未観測者たち:完結(五)届かない警告
雨宮が持ち帰った情報は、十分に高額だった。
倉田という名義人。温泉開発を隠れ蓑にした土地集約。電力会社の非公式関与。県議の名前。建設会社幹部の約束。後年の地熱開発に繋がる口頭合意。
緒方が欲しがっていた材料の多くは揃っている。
ただ、一つだけ欠けていた。
将来、あの山は必ず――。
断片は、いずれ出る。
その二箇所だけが、どうしても繋がらない。
雨宮は帰還後、ポッドの上でしばらく起き上がれなかった。
身体は無事だった。傷もない。肉体負荷も軽度。だが、頭の奥が鈍く痛む。何かを聞き損ねた時の痛みではない。聞かされなかったものが、耳の中に残っているような感覚だった。
白石玲奈が端末を持って近づいてきた。
「帰還確認。意識レベル正常。心拍に一時上昇がありました」
「黒沼は」
「その名前の利用者は、当施設には登録されていません」
「別施設だろう」
「可能性はあります」
雨宮は身体を起こした。
「ログは」
白石は少しだけ沈黙した。
「通常ログとしては保存されています。ただし、目的時刻前の揺らぎと同種の微細な揺れが、複数箇所に出ています」
「人の痕跡ではない?」
「断定できません」
「便利な言葉ですね」
「便利ではありません。分からないものに名前をつけて、分かったふりをしないための言葉です」
雨宮は笑おうとして、できなかった。
「俺以外の雨宮蒼介は?」
白石が彼を見る。
「確認されていません」
「でしょうね」
「なぜです」
雨宮はポッドの縁に足を下ろした。
床の冷たさが現実を教えてくれる。昭和の庭の湿った砂利ではない。料亭の畳でもない。清潔で、管理され、すべてが記録される施設の床だ。
「見えたら、そいつは俺じゃない」
白石は意味を測るように黙った。
「未来の自分の話ですか」
「未来の自分なんて信じていない」
「では、何を見たんですか」
雨宮は答えなかった。
見てはいない。
姿は見ていない。声も聞いていない。顔もない。だが、そこには確かに何かがあった。
自分が使うはずだった道を塞ぎ、自分が覗くはずだった穴を潰し、自分が聞けば戻れなくなる一語だけを消した何か。
敵なら、もっと分かりやすく邪魔をする。
黒沼なら、雨宮を現地人に見せてログを重くしただろう。あるいは別の会話を聞かせ、報告書を汚しただろう。
だが、あれは違った。
雨宮に情報を取らせなかったのではない。
取らせすぎないようにしていた。
「見たんじゃない」
雨宮は言った。
「読まされたんだ」
白石の表情は変わらなかった。だが、端末を持つ手が少しだけ止まった。
「どういう意味ですか」
「俺にも分かりません」
それは本当だった。
雨宮は未来の自分など信じていない。信じることはできない。もしそれを認めれば、クロノスAは単なる過去再現ではなくなる。過去に潜る装置ではなく、別の何かと繋がる装置になる。
そんなことは、あってはいけない。
だが、あの料亭で、誰かは雨宮の先にいた。
彼の癖を知り、彼の欲を知り、彼が情報を商品として扱うことまで知っていた。
そして、その誰かは核心を消した。
雨宮を失敗させるためではなく、失敗させないために。何故かそれだけは確信している。彼はその気になれば雨宮を追い払うこともできたはずなのだ。だか、それはしなかった。
「報告書はどうしますか」
白石が尋ねた。
「書きます」
「欠落部分は」
「欠落として残す」
白石は少しだけ目を伏せた。
「珍しいですね」
「何が」
「雨宮さんが、推定で埋めないのは」
「嫌な女ですね」
「よく言われます」
雨宮は立ち上がった。足元が少しふらつく。看護師が支えようとしたが、彼は手で制した。
現実の身体は無事だ。
だが、現実に戻ったという感覚が薄かった。
あの料亭の奥座敷に、まだ耳だけが残っている。
断片は、いずれ出る。
拾う者は必ずいる。
誰が何を待っていたのか。
雨宮は、その答えを知りたいと思った。だが、同時に、知ってはいけないとも思った。
二つの感情が、同じ重さで残っていた。
翌日、雨宮は緒方に報告書を送った。
確定情報。推定情報。観測不能箇所。欠落。ログ揺らぎ。第三者観測者の可能性。未観測データの影響。
緒方からの返信は、すぐに来た。
《肝心な部分が抜けています。推定で補完できませんか》
雨宮は画面を見つめた。
以前の彼なら、補った。
将来、あの山は必ず国家インフラになる。あるいは地熱発電の要地になる。あるいは演算施設が建つ。文脈から見れば、いくつかの候補はある。依頼者が望む形に整えることもできる。
情報は商品だ。
商品は、買い手が使いやすい形にして渡す。
それが雨宮の仕事だった。
だが、今回はできなかった。
欠けていること自体が、情報だった。
誰かが、そこを欠けさせた。
雨宮は報告書の最後に一行を追加した。
――欠落部分について、推定補完を行わない。
送信ボタンを押す前に、しばらく指が止まった。
情報屋としては失格の一文だ。
だが、観測者としては、初めて書いた正直な一文だった。
雨宮は送信した。
数分後、緒方から電話があった。
雨宮は出なかった。
窓の外は曇っていた。
ビルの隙間から見える空は、昭和の料亭で見た夜よりもずっと狭い。車の音、工事の音、スマートフォンの通知音。現代は過去より騒がしい。だが、本当に大事な言葉が聞こえないのは、どちらの時代も同じだった。
雨宮は机の上に、料亭水乃井の白黒写真を置いた。事前資料として用意したものだ。
暖簾の奥に、誰かがいる。
黒沼ではない。緒方でもない。白石でもない。
未来の自分など、いるはずがない。
それでも、写真を見ていると、雨宮は奇妙な感覚に襲われた。
この写真の向こうから、誰かがこちらを見ている。
助けを求めているのではない。
警告しているのでもない。
ただ、同じ失敗をするなと、言葉にならない形でメッセージを置いていった。
雨宮は写真を裏返した。
過去は嘘をつかない。
そう教えられてきた。
だが、過去を見た自分が嘘をつかないとは限らない。
そして、見なかったものが、何も語っていないとは限らない。
雨宮は椅子にもたれ、目を閉じた。
あの欠落は、失敗ではなかったのかもしれない。
誰かが、届かない警告をそこに残した。
それを誰が残したのか。何のためだったのか。雨宮には分からない。分かりようもない。
ただ一つだけ、分かることがあった。
次にクロノスAへ潜る時、自分はもう、自分の目を以前ほど信用できない。
それは調査員としては致命的だった。
けれど、人間としては、たぶん少しだけましだ。
雨宮はゆっくりと後ろを振り返った。
誰もいない。
そう、特別なことなど自分に起こりはしないのだ。
ただ、もしかするとクロノスAとは、自分や皆が思っているようなものではないのかもしれない。何故だかそう思えてならなかった。




