表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クロノスA  作者: 九条 透


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/9

未観測者たち:完結(五)届かない警告

雨宮が持ち帰った情報は、十分に高額だった。


倉田という名義人。温泉開発を隠れ蓑にした土地集約。電力会社の非公式関与。県議の名前。建設会社幹部の約束。後年の地熱開発に繋がる口頭合意。


緒方が欲しがっていた材料の多くは揃っている。


ただ、一つだけ欠けていた。


将来、あの山は必ず――。


断片は、いずれ出る。


その二箇所だけが、どうしても繋がらない。


雨宮は帰還後、ポッドの上でしばらく起き上がれなかった。


身体は無事だった。傷もない。肉体負荷も軽度。だが、頭の奥が鈍く痛む。何かを聞き損ねた時の痛みではない。聞かされなかったものが、耳の中に残っているような感覚だった。


白石玲奈が端末を持って近づいてきた。


「帰還確認。意識レベル正常。心拍に一時上昇がありました」


「黒沼は」


「その名前の利用者は、当施設には登録されていません」


「別施設だろう」


「可能性はあります」


雨宮は身体を起こした。


「ログは」


白石は少しだけ沈黙した。


「通常ログとしては保存されています。ただし、目的時刻前の揺らぎと同種の微細な揺れが、複数箇所に出ています」


「人の痕跡ではない?」


「断定できません」


「便利な言葉ですね」


「便利ではありません。分からないものに名前をつけて、分かったふりをしないための言葉です」


雨宮は笑おうとして、できなかった。


「俺以外の雨宮蒼介は?」


白石が彼を見る。


「確認されていません」


「でしょうね」


「なぜです」


雨宮はポッドの縁に足を下ろした。


床の冷たさが現実を教えてくれる。昭和の庭の湿った砂利ではない。料亭の畳でもない。清潔で、管理され、すべてが記録される施設の床だ。


「見えたら、そいつは俺じゃない」


白石は意味を測るように黙った。


「未来の自分の話ですか」


「未来の自分なんて信じていない」


「では、何を見たんですか」


雨宮は答えなかった。


見てはいない。


姿は見ていない。声も聞いていない。顔もない。だが、そこには確かに何かがあった。


自分が使うはずだった道を塞ぎ、自分が覗くはずだった穴を潰し、自分が聞けば戻れなくなる一語だけを消した何か。


敵なら、もっと分かりやすく邪魔をする。


黒沼なら、雨宮を現地人に見せてログを重くしただろう。あるいは別の会話を聞かせ、報告書を汚しただろう。


だが、あれは違った。


雨宮に情報を取らせなかったのではない。


取らせすぎないようにしていた。


「見たんじゃない」


雨宮は言った。


「読まされたんだ」


白石の表情は変わらなかった。だが、端末を持つ手が少しだけ止まった。


「どういう意味ですか」


「俺にも分かりません」


それは本当だった。


雨宮は未来の自分など信じていない。信じることはできない。もしそれを認めれば、クロノスAは単なる過去再現ではなくなる。過去に潜る装置ではなく、別の何かと繋がる装置になる。


そんなことは、あってはいけない。


だが、あの料亭で、誰かは雨宮の先にいた。


彼の癖を知り、彼の欲を知り、彼が情報を商品として扱うことまで知っていた。


そして、その誰かは核心を消した。


雨宮を失敗させるためではなく、失敗させないために。何故かそれだけは確信している。彼はその気になれば雨宮を追い払うこともできたはずなのだ。だか、それはしなかった。


「報告書はどうしますか」


白石が尋ねた。


「書きます」


「欠落部分は」


「欠落として残す」


白石は少しだけ目を伏せた。


「珍しいですね」


「何が」


「雨宮さんが、推定で埋めないのは」


「嫌な女ですね」


「よく言われます」


雨宮は立ち上がった。足元が少しふらつく。看護師が支えようとしたが、彼は手で制した。


現実の身体は無事だ。


だが、現実に戻ったという感覚が薄かった。


あの料亭の奥座敷に、まだ耳だけが残っている。


断片は、いずれ出る。


拾う者は必ずいる。


誰が何を待っていたのか。


雨宮は、その答えを知りたいと思った。だが、同時に、知ってはいけないとも思った。


二つの感情が、同じ重さで残っていた。


翌日、雨宮は緒方に報告書を送った。


確定情報。推定情報。観測不能箇所。欠落。ログ揺らぎ。第三者観測者の可能性。未観測データの影響。


緒方からの返信は、すぐに来た。


《肝心な部分が抜けています。推定で補完できませんか》


雨宮は画面を見つめた。


以前の彼なら、補った。


将来、あの山は必ず国家インフラになる。あるいは地熱発電の要地になる。あるいは演算施設が建つ。文脈から見れば、いくつかの候補はある。依頼者が望む形に整えることもできる。


情報は商品だ。


商品は、買い手が使いやすい形にして渡す。


それが雨宮の仕事だった。


だが、今回はできなかった。


欠けていること自体が、情報だった。


誰かが、そこを欠けさせた。


雨宮は報告書の最後に一行を追加した。


――欠落部分について、推定補完を行わない。


送信ボタンを押す前に、しばらく指が止まった。


情報屋としては失格の一文だ。


だが、観測者としては、初めて書いた正直な一文だった。


雨宮は送信した。


数分後、緒方から電話があった。


雨宮は出なかった。


窓の外は曇っていた。


ビルの隙間から見える空は、昭和の料亭で見た夜よりもずっと狭い。車の音、工事の音、スマートフォンの通知音。現代は過去より騒がしい。だが、本当に大事な言葉が聞こえないのは、どちらの時代も同じだった。


雨宮は机の上に、料亭水乃井の白黒写真を置いた。事前資料として用意したものだ。


暖簾の奥に、誰かがいる。


黒沼ではない。緒方でもない。白石でもない。


未来の自分など、いるはずがない。


それでも、写真を見ていると、雨宮は奇妙な感覚に襲われた。


この写真の向こうから、誰かがこちらを見ている。


助けを求めているのではない。


警告しているのでもない。


ただ、同じ失敗をするなと、言葉にならない形でメッセージを置いていった。


雨宮は写真を裏返した。


過去は嘘をつかない。


そう教えられてきた。


だが、過去を見た自分が嘘をつかないとは限らない。


そして、見なかったものが、何も語っていないとは限らない。


雨宮は椅子にもたれ、目を閉じた。


あの欠落は、失敗ではなかったのかもしれない。


誰かが、届かない警告をそこに残した。


それを誰が残したのか。何のためだったのか。雨宮には分からない。分かりようもない。


ただ一つだけ、分かることがあった。


次にクロノスAへ潜る時、自分はもう、自分の目を以前ほど信用できない。


それは調査員としては致命的だった。


けれど、人間としては、たぶん少しだけましだ。


雨宮はゆっくりと後ろを振り返った。


誰もいない。


そう、特別なことなど自分に起こりはしないのだ。


ただ、もしかするとクロノスAとは、自分や皆が思っているようなものではないのかもしれない。何故だかそう思えてならなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ