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クロノスA  作者: 九条 透


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7/9

未観測者たち(三)料亭の影

煙草の匂いがした。


雨宮は最初、それで時代を理解した。


現代の喫煙室の匂いではない。もっと湿っていて、濃く、木と畳に染み込んでいる。衣服にも、障子にも、人の指先にも煙が残っている時代の匂いだった。


目を開けると、低い塀の陰に立っていた。


夜の料亭。庭木の向こうに灯りが並び、硝子戸の奥を女中が通り過ぎる。砂利は湿っていた。昼間に雨が降ったのか、あるいは打ち水の跡か。虫の声が庭の暗がりから聞こえる。


雨宮は自分の服装を確認した。


作業着に近い紺の上着。地下足袋。頭には手拭い。料亭に出入りする庭師の手伝い、という設定らしい。クロノスAが時代平均と周辺条件に合わせて生成した衣服だ。


持ち物はない。


身体だけ。


現代の調査員は、過去ではいつも裸同然になる。資料も録音機も持ち込めない。持ち込めるのは、頭に入れた情報と、自分の身体の癖だけだ。


雨宮は塀の隙間から庭を見た。


水乃井は、想像より大きかった。


母屋、離れ、奥座敷、池、庭木、裏口、通用門。地方の料亭というより、政治家や企業幹部が顔を隠して会うための小さな城だった。


黒塗りの車が二台、玄関側に停まっている。写真と同じだった。


雨宮は予定していた動線を頭の中で確認した。


裏庭から入り、庭師の道具置き場を抜ける。池の脇を通り、北廊下の下に潜る。奥座敷の床下近くで待機し、襖越しの声を拾う。密談の開始は午後八時。今は七時二十分。十分に余裕がある。


最初の違和感は、塀を越えて三歩目で現れた。


庭の砂利が、予定と違っていた。


いや、予定と違うというより、誰かが雨宮の予定を知っていたように見えた。


裏庭から道具置き場へ向かう最短の飛び石の周辺だけ、薄く水が撒かれている。足を踏み入れれば、地下足袋の跡がはっきり残るだろう。料亭の庭全体が濡れているわけではない。その一角だけが、不自然に湿っていた。


雨宮は足を止めた。


白石の声が蘇る。


――午後七時七分から十一分の間に、ログの揺らぎがあります。


雨宮はしゃがみ、砂利を指で触った。濡れている。まだ新しい。


女中の打ち水か。庭師の作業か。


そう考えることはできる。


だが、その場所は雨宮が使う予定だった動線そのものだった。


彼は飛び石を避け、植え込みの影を選んで進んだ。


道具置き場の戸に手をかけた瞬間、二つ目の違和感に気づいた。


戸が、内側から一度開けられている。


木の戸の下部に、砂埃の切れ目があった。外から開ければ外側の埃が削れる。内側から開ければ、戸の下の擦れ方が少し違う。雨宮はかつて空き家取材でそういう跡ばかり見ていた。


中に誰かがいた。


あるいは、いたように見せた。


雨宮は耳を澄ませた。


物音はない。


戸を細く開ける。道具置き場には、竹箒、剪定鋏、空の桶、縄、使い古した草履が置かれていた。人の気配はない。ただ、隅に置かれた桶の位置が、事前に入手した資料写真と違っていた。


資料写真など、昭和の現場で当てにしすぎるものではない。


雨宮は自分にそう言い聞かせた。


だが、桶の陰に身を隠せば、北廊下へ向かう女中の視線を避けられる。彼が使うつもりだった場所だ。


そこが潰されている。


「早いな」


声がした。


雨宮は反射的に身体を低くした。


道具置き場の奥、板壁の隙間の向こうから声がした。男の声。現地人のものではない。発音が現代に近い。


「誰だ」


雨宮は小声で言った。


返事はなかった。


代わりに、壁の向こうで軽い音がした。砂利を踏む音。それも、足音を消そうとして消しきれない者の音だ。


雨宮は戸を開けて外へ出た。


庭の向こう、松の影が動いた。


男が一人、池の方へ消える。


雨宮は追わなかった。追えば女中に見られる。現地人に顔を見られれば、ログが重くなる。この時代の誰かの記憶に残ることは、調査員にとって足枷になる。


相手もそれを分かっている。


同業者だ。


雨宮は道具置き場から北廊下へ向かった。


途中、襖の裏に三つ目の違和感を見つけた。


縦の木枠の内側に、小さな傷があった。


ただの傷ではない。二本の短い線と、一つの点。雨宮が調査メモで使う略号に似ていた。


「欠落注意」


彼は自分の手帳で、聞き取り不能箇所を示す時に似た記号を使っていた。もちろん、今は手帳など持っていない。だが癖は残る。


雨宮は傷に指を触れた。


古い傷ではない。木の表面が少し新しい。


黒沼か。


頭に浮かんだ名前は、まだ顔も知らない敵対観測者の名前だった。クロノスAの企業調査界隈で何度か聞いたことがある。黒沼怜。相手のログを汚すことに長けた男。情報を盗むより、相手が情報を持ち帰れなくすることを好む。


だが、雨宮はすぐに疑問を覚えた。


黒沼が自分の略号を知るはずがない。


知っているとすれば、緒方側から情報が漏れている。あるいは過去の案件で雨宮のメモを見た者がいる。


それもあり得る。


あり得ることは、疑いから除外してはいけない。


雨宮は傷から手を離し、北廊下の下へ入るための板を探した。


板は、わずかにずれていた。


誰かが先に入ろうとした。だが、途中で諦めたようなずれ方だ。完全には開いていない。開けたなら、もっと痕跡が残る。


雨宮は胸の奥に冷たいものを感じた。


一つなら偶然。二つなら競合。三つ目からは、意図だ。


彼は板を戻し、別のルートを選んだ。


奥座敷へ近づくには、池の縁を通って硝子戸の下へ回る方法がある。危険だが、北廊下が汚染されているなら仕方ない。


池の周囲を進むと、女中の足音が近づいてきた。


雨宮は植え込みの影に身を沈めた。


足袋の音が、すぐ横を通る。


女中は盆を持っていた。徳利が三本、盃がいくつか。彼女は雨宮のいる植え込みの前で、なぜか足を止めた。


雨宮は息を止める。


女中が首を傾げた。


何かに気づいたのか。


その時、庭の反対側で小さな音が鳴った。


竹箒が倒れた音だった。


女中はそちらを見て、慌てて歩き出した。


雨宮はゆっくり息を吐いた。


助かった。


だが、誰が箒を倒した。


雨宮は反対側の影を見た。


松の根元に男が立っていた。


痩せた男だった。三十代後半か四十代前半。雨宮と同じく、時代に合わせた服装をしている。だが、立ち方が現代人だった。足の置き方、肩の力の抜き方、周囲への視線の配り方。


男は雨宮を見ていた。


一瞬だけ、二人の視線が合う。


男は口元だけで笑った。


そして、唇を動かした。


声は聞こえない。


だが、雨宮には読めた。


――遅い。


雨宮は植え込みから出ず、男を睨んだ。


男は足音もなく池の奥へ消えた。


黒沼怜。


おそらくそうだ。


雨宮はようやく、白石の言葉を思い出した。


薄すぎる揺らぎ。


何かが、先に触れている。


黒沼なら説明できる。


そう考えたいところだった。


だが、黒沼はさっき、雨宮に向かって「遅い」と言った。


まるで、雨宮が先に来ていたはずだとでも言うように。


奥座敷の方から、男たちの笑い声が聞こえた。


会合は、もうすぐ始まる。


雨宮は、いま見た傷の意味を考えるのをやめた。


仕事に集中しろ。


そう自分に命じた。


だが、胸の奥には別の声が残った。


過去ログなら、覚えているはずだ。


では、誰が先にここへ来た?


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