未観測者たち(三)料亭の影
煙草の匂いがした。
雨宮は最初、それで時代を理解した。
現代の喫煙室の匂いではない。もっと湿っていて、濃く、木と畳に染み込んでいる。衣服にも、障子にも、人の指先にも煙が残っている時代の匂いだった。
目を開けると、低い塀の陰に立っていた。
夜の料亭。庭木の向こうに灯りが並び、硝子戸の奥を女中が通り過ぎる。砂利は湿っていた。昼間に雨が降ったのか、あるいは打ち水の跡か。虫の声が庭の暗がりから聞こえる。
雨宮は自分の服装を確認した。
作業着に近い紺の上着。地下足袋。頭には手拭い。料亭に出入りする庭師の手伝い、という設定らしい。クロノスAが時代平均と周辺条件に合わせて生成した衣服だ。
持ち物はない。
身体だけ。
現代の調査員は、過去ではいつも裸同然になる。資料も録音機も持ち込めない。持ち込めるのは、頭に入れた情報と、自分の身体の癖だけだ。
雨宮は塀の隙間から庭を見た。
水乃井は、想像より大きかった。
母屋、離れ、奥座敷、池、庭木、裏口、通用門。地方の料亭というより、政治家や企業幹部が顔を隠して会うための小さな城だった。
黒塗りの車が二台、玄関側に停まっている。写真と同じだった。
雨宮は予定していた動線を頭の中で確認した。
裏庭から入り、庭師の道具置き場を抜ける。池の脇を通り、北廊下の下に潜る。奥座敷の床下近くで待機し、襖越しの声を拾う。密談の開始は午後八時。今は七時二十分。十分に余裕がある。
最初の違和感は、塀を越えて三歩目で現れた。
庭の砂利が、予定と違っていた。
いや、予定と違うというより、誰かが雨宮の予定を知っていたように見えた。
裏庭から道具置き場へ向かう最短の飛び石の周辺だけ、薄く水が撒かれている。足を踏み入れれば、地下足袋の跡がはっきり残るだろう。料亭の庭全体が濡れているわけではない。その一角だけが、不自然に湿っていた。
雨宮は足を止めた。
白石の声が蘇る。
――午後七時七分から十一分の間に、ログの揺らぎがあります。
雨宮はしゃがみ、砂利を指で触った。濡れている。まだ新しい。
女中の打ち水か。庭師の作業か。
そう考えることはできる。
だが、その場所は雨宮が使う予定だった動線そのものだった。
彼は飛び石を避け、植え込みの影を選んで進んだ。
道具置き場の戸に手をかけた瞬間、二つ目の違和感に気づいた。
戸が、内側から一度開けられている。
木の戸の下部に、砂埃の切れ目があった。外から開ければ外側の埃が削れる。内側から開ければ、戸の下の擦れ方が少し違う。雨宮はかつて空き家取材でそういう跡ばかり見ていた。
中に誰かがいた。
あるいは、いたように見せた。
雨宮は耳を澄ませた。
物音はない。
戸を細く開ける。道具置き場には、竹箒、剪定鋏、空の桶、縄、使い古した草履が置かれていた。人の気配はない。ただ、隅に置かれた桶の位置が、事前に入手した資料写真と違っていた。
資料写真など、昭和の現場で当てにしすぎるものではない。
雨宮は自分にそう言い聞かせた。
だが、桶の陰に身を隠せば、北廊下へ向かう女中の視線を避けられる。彼が使うつもりだった場所だ。
そこが潰されている。
「早いな」
声がした。
雨宮は反射的に身体を低くした。
道具置き場の奥、板壁の隙間の向こうから声がした。男の声。現地人のものではない。発音が現代に近い。
「誰だ」
雨宮は小声で言った。
返事はなかった。
代わりに、壁の向こうで軽い音がした。砂利を踏む音。それも、足音を消そうとして消しきれない者の音だ。
雨宮は戸を開けて外へ出た。
庭の向こう、松の影が動いた。
男が一人、池の方へ消える。
雨宮は追わなかった。追えば女中に見られる。現地人に顔を見られれば、ログが重くなる。この時代の誰かの記憶に残ることは、調査員にとって足枷になる。
相手もそれを分かっている。
同業者だ。
雨宮は道具置き場から北廊下へ向かった。
途中、襖の裏に三つ目の違和感を見つけた。
縦の木枠の内側に、小さな傷があった。
ただの傷ではない。二本の短い線と、一つの点。雨宮が調査メモで使う略号に似ていた。
「欠落注意」
彼は自分の手帳で、聞き取り不能箇所を示す時に似た記号を使っていた。もちろん、今は手帳など持っていない。だが癖は残る。
雨宮は傷に指を触れた。
古い傷ではない。木の表面が少し新しい。
黒沼か。
頭に浮かんだ名前は、まだ顔も知らない敵対観測者の名前だった。クロノスAの企業調査界隈で何度か聞いたことがある。黒沼怜。相手のログを汚すことに長けた男。情報を盗むより、相手が情報を持ち帰れなくすることを好む。
だが、雨宮はすぐに疑問を覚えた。
黒沼が自分の略号を知るはずがない。
知っているとすれば、緒方側から情報が漏れている。あるいは過去の案件で雨宮のメモを見た者がいる。
それもあり得る。
あり得ることは、疑いから除外してはいけない。
雨宮は傷から手を離し、北廊下の下へ入るための板を探した。
板は、わずかにずれていた。
誰かが先に入ろうとした。だが、途中で諦めたようなずれ方だ。完全には開いていない。開けたなら、もっと痕跡が残る。
雨宮は胸の奥に冷たいものを感じた。
一つなら偶然。二つなら競合。三つ目からは、意図だ。
彼は板を戻し、別のルートを選んだ。
奥座敷へ近づくには、池の縁を通って硝子戸の下へ回る方法がある。危険だが、北廊下が汚染されているなら仕方ない。
池の周囲を進むと、女中の足音が近づいてきた。
雨宮は植え込みの影に身を沈めた。
足袋の音が、すぐ横を通る。
女中は盆を持っていた。徳利が三本、盃がいくつか。彼女は雨宮のいる植え込みの前で、なぜか足を止めた。
雨宮は息を止める。
女中が首を傾げた。
何かに気づいたのか。
その時、庭の反対側で小さな音が鳴った。
竹箒が倒れた音だった。
女中はそちらを見て、慌てて歩き出した。
雨宮はゆっくり息を吐いた。
助かった。
だが、誰が箒を倒した。
雨宮は反対側の影を見た。
松の根元に男が立っていた。
痩せた男だった。三十代後半か四十代前半。雨宮と同じく、時代に合わせた服装をしている。だが、立ち方が現代人だった。足の置き方、肩の力の抜き方、周囲への視線の配り方。
男は雨宮を見ていた。
一瞬だけ、二人の視線が合う。
男は口元だけで笑った。
そして、唇を動かした。
声は聞こえない。
だが、雨宮には読めた。
――遅い。
雨宮は植え込みから出ず、男を睨んだ。
男は足音もなく池の奥へ消えた。
黒沼怜。
おそらくそうだ。
雨宮はようやく、白石の言葉を思い出した。
薄すぎる揺らぎ。
何かが、先に触れている。
黒沼なら説明できる。
そう考えたいところだった。
だが、黒沼はさっき、雨宮に向かって「遅い」と言った。
まるで、雨宮が先に来ていたはずだとでも言うように。
奥座敷の方から、男たちの笑い声が聞こえた。
会合は、もうすぐ始まる。
雨宮は、いま見た傷の意味を考えるのをやめた。
仕事に集中しろ。
そう自分に命じた。
だが、胸の奥には別の声が残った。
過去ログなら、覚えているはずだ。
では、誰が先にここへ来た?




