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クロノスA  作者: 九条 透


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5/9

未観測者たち(一)密談の値段

今回はこれまでと少し趣の違うSFミステリーです。

クロノスAとはそもそも何なのか?

その片鱗を感じてもらえたら幸いです。

どうぞ最後までお付き合いお願いいたします。

雨宮蒼介は、古い録音機が嫌いだった。


嫌いと言っても、使えないからではない。むしろ逆だ。古い録音機ほど、聞こえない音まで聞かせようとする。テープの擦れる音、モーターの唸り、部屋の空調、椅子を引く微かな軋み。必要な声は、その向こうに沈んでいる。


雨宮は、情報もそれに似ていると思っていた。


大事なことほど、はっきりとは残らない。人は契約書に書けないことを料亭で話し、録音されては困る言葉を酒の匂いに混ぜる。だからこそ、クロノスAの時代になっても、彼のような調査員の仕事はなくならなかった。


過去を見に行けるだけでは足りない。


何を見たのか。何を聞いたのか。聞こえなかったことに、どんな意味があるのか。そこに値段をつける人間が必要だった。


「雨宮さんは、昔、新聞記者だったそうですね」


向かいの男が言った。


緒方昭仁。名刺には、東亜地熱開発株式会社・特別調査室長とある。四十代後半。皺の少ないスーツ、手入れの行き届いた爪、笑っているのに目が笑っていない顔。


雨宮は名刺をテーブルに置いたまま、コーヒーに口をつけた。


「経済誌です。新聞ほど立派じゃない」


「それでも、事実を扱う仕事でしょう」


「事実を扱う仕事は、たいてい事実だけでは食えません」


緒方は薄く笑った。


「今のお仕事にも通じる話ですね」


「依頼内容によります」


会っている場所は、東京駅近くのホテルラウンジだった。昼前だというのに人は多い。商談、見合い、外国人観光客、企業の役員らしい老人たち。どの席も、それぞれ別の密談をしているように見えた。


緒方は鞄から薄い封筒を出した。


「昭和五十三年、十月十七日。岐阜県北部の料亭『水乃井』で、ある会合が開かれました」


「料亭ですか」


「当時の地方政治家、建設会社、温泉開発業者、電力会社の関係者が同席しています」


「よくある話ですね」


「ええ。よくある話です。よくありすぎて、公式記録には残らない」


緒方は封筒から写真のコピーを取り出した。白黒の古い写真。玄関先に黒塗りの車が二台停まっている。暖簾の文字はかすれているが、水乃井、と読めた。


「当時、周辺一帯では温泉地再開発と小規模な地熱発電調査が並行して進んでいました。表向きには失敗した計画です」


雨宮は資料をめくった。


地名が並んでいる。山、沢、古い旅館、地熱調査井、鉱泉、廃村跡。現在の地図に置き換えれば、その一帯は奥飛騨地熱演算群の外縁にかかっていた。


クロノスAを運用する巨大データセンター群。


日本が世界第一のクロノスA大国になった理由は、技術だけではない。電力だ。火山国の地下に眠る熱を吸い上げ、山間部に演算施設を沈めた。都市の人間が過去へ潜るたび、どこかの山奥で地熱タービンが回る。


緒方が持ってきた資料は、そこへ繋がっていた。


「その料亭で、土地の譲渡、開発許認可、政治献金について非公式の合意があったと見ています」


「見ています、ということは、証拠はない」


「だから、あなたにお願いしたい」


雨宮は封筒を閉じた。


「欲しいのは録音ですか」


「クロノスA内の音声ログは、法廷証拠としては扱いにくい」


「でしょうね」


「欲しいのは、誰が、何を約束したかです」


雨宮は緒方を見た。


「訴訟準備ですか」


「その可能性もあります」


「相手企業への交渉材料」


緒方は否定しなかった。


「歴史を変える必要はありません。ただ、過去に何があったのかを知りたいのです」


知りたい。


クロノスA案件の依頼者がよく使う言葉だ。たいていの場合、それは嘘ではない。ただ、その後に続く言葉が省略されている。


知りたい。利用するために。


雨宮はコーヒーカップを置いた。


「相手方も同じことを考えている可能性はありますか」


「あるでしょうね」


「なら、密談の現場には別の観測者がいるかもしれない」


「そのために雨宮さんを選びました」


「買いかぶりです」


「謙遜は結構です。クロノスAを使った企業調査では、あなたの名前は何度か聞きました」


雨宮は苦笑した。名前が出るのは、あまり良いことではない。情報屋は、有名になりすぎると早死にする。


「依頼の範囲を確認します。昭和五十三年十月十七日、料亭水乃井での非公式会合。観測対象は会合参加者の発言内容。目的は、土地譲渡および地熱開発に関する口頭合意の確認。介入はしない。現地人との接触は最小限」


「はい」


「報告書には、確定情報と推定情報を分けます。こちらで補完した内容は、その旨を明記する」


緒方の眉がわずかに動いた。


「推定でも構いません。むしろ、交渉上は推定の方が使いやすいこともある」


「それは依頼者の事情です」


「雨宮さんは、思ったより慎重なんですね」


「昔、雑に書いた記事で人を一人潰しかけました」


緒方は初めて少し黙った。


雨宮はその隙に封筒を鞄へ入れた。


「引き受けます。ただし、見えなかったものは見えなかったと書きます」


「それで結構です」


嘘だな、と雨宮は思った。緒方が本当に欲しいのは、見えなかった部分まで都合よく埋めた報告書だ。過去の密談は、現代の企業戦争において刃物になる。刃物は、少し曇っている方が扱いやすい。


だが、雨宮はそれを責めなかった。


情報は商品だ。


正しさだけで値段が決まるわけではない。早さ、希少性、使い道、相手がどれだけ恐れるか。そのすべてが価格になる。


過去は金鉱ではない。


金鉱よりたちが悪い。


掘り出したものが、誰かの人生を今さら動かす。


「雨宮さん」


緒方が言った。


「ひとつだけ、事前にお伝えしておきます」


「何でしょう」


「この件には、クロノスAの運用基盤に関わる名前も出る可能性があります」


雨宮は表情を変えなかった。


「地熱データセンターですか」


「ええ。現在では国家インフラです。ですが、最初から綺麗に整備されたわけではない。土地も、人も、過去も、綺麗ではありません」


「過去が綺麗だったことはありません」


「では、頼もしい」


緒方は立ち上がった。


「報酬は、成功時に倍額を用意します」


「成功の定義は」


「密談の核心を持ち帰ることです」


雨宮は頷いた。


核心。


便利な言葉だ。何が核心かを決めるのは、たいてい金を払う側である。


緒方が去った後、雨宮はしばらく白黒写真を見ていた。


料亭水乃井。


暖簾の奥に、四十年以上前の夜がある。男たちが酒を飲み、煙草を吸い、誰かの土地を紙にも残さず動かした夜。


クロノスAは、そういう夜を開けるための鍵になった。


だが鍵を開けた先に何があるかは、開けるまで分からない。


雨宮は写真を鞄にしまい、クロノスA認定施設へ向かう予約を入れた。


その時点では、ただの企業案件だった。


少なくとも、雨宮はそう思っていた。


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