第100話:【要確認】ステークホルダーへの根回しについて
身体を重ねる、という行為がこれほどまでに非論理的で、かつここまで「独占」を意識させるものだとは知らなかった。
昨夜、僕の腕の中で快感の閾値を超え、涙目で僕の名を呼んでいた凛。
僕のすべてを包み込み、熱い奔流を受け入れた彼女は、僕の理性を跡形もなく粉砕した。
指先一つ、言葉一つで彼女を上書きし、僕という存在をその深奥まで刻みつけたあの一夜。
僕たちは深く、濃密に「結ばれた」のだ。
——そして、迎えた朝。
「……あ。あの、巧くん。一つ……確認してもいいですか?」
完食した『朝うどん』。
凛が箸を置き、少しだけ居住まいを正して僕を見上げた。
「何?うどんのコシに不服でもあった?」
「いえ、そうじゃなくて……。巧くんのご両親は、その……大丈夫、ですか?」
「…………」
脳内を高速で駆け巡っていた、マンションの賃貸契約の見直し、住所変更の手続き、ネットワーク回線の増強プラン……。それら「同棲に必要な物理タスク」が、その一言で一気にフリーズした。
(……え?)
驚くほど、全く、綺麗さっぱり、脳内メモリから消去されていた。
ここまでは、婚約があっという間に決まり、結婚というゴールテープを切るだけの状態。
出会いから僅か半年。
長ハイスピードのプロセス。
まるで深夜のハイテンションのような感情と、べた踏みのアクセルだけで突っ走ってきたようなものだった。
「……僕の両親……。……完全に、盲点だった」
「あはは、やっぱり! 巧くん、自分のことになると極端なんだから」
凛が困ったように、でも嬉しそうに笑う。
そうだ。
他人の顔色を伺うのは僕の得意分野のはずなのに、彼女との共同生活という「最優先プロジェクト」の眩しさに、自分の周囲の景色が完全にホワイトアウトしていた。
「……そうだね。同棲という運用フェーズに移行するなら、当然、双方の親への報告と承認が必要だ。これはコンプライアンス上の必須要件だ」
僕はむくんだ顔を片手で覆い、深呼吸した。
「うちの両親は……多分、大丈夫です。彼らは僕の判断を100%信頼……というか放任しているからね。事後報告でも致命的なエラーにはならないはずだ。それよりも……」
互いのパーソナルスペースに踏み込まないのが、佐藤家のプロトコル(儀礼)だ。
実際のところ今まで一度も、家族に女性を紹介したことがない。それどころか、「付き合っている相手がいるか」というプライベートな問いかけすら、実家で交わされた記憶がないのだ。
僕にとってはそれが「効率的な親子関係」であり、わざわざ確定していない流動的な情報を共有する必要はないと考えていた。
(だが、今回は『結婚前提の同棲』という確定事項だ。未知のデータをいきなり投入して、システムが拒絶反応を起こさないだろうか……?)
ふとよぎった一抹の不安を、僕は合理性という名の蓋で閉じ込めた。
僕は眼鏡のブリッジを押し上げ、居住まいを正した。
「まずは凛、君のご両親に承認を取りに行こう。これは僕の誠意という名の、最重要プレゼンになる。……あとは、蓮くん。それから、太郎にも念のため挨拶を」
「えっ? 太郎にまで?」
凛が目を丸くする。
「当たり前だ。家族の構成員だろう? 彼の日常を乱すことになるんだから」
「あはは! 巧くん、太郎は犬ですよ! ……あっ、でも、私が家を出るなら『お散歩に行けなくなるよ』って、ちゃんと伝えなきゃですね」
「……散歩の代行リソースは確保できているのかい?」
「もう! そんな難しいこと考えないで、よしよししてあげてください! 太郎、巧くんのこと大好きなんですから」
「(え……好かれてるか?)いや、太郎にとっては重要な案件だ。一日の最大報酬(楽しみ)だろう」
共同生活、第一歩。
それは役所への届け出でも、家具の買い出しでもなく。
「家族」という名の、世界で一番手強い承認ルートを突破することから始まるらしい。
(……よし。まずは、対・太郎用の高タンパク低塩分なジャーキー(贈賄用)をリサーチしよう)
再びタブレットを起動し、新たなタスクを書き込んだ。
凛のご両親への挨拶、蓮くんへの根回し、そして太郎への献上。
僕の手腕にかかれば、この「共同生活」というプロジェクトは、滞りなく承認されるに決まっている。
……そう、この時の僕は、微塵も疑っていなかったのだ。
「僕の両親」という名の巨大な壁が、この恋愛プロジェクトを、いとも簡単に弾き返そうとしていることなど——。




