表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クロノスA  作者: 九条 透


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/9

未観測者たち(四)聞かせない者

黒沼怜は、姿を見せるより先に、雨宮の選択肢を削った。


北廊下は使えない。庭の飛び石は足跡が残る。道具置き場は女中の動線に近すぎる。奥座敷の床下へ潜るには、もう一つの板を外すしかないが、そこへ向かうには池の縁を通らなければならない。


雨宮は、池の影に身を沈めて奥座敷を見た。


窓越しに、人影が三つ見える。煙草の煙が硝子戸の内側を曇らせていた。声はまだ聞き取れない。酒が入る前の挨拶と世間話だろう。


密談は、すぐには始まらない。


本当の話は、料理が一通り出て、女中が下がり、酒で口が軽くなってから始まる。


雨宮は待った。


待つのは得意だった。記者時代、彼は何時間でも張り込んだ。政治家の事務所前、病院の裏口、上場企業の社長宅。待っていれば人は必ず動く。そして人が動くとき、情報が落ちる。


だが、今日は待つことさえ安全ではなかった。


「雨宮」


背後から声がした。


雨宮は振り返らない。


「黒沼か」


「名乗った覚えはない」


「名乗る必要のある仕事じゃない」


黒沼は池の反対側、石灯籠の陰にいた。距離は五メートルほど。互いに飛びかかるには遠く、逃げるには近い。


「お前、先に入っていたのか」


黒沼が言った。


「何の話だ」


「北の廊下だ。俺の動線が潰されていた」


「こっちもだ」


「嘘をつくな。あのやり方は、お前みたいな調査屋の手口だ」


「俺は七時二十分接続だ」


「俺もだ」


雨宮は眉を動かした。


黒沼が嘘をついている可能性はある。だが、嘘にしてはあまりにも意味がない。


「七時七分から十一分の揺らぎを知っているか」


黒沼は一瞬だけ黙った。


「お前の施設でも出たか」


「薄すぎる揺らぎ」


「気味が悪い程度にはな」


二人はしばらく黙った。


敵同士が同じ違和感を共有した時、そこには妙な沈黙が生まれる。信用ではない。だが、相手も同じ暗闇を見ていると分かる瞬間だった。


「お前じゃないなら、誰だ」


黒沼が言った。


「さあな」


「さあ、で済むか。俺の前に、お前の癖を持ったやつがいた」


雨宮の喉が少し渇いた。


「俺の癖?」


「覗き穴の作り方。女中の動線の避け方。痕跡の残し方。いや、残さない失敗の仕方と言うべきか」


雨宮は腹の中で舌打ちした。


他人に癖を見抜かれるのは、不快だ。


「過去ログの俺なら、俺が覚えている」


「だろうな」


「未来の俺なら、見えるはずがない」


黒沼が笑った。


「お前、意外と理屈を信じるんだな」


「理屈で飯を食っている」


「俺は、金を払う相手の理屈しか信じない」


その時、奥座敷の襖が開いた。


女中が二人、料理を運んで出てきた。雨宮と黒沼は同時に身を低くする。


黒沼が、池の縁の小石を蹴った。


小石は雨宮のすぐ近くで跳ねた。


女中の一人が足を止める。


雨宮は瞬時に理解した。


黒沼は、雨宮を見せようとしている。


現地人に顔を見られれば、ログが重くなる。今後の行動が追跡されやすくなる。未観測者としての自由度が落ちる。


雨宮は池の縁から身体を滑らせ、低い木の枝の下へ入った。


女中が近づく。


雨宮は、手元にあった枯れ枝を庭の反対側へ投げた。


枝が植え込みに当たり、葉が揺れる。


女中はそちらを向いた。


その隙に雨宮は、石灯籠の陰へ移動した。黒沼がいた場所だ。


黒沼はすでに消えていた。


代わりに、そこには小さな紙片が挟まっていた。


料亭の箸袋を裂いたものだ。そこに、爪で引っかいたような跡がある。


二本の線と、一つの点。


雨宮の略号。


欠落注意。


雨宮は紙片を見つめた。


黒沼の仕業か。


いや、黒沼が今ここに置いたなら、雨宮に見せる意図がある。だが、黒沼が雨宮の略号を知っている理由はまだ説明できない。


雨宮は紙片を池に落とした。


証拠を残すわけにはいかない。


奥座敷の声が少し変わった。


笑い声が減り、低い話し声が増えた。密談が始まる。


雨宮は硝子戸の下に近づいた。


声は襖と壁に遮られ、はっきりとは聞こえない。だが、単語は拾える。


「井戸」


「補助金」


「県の方は」


「名義を分ければ」


雨宮は集中した。


緒方が欲しがっているのは、土地譲渡と裏金の確証だ。誰が何を約束したか。誰の名前が出るか。そこを聞き取ればいい。


部屋の中で、男の一人が言った。


「将来、あの山は必ず――」


その瞬間、廊下で器が割れた。


乾いた音が、料亭中に響く。


女中の謝る声。男たちの笑い声。密談の声が途切れる。


雨宮は歯を食いしばった。


今の一語だ。


将来、あの山は必ず何になる?


地熱発電所か。演算施設か。国家管理地か。それとも、クロノスAが現れる前から誰かが知っていた別の言葉か。


雨宮は廊下の方へ目を向けた。


器を割った女中は、本当に手を滑らせたように見える。彼女の顔は青ざめていた。演技ではない。


では、なぜ今なのか。


黒沼か。


雨宮は視線を走らせた。


庭の奥に黒沼はいない。


奥座敷の会話が再開する。


「とにかく、名義は倉田に預ける」


「電力の方は、正式には動かん」


「表に出すのは温泉開発でいい」


雨宮は聞き取った言葉を頭の中で整理する。倉田。電力。温泉開発。正式には動かない。かなり使える情報だ。


しかし、さっきの欠落が大きすぎる。


将来、あの山は必ず――


その先が聞けていない。


雨宮は別の位置へ移動しようとした。


その瞬間、背後の障子がすっと閉じた。


誰かが内側から閉めたように見えた。


雨宮は振り返る。


誰もいない。


障子の紙には、小さな破れがあった。雨宮が覗き穴に使おうとしていた場所だ。だが、破れは不自然な形で広がっている。覗けば、逆に中から目立つ。


先に潰されている。


雨宮は胸の奥に冷たいものを感じた。


黒沼ではない。


黒沼なら、もっと重い痕跡が残る。歩いた跡、触れた跡、女中の視界の端。だが、これは違う。誰かが触れた結果だけがある。そこにいた身体の重さがない。


薄すぎる。


白石の言葉が戻る。


――何かが、先に触れている。


黒沼が、庭の向こうから現れた。


彼もまた顔を強張らせていた。


「お前じゃないな」


「最初からそう言っている」


「じゃあ、何だ」


雨宮は答えなかった。


答えを出すには、あまりにも馬鹿げた可能性を考えなければならない。


未来の自分。


だが、そんなものは見えない。見えてはいけない。未来の自分を観測できるなら、クロノスAは過去の再現では済まない。


雨宮はその考えを振り払った。


未来の自分ではない。


では、何か。


自分の失敗を知っている何か。


奥座敷で、また重要な声が低くなった。


雨宮は耳を澄ませる。


「……断片は、いずれ出る」


断片。


その言葉に、雨宮の意識が引っかかった。


「出る、とは」別の男が言う。


「表には出ん。だが、拾う者は必ずいる」


雨宮は息を止めた。


断片。


拾う者。


クロノスAの理論断片がネット上に現れるのは、この時代から二十年近く後のはずだった。


男たちは何の話をしている。


次の言葉を聞こうとした瞬間、庭の行灯が倒れた。


灯りが消える。


女中が悲鳴を上げる。


奥座敷の声が完全に止まった。


雨宮は動けなかった。


誰かが、また消した。


だが、それは邪魔ではなかった。


聞かせまいとしている。


聞いたら戻れなくなる一語を、誰かが消している。


雨宮はそう直感した。


黒沼が低く言った。


「お前、何を聞きかけた」


雨宮は答えなかった。


黒沼の顔にも、恐怖に似たものがあった。


雨宮は初めて理解した。


この料亭で一番危険なのは、黒沼ではない。


誰かが、自分たち二人の先にいる。


そしてその誰かは、雨宮の未来をコントロールしている?


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ