ずいる」
雨宮は息を止めた。
断片。
拾う者。
クロノスAの理論断片がネット上に現れるのは、この時代から二十年近く後のはずだった。
男たちは何の話をしている。
次の言葉を聞こうとした瞬間、庭の行灯が倒れた。
灯りが消える。
女中が悲鳴を上げる。
奥座敷の声が完全に止まった。
雨宮は動けなかった。
誰かが、また消した。
だが、それは邪魔ではなかった。
聞かせまいとしている。
聞いたら戻れなくなる一語を、誰かが消している。
雨宮はそう直感した。
黒沼が低く言った。
「お前、何を聞きかけた」
雨宮は答えなかった。
黒沼の顔にも、恐怖に似たものがあった。
雨宮は初めて理解した。
この料亭で一番危険なのは、黒沼ではない。
誰かが、自分たち二人の先にいる。
そしてその誰かは、雨宮の未来をコントロールしている?




