第99話:【結末】新たなロジック
「お、美味しいです!!! いつもよりずっと美味しいです!」
「それは重畳です」
「頂上? てっぺんですか? ……うん、確かにそれくらい美味しいです! 五臓六腑に染み渡りますぅ……」
「良かった。(主に塩分摂取ができて……)」
凛が幸せそうに、お揚げを「はふはふ」と頬張っている。
ずずっと麺を啜る音が、妙に静かなリビングに響く。
深夜の騒乱が嘘のような、穏やかな朝だ。
「……ねぇ、巧くん」
「……何?」
「……昨日の夜。私、寝ちゃってから……何かしました?」
凛の声が、少しだけトーンを落とした。
(……した。思い切り君の柔らかさに敗北して、不可抗力という名の救護活動(セクハラ一歩手前)に及んだよ)
なんて、口が裂けても言えるはずがない。
「……別に。あまりにも無防備に転がっていたから、羽毛布団で『封印』しただけだ」
(まさか起きていたのか? いや、それはない。あのバイタルチェック。彼女は完全に深い眠りに落ちていたはずだ!)
「……ふーん」
凛は箸を置き、テーブル越しに僕の手にそっと自分の手を重ねた。
(意味深すぎる……。一体、何を読み取ろうとしているんだ)
昨夜の、あの狂おしいほどの熱とは違う、穏やかで優しい体温。
「……私、すごく幸せです。巧くんと一緒に、こうやって朝から体に悪いうどんを食べて……むくんでる巧くんを見られるのが、私だけなんだって思ったら。……あ、むくんでても格好いいですよ?」
「……付け足しのようなフォローはしないでくれ」
重なる彼女の手を力を込めて握り返した。
このお泊まりは、凛が勇気を出して飛び込んでくれたものだ。
ならば次は、僕が飛び込む番だ。
「凛……一緒に暮らさないか?」
「え……そ、それって」
「僕がこの街――鳴凪に居られる時間は、限られているから」
「でも……け、結婚したらずっと一緒ですよね?」
「……ずっと、うん。そうだね。ただ、ちゃんと聞いておかなければならないと思ってたんだ。……凛。僕と結婚するということは、いつか君が鳴凪を離れることになる。その意味を、理解している?」
箸を置く音が、カタンと小さく響いた。
「鳴凪を離れること」
その言葉が、幸せな湯気に包まれていたリビングの空気を、一瞬で現実の温度へと引き戻す。
僕は確実に、あと一年足らずでこの街を離れる。
それは、地元を愛し、ここで育ってきた凛にとっては、単なる「引っ越し」以上の重い決断になるはずだ。
「……そうですよね。巧くんは、いつか行っちゃう人ですもんね」
凛は、握っていた僕の手に少しだけ力を込めた。
先ほどまでの「はふはふ」と笑っていた顔ではなく、一人の女性として、真っ直ぐに僕を見つめ返してくる。
「理解……してるつもりです。巧くんと一緒にいるって決めた時から。でも、改めて言葉にされると、ちょっとだけ心臓がキュッてなりますね」
「……不安?」
「不安じゃないって言ったら……嘘になります。でも! それ以上に、巧くんがいない未来の方が、私にとっては『システムエラー』なんです。だから、鳴凪を離れる覚悟は……できてます。……多分!」
最後だけ少し声を震わせながらも、彼女は力強く頷いた。
(大丈夫かな……)
その健気な決意が、僕の胸を容赦なく締め付ける。
いや、凛は僕が思っている以上に、僕に人生を預けようとしてくれているんだ。
昨夜、彼女の肌に刻んだ熱い執着が、今度は「責任」という名の静かな熱となって僕の背中を押した。
「……まずは残り一年、僕のマンションで……予行演習、といこう」
「予行演習……。ふふ、巧くんらしい言い方ですね」
凛は照れたように笑うと、重ねた手を離し、指先で僕のパンパンにむくんだ頬を再び「ぷにり」と突いた。
「じゃあ、プロジェクトリーダー。私をしっかりエスコートしてくださいね?」
「……善処する。……ただし、深夜の致死量ナトリウム摂取だけは、同棲後の規約に盛り込ませてもらうよ」
「あはは! それは却下です! 巧くんを困らせるのが、私の大事な『お仕事』ですから!」
窓から差し込む春の光が、テーブルの上の空になったカップうどんと、繋ぎ直された二人の手を明るく照らしている。
ポンコツな僕たちの、新しい「生活」という名のミッションが、今ここから始まろうとしていた。
一部 完




