第1話 埋蔵金鑑定士(二)鬼の口
第1話「埋蔵金鑑定士」第2回です。
土の匂いがした。
最初に感じたのは、それだった。
冷たく、湿っていて、少し腐った葉の匂いが混じっている。
真壁はゆっくりと目を開けた。
空は低かった。
現代の山で見た空より、ずっと狭く感じる。木々の枝が覆いかぶさり、光を細かく切っていた。
彼は地面に片膝をついていた。
手を開く。
指先に土がついている。爪の間に入り込んだ黒い泥まで、妙に生々しかった。
毎回思う。
これが再現だと言われても、身体は納得しない。
真壁は立ち上がり、自分の格好を確認した。
粗末な麻の着物。
腰には縄帯。
足元は草鞋。
懐には小さな布袋があり、中には数枚の銭が入っていた。
時代平均。
クロノスAが、彼をこの時代の旅人として不自然でない程度に整えた結果だった。
便利ではある。
だが、十分ではない。
山道を歩くだけで、草鞋の頼りなさが分かった。現代の登山靴とは違う。足裏に石の形が直接伝わってくる。
真壁は軽く息を吐いた。
「八時間」
声に出して確認する。
現実の肉体を守るための滞在予定時間。
過去のこの世界では、日が沈むまでの時間とほぼ重なる。
彼は周囲を見回した。
申請座標は正確だった。
現代では杉林に覆われていた斜面に、細い山道がある。道の片側には沢が流れ、反対側には畑らしき段々地が広がっていた。
今は荒れている。
畑の土は痩せ、ところどころに踏み荒らされた跡がある。
戦の匂いがした。
真壁は懐から何かを取り出そうとして、手を止めた。
当然、地図はない。
スマートフォンもない。
腕時計もない。
持ち込めるのは身体だけ。
知識は持ち込めるが、道具は持ち込めない。
だから事前に、現代の地形図と古文書を頭へ叩き込んできた。
沢の曲がり方。
尾根の向き。
日照から見た方角。
消えた道の痕跡。
真壁は空を見た。
太陽の位置から、おおよその時刻を測る。午後に入ったばかり。まだ時間はある。
まずは村を確認する。
次に「二股の杉」。
それから「鬼の口」。
古文書にある言葉が、その時代で何を指していたのか。
それを見つけるのが、今回の仕事だった。
*
村は、思っていたより小さかった。
家は十数軒。
茅葺きの屋根はところどころ傷み、壁の土は剥がれている。
田畑はあるが、収穫後の景色にしては寂しすぎた。人の声も少ない。
真壁は村の外れで足を止めた。
不用意に入るべきではない。
見知らぬ男が現れれば、当然警戒される。戦乱期ならなおさらだ。
だが、完全に避けて通るわけにもいかなかった。
村を通らなければ、山奥へ続く古道の位置が分からない。
彼は旅人らしく、疲れた顔を作って歩き出した。
一軒の家の前で、老婆が干した大根を取り込んでいた。
真壁を見ると、手を止める。
「どこから来なすった」
方言が強い。
クロノスAは意味理解を補助してくれるが、完全に現代語へ翻訳されるわけではない。言葉は、耳と脳の間でぎりぎり理解できる形に収まる。
「南から。山を越えたい」
真壁は短く答えた。
余計なことは言わない方がいい。
老婆の目が、真壁の着物から顔へ移った。
「山はやめときなされ」
「なぜ」
老婆は、声を落とした。
「お侍さまが通る」
真壁は周囲を見た。
「何人くらいだ」
「さあ。けれど、一人二人ではない。馬の音もした」
老婆はそれ以上答えず、家の奥へ声をかけた。
その瞬間、真壁は自分の失敗に気づいた。
警戒された。
裏から、痩せた男が出てきた。年齢は三十代か。だが、疲れ切った顔のせいで五十にも見える。手には鍬を持っている。
「旅の者か」
「ああ。水を分けてもらえれば、それでいい」
真壁は腰を低くした。
争うつもりはない、と見せる。
男は鍬を下ろさない。
「水なら沢にある」
「そうする」
真壁はそれ以上話さず、背を向けた。
背中に視線が刺さる。
観測された。
この村の人間の記憶に、彼の存在が残る。
その時点で、ログは少しだけ重くなる。
白石の声が頭をよぎった。
――村人との接触を最小限にしてください。
真壁は小さく舌打ちした。
最小限だ。
まだ問題はない。
*
沢で水を飲んだ。
冷たかった。
胃が驚くほど、はっきり冷たい。
真壁は水面に映った自分の顔を見た。
四十二歳。
現代の顔だ。
痩せてもいないし、日焼けも少ない。村人の中に入れば、明らかに浮く。
クロノスAでは、なり代わりはできない。
過去の誰かの身体を借りることはできず、現在の自分の姿で入る。
その不自然さを補うために、衣服や所持金は平均化される。
だが、顔までは変わらない。
過去へ行くというのは、透明人間になることではない。
よそ者として、そこに立つことだ。
真壁は手で顔の水を拭った。
そのとき、背後で小さな音がした。
振り返ると、子供が立っていた。
十歳くらいの少女だった。
痩せている。髪は雑に結ばれ、着物の裾は泥で汚れている。
右手に木の椀を持っていた。
水を汲みに来たのだろう。
少女は真壁を見ると、びくりと肩を動かした。
「すまない。驚かせた」
真壁はできるだけ柔らかく言った。
少女は逃げなかった。
ただ、大きな目でじっとこちらを見ている。
「旅の人?」
「ああ」
「お侍さまじゃない?」
「違う。刀も持っていない」
少女は少しだけ近づき、沢に椀を沈めた。
その手首に、赤い飾り紐が巻かれていた。
真壁は何気なくそれを見た。
色は褪せているが、丁寧に結ばれている。おそらく母親か誰かが作ったものだろう。
「山を越えるの?」
少女が聞いた。
「そのつもりだ」
「やめた方がいいよ」
「さっきも言われた」
「怖い人たちがいる」
真壁は少女の横顔を見た。
「見たのか」
少女は首を振った。
「お侍さまが、何人も山に入ったって。大人が言ってた」
「何人も?」
「うん。馬もいたって」
「何をしに来たか、聞いたか」
少女は少し迷ってから、小さな声で言った。
「お金を隠すんだって」
真壁の意識が、わずかに鋭くなった。
「どこで聞いた」
少女は自分が余計なことを言ったと気づいたようだった。
椀を抱え、後ずさる。
「知らない」
「怒らない。どこで聞いた」
少女は迷った。
そして、山の上の方を小さく指さした。
「あっち。夜になると、馬の音がする」
真壁は指の先を追った。
北東の尾根。
古文書にあった「二股の杉」の方角と合う。
真壁は頭の中で人数を組み直した。
馬を伴う複数の侍。山中に金を隠すという噂。
古文書にある敗走部隊の記述と一致する。
村人は「お侍さま」としか呼ばない。
だが真壁には、それが逃げ場を失った武装集団に見えた。
秩序を守る者ではない。
秩序からこぼれ落ちた者たちだ。
「ありがとう」
真壁が言うと、少女は首を傾げた。
「おじさん、変な話し方」
「そうか」
「どこから来たの」
「遠いところだ」
「遠いところって、京?」
「もっと遠い」
少女は不思議そうに目を丸くした。
「じゃあ、また遠いところへ帰るの」
真壁は一瞬、答えに詰まった。
「……そうだな」
少女は頷き、椀を持って村の方へ走っていった。
真壁はその背中を見送った。
赤い飾り紐が、細い手首で揺れていた。
*
二股の杉は、現代には存在しなかった。
だが、過去にはあった。
尾根へ向かう途中、真壁はその木を見つけた。
太い幹が途中から二つに裂け、まるで門のように道を挟んでいる。
古文書の記述どおりだった。
真壁は胸の内で位置を刻む。
二股の杉。
そこから北へ三十歩。
ただし、戦国期の一歩と現代人の一歩は違う。
古文書を書いた人物の身長も分からない。
だから距離は目安でしかない。
重要なのは「鬼の口」だ。
真壁は周囲を探った。
岩場がある。
尾根の斜面に、黒い穴のようなものが見えた。近づくと、洞穴だった。
入り口の岩が左右に割れ、口を開けたように見える。
内側は暗く、冷たい風が出ている。
「鬼の口」
真壁は呟いた。
間違いない。
彼は洞穴に入ろうとして、足を止めた。
中から音がした。
金属が擦れる音。
低い声。
複数の足音。
真壁は素早く身を引き、近くの岩陰へ隠れた。
しばらくして、男たちが現れた。
武士だった。
数は六人。
甲冑は傷み、顔には疲労が浮かんでいる。勝ち戦の兵ではない。敗走の途中だ。
二人が箱を担いでいた。
一人は巻物のようなものを抱えている。
残りは周囲を警戒していた。
真壁は息を殺した。
来た。
過去の景色が、古文書の行間を埋めていく。
この瞬間のために、高額な利用料を払い、肉体負荷を受け、危険な時代に潜っている。
未来を知る者だけが、過去の金庫を開けられる。
武士たちは洞穴へ箱を運び込んだ。
真壁は距離を保ったまま、岩の間から中を覗いた。
洞穴の奥に、平らな場所がある。
そこに箱が置かれた。
蓋が開く。
薄暗い中で、鈍い光が見えた。
金だった。
小判ではない。
金塊に近い。
古銭も混じっている。
布に包まれた何かもある。
真壁の喉が、無意識に鳴った。
本物だ。
佐伯の山には、本当に金が眠っていた。
彼は頭の中で座標を組み立てた。
二股の杉から北へ。
鬼の口。
洞穴の入り口から奥へ七歩。
右壁のくぼみ。
現代では、おそらく土砂で半分埋まっている。
掘削機を入れるなら南側から迂回する必要がある。
数字が組み上がっていく。
金の場所が、現代の地図へ変換されていく。
その時、洞穴の中で別の声がした。
「これだけ隠せば、追っ手にも分かるまい」
年長の武士が言った。
「殿は本当に戻られるのですか」
若い武士が尋ねた。
年長の男は答えなかった。
別の男が、箱の横に布包みを置いた。
「証文はどうします」
「一緒に入れろ」
「燃やした方が」
「燃やせば、我らの首も飛ぶ。あれは切り札だ」
真壁は眉を寄せた。
証文。
古文書には、軍資金としかなかった。
だが、彼らの会話は違うものを示していた。
「村の年貢まで持ち出して、戻れなんだら笑いものですな」
誰かが言った。
「笑う者など残らん」
その言葉に、洞穴の空気が少し変わった。
若い武士が声を低くする。
「村の者は」
「夜明け前に始末する」
真壁の呼吸が止まった。
「女子供もですか」
「知った者を残すなと命じられている」
「しかし」
「情けをかけたいなら、お前が代わりに腹を切れ」
沈黙。
真壁は岩陰で動けなかった。
会話は続く。
「村から徴した分、売った分、寝返りの書付。どれか一つでも漏れれば、殿だけでなく我らも終わる」
「では、今夜」
「ああ。村に火をかける。逃げた者は山で狩れ」
真壁は拳を握った。
伝承は嘘ではなかった。
だが、美化されていた。
隠されたのは、誇りある軍資金などではない。
奪った金。
裏切りの証拠。
人を売った記録。
そして、それを隠すための殺人。
彼は思い出した。
沢で会った少女。
赤い飾り紐。
「夜になると、馬の音がする」と言った声。
真壁は奥歯を噛んだ。
関係ない。
そう考えた。
これは分岐した過去だ。
現実は変わらない。
ここで誰を助けても、現実の歴史は一行も動かない。
自分の仕事は、座標を確認すること。
金を見つけること。
依頼者に結果を渡すこと。
観測だけ。
彼は、白石にそう言った。
自分にも、そう言ってきた。
洞穴の中で、武士たちは箱を土で覆い始めた。
隠し場所は確定した。
もう十分だった。
真壁はゆっくりと後ずさった。
足元の枝を踏まないように。
衣擦れの音を立てないように。
息を浅くし、存在を消す。
彼は金を見た。
座標も得た。
これ以上ここにいる必要はない。
必要はなかった。
山の下の方で、犬が吠えた。
続いて、子供の泣き声のようなものが聞こえた気がした。
真壁は立ち止まらなかった。
*
村の近くまで戻ると、空は赤くなっていた。
夕暮れの山は、現代よりずっと早く暗くなる。
電灯がない。
車の音もない。
人間の生活の明かりが、あまりにも頼りない。
村の家々から、細い煙が上がっている。
夕餉の支度だろう。
あの中に、少女もいる。
真壁は木の陰から村を見下ろした。
今なら警告できる。
そう思った。
夜明け前に武士が来る。
山へ逃げろ。
そう言えば、何人かは助かるかもしれない。
だが、その後はどうなる。
村人に説明を求められる。
なぜ知っているのかと問われる。
武士たちの行動が変わる。
金の場所が移されるかもしれない。
自分の観測が汚れる。
いや、違う。
真壁は自分の思考を訂正した。
本当の理由は、もっと単純だ。
面倒なのだ。
助け始めれば、どこまで助けるのか決めなければならない。
村人を逃がす。
武士に追われる。
怪我人が出る。
子供が泣く。
老人が歩けない。
誰かを置いていくことになる。
そんなものは、仕事ではない。
真壁は村に背を向けた。
ログアウト申請は、意識操作だけでできる。
視界の奥に、薄い文字が浮かんだ。
《帰還しますか》
真壁は一度だけ、村を振り返った。
沢の方に、小さな影が見えた。
少女だった。
椀を抱え、家へ戻る途中なのだろう。
夕暮れの中で、赤い飾り紐だけがかすかに見えた。
真壁の胸に、何かが引っかかった。
《帰還しますか》
彼は目を閉じた。
「ああ」
視界が暗くなる。
最後に聞こえたのは、山鳥の声だった。
悲鳴ではなかった。
少なくとも、まだ。
そして真壁は、現実へ戻った。
次回、第1話(三)「金と骨」へ続きます。




