未観測者たち(二)薄すぎる揺らぎ
クロノスAの認定施設は、どこも似ている。
白い壁。静かな受付。病院のような匂い。人間が過去へ潜る場所だというのに、そこには古いものの気配がない。
雨宮は、それがいつも不思議だった。
四百年前の村も、昭和の料亭も、江戸の鍛冶場も、すべて現代の清潔な施設から始まる。人は消毒液の匂いをくぐって、血と煙草と土の匂いがする過去へ落ちていく。
面談室に入ると、白石玲奈が端末を見ていた。
「雨宮さん。企業調査案件ですね」
「いつも通りです」
「いつも通り、という言葉を使う方ほど、いつも通りではない案件を持ち込みます」
「経験則ですか」
「ログ管理部の職業病です」
白石は端末を机に置いた。
雨宮は彼女と何度か顔を合わせている。感情を表に出さない女だが、冷たいわけではない。むしろ、冷たく見えるように訓練している人間の顔だった。
「目的時刻は昭和五十三年十月十七日、午後八時。接続予定は午後七時二十分。場所は料亭水乃井、裏庭側」
「そうです」
「現地人との接触は最小限。観測対象は奥座敷の会合」
「問題ありますか」
「一つあります」
白石は画面を指で送った。
「午後七時七分から七時十一分の間に、ログの揺らぎがあります」
雨宮は椅子に深く座り直した。
「俺の接続より前ですね」
「はい」
「別の利用者ですか」
「断定できません」
白石はすぐにそう答えた。
雨宮は彼女の顔を見た。断定できない、と言う時の白石には二種類ある。単に規約上言えない場合と、本当に分からない場合だ。今回は後者に見えた。
「同じ案件を狙う連中がいても不思議じゃない」
「不思議ではありません。ただ、通常の別観測者なら、もう少し重く出ます」
「重く?」
「人がそこにいると、環境ログに厚みが出ます。畳を踏む。空気を動かす。砂利を乱す。誰かの視界の端に入る。完全に未観測で動こうとしても、人間の身体はそれほど軽くありません」
雨宮は少し笑った。
「今回の幽霊は軽すぎる?」
「幽霊の方が、まだ分かりやすいです」
白石は冗談として受け取らなかった。
「揺らぎはごく小さい。別観測者の痕跡にしては薄すぎる。一方で、単なるノイズとも言い切れない。何かが、先に触れているように見えます」
「触れているのに、人がいたほどではない」
「そうです」
雨宮は端末の画面を覗き込んだ。細かい波形と時刻が並んでいる。専門家ではない彼には、意味の大半は分からない。ただ、七時七分から十一分の部分だけ、細い線がわずかに乱れているのは見えた。
「未観測データの揺れですか」
「その可能性もあります」
「可能性だらけですね」
「分かっていることが少ない案件ほど、そうなります」
雨宮は背もたれに身を預けた。
「過去ログの自分という可能性は?」
白石は首を横に振った。
「それなら、雨宮さんがそのダイブを経験しているはずです」
「もちろん、覚えはない」
「では過去ログ上のあなたではありません」
「未来の俺は?」
口にしてから、雨宮は自分で少し馬鹿馬鹿しくなった。
白石は表情を変えなかった。
「現在の主体的観測者が、自分より後発の自己を直接観測することはできません」
「講義なら聞いたことがあります」
「なら確認です。未来の自己を観測できてしまえば、未確定であるはずの未来が確定します。クロノスAの不確定性原理に反する」
「つまり、未来の俺は見えない」
「理論上は」
「理論上は、ね」
雨宮はその言い方を拾った。
白石はわずかに目を細めた。
「私は、未来のあなたがいると言っているわけではありません」
「分かっています」
「むしろ、その可能性を排除するために説明しています」
「では、何なんです」
「分かりません」
白石は、はっきりそう言った。
面談室の空調音が低く鳴っていた。
「分からないまま接続許可ですか」
「揺らぎは極小です。安全基準上、接続を止めるほどの異常ではありません。ただし、注意喚起は必要です」
「何に注意すればいい」
「予定していた動線を過信しないこと。未観測領域で、想定外の痕跡を見つけても即断しないこと。それから、見えなかった部分を推定で埋めすぎないこと」
雨宮は笑った。
「最後のは俺への嫌味ですか」
「職業的助言です」
「推定で埋めるのが仕事です」
「推定で埋めたものを事実として売るのは、別の仕事です」
雨宮は返事をしなかった。
白石は端末に視線を戻した。
「今回の料亭は、観測済み資料が少ない割に、後年の利害が大きい場所です。そういう過去は、利用者が集中しやすい」
「過去に人気が出る時代ですか」
「ええ。誰も見ていなかった場所ほど、高く売れます」
その言い方には、かすかな皮肉があった。
「白石さんは、過去を売る仕事が嫌いなんですか」
「嫌いではありません」
「では?」
「過去を売る人たちが、過去を軽く見る瞬間は苦手です」
雨宮は少しだけ黙った。
規約確認を終えると、白石は最後にもう一度だけ言った。
「午後七時七分から十一分の揺らぎについては、現地で追跡しようとしないでください」
「追跡するなと?」
「目的は密談の観測です。揺らぎの正体確認ではありません」
「調査員に好奇心を捨てろと」
「はい」
「無理ですね」
「でしょうね」
白石は端末を閉じた。
「だから、注意喚起です」
準備室へ向かう途中、雨宮は窓のない廊下を歩きながら、白石の言葉を思い返した。
薄すぎる揺らぎ。
何かが、先に触れている。
別観測者にしては軽い。ノイズにしては形がある。
面白いとは思った。だが、恐れるほどではない。企業案件では、他の観測者と鉢合わせることもある。未観測領域の揺らぎなど、珍しいと言えば珍しいが、あり得ない話ではない。
雨宮は、ほとんど忘れかけていた。
ポッドに横たわり、電極が装着される。心拍、脳波、血圧、筋反応。現実の身体が監視される。
ガラス越しに白石が見えた。
「雨宮さん」
「何です」
「予定外の欠落が出た場合、無理に埋めないでください」
雨宮は目を閉じた。
「それは、戻ってから考えます」
ポッドの蓋が閉じる。
暗闇。低い振動。どこか遠い山の地下で、地熱発電に接続されたデータセンターが唸り始める。
昭和五十三年十月十七日、午後七時二十分。
料亭水乃井。
雨宮は、薄すぎる揺らぎのことを、ほとんど忘れていた。
その時点ではまだ、忘れられる程度の違和感だった。




