第98話:【幸福】致死量のナトリウム
コンビニのカップ麺コーナーで、僕は立ち尽くしていた。
手に取った「お揚げがじゅわ~っとなるやつ」の成分表を、網膜スキャンさながらに凝視する。
(……驚異的な数値だ。ナトリウム含有量が、ほぼ致死量(※佐藤調べ)に近い。深夜二時にこれを摂取するのは、健康管理における完全なる敗北を意味する……)
だが、脳裏に浮かぶのは、ベッドの上で「あしがガクガク」と泣き言を言っていた、僕の最優先事項の顔だ。
(……いや。あの過酷な熱量消費を考慮すれば、これはもはや食事ではない。緊急時の経口補水液に近い役割を果たすはずだ)
自分にそう言い聞かせ、なぜか同じものを二個、カゴに入れた。
(同じ「戦地」を潜り抜けてきたのだ。共犯者として、同じ毒を食らおう)
冷たい夜気を切り裂き、最短ルートでマンションへと帰還した。
玄関のドアを静かに開ける。
「ただいま……。凛、買ってきたよ」
返事がない。
寝室の奥から微かな、けれど不自然なほどの静寂が漂っている。
(……嫌な予感がする。……まさか、脱水症状が進行したか?)
僕はレジ袋を握りしめたまま、寝室のドアを勢いよく開けた。
「凛??」
視界に飛び込んできた光景に、僕は手にした袋を落としそうになった。
「っ!!!!! ……し、死んでる?!?!」
ベッドの上。
僕が丁寧に巻き付けたはずのバスタオルは、無残にも床に脱ぎ捨てられ、その主を失っている。
そして、その中央には――
一糸纏わぬ姿で、大の字……いや、もはや「力尽きた野生動物」のような無防備さで、凛が横たわっていた。
ピクリとも動かない。
白く柔らかな肌が僅かな明かりに照らされ、あまりにも非現実的な美しさと「事件性」を放っている。
「り、凛!! 応答しろ!! バイタルチェック……っ!!」
僕はパニックを論理の仮面で隠しきれず、膝からベッドに崩れ落ちるようにして、彼女の手首を掴んだ。
(……脈拍、確認。……1分間に65。……正常。……やや徐脈か? いや、これは深い睡眠導入時の数値……)
次に、おそるおそる彼女の鼻先に指を近づける。
(……呼吸、確認。……規則正しい。……時折、微かに『ふー……』という、気の抜けた音が漏れている……)
「…………」
僕は、自分の心臓が、彼女の倍以上の速さで鐘を鳴らしているのを感じた。
「……寝てるだけ、か。良かった」
極度の緊張から解放され、その場にへたり込んだ。
僕が買い出しに出ている数分の間に、空腹よりも「睡魔」という名の不可抗力に敗北したらしい。
しかも、バスタオルの拘束が煩わしくなったのか、無意識に蹴り飛ばした挙句の全裸である。
(……コンプライアンス的に、アウトだ。……いや、僕の理性的限界点的にも、これ以上の放置は極めて危険だ)
床のタオルを拾い上げた。
「……凛。……一回起きてないかな?……致死量のナトリウムが、君を待っているんだけど……」
震える手でタオルを掛けようするが、視界に入るあの想定外なたわわな二つの果実。
「…………」
もにゅ。
柔らかい。
「…………」
僕は、自分の右手を、まるで呪われた遺物でも見るかのように凝視した。
(……僕は、何をしている。……これは救護活動の範疇を越えている!!)
ハッと我に返り、電撃に打たれたように手を引き剥がす。
寝苦しそうに、凛が「……んぅ……巧くん……」と、夢の中で僕の名前を呼んだ。
「……ひっ……!!」
情けない声が漏れた。
「……なにしてるんだ、僕は……!!」
自分自身へのあまりの呆れと、拭いきれない背徳感。
僕は慌ててタオルを……いや、もはやタオルでは心許ないと判断し、足元に追いやられていた羽毛布団を掴み取った。
バサァッ!!
まるで事件現場の証拠隠滅を図るかのように、一気に彼女の首元まで布団を被せる。
真っ白な肩も、僕を狂わせた「たわわな二つの果実」も、全てを厚い羽毛へと封じ込めた。
「…………ふぅ、ふぅ……」
肩で息をしながら、僕は布団の端をこれでもかと丁寧に整えた。
(……封印完了。……これで、僕の理性を脅かす視覚的・触覚的刺激は遮断された。……安全だ。……ここは、安全なはずだ)
布団に包まれ、ミノムシのようになった凛は、先ほどよりも一層深い、安らかな寝息を立て始めた。
僕はベッドサイドの床に座り込み、まだ熱を持っている自分の右手を、反対側の手でギュッと押さえつけた。
「……うどん、食べよう……」
僕はキッチンへ向かい、ケトルのスイッチを入れた。
静まり返った部屋に、お湯が沸騰するボコボコという音だけが響く。
カップの蓋を開け、乾燥した麺と、あの「じゅわ~っとなる」はずの四角い物体の上に、熱湯を注ぎ込む。
正確に、五分。
スマートウォッチのタイマーが震えるのを待ち、僕は蓋を剥がした。
「…………っ!!」
その瞬間、立ち上ったのは、理性を物理的に殴りつけてくるような暴力的な出汁の香りだった。
(……くっ、これがナトリウムの……致死量(※佐藤調べ)の輝きか。……カツオ、昆布、そして大量の塩分が、僕の嗅覚受容体を蹂躙していく……)
割り箸を割り、その「主役」へと箸を伸ばした。
たっぷりと熱湯を吸い込み、重たげに、けれど誇らしげに鎮座するお揚げ。
それを、一口。
「…………う、うまい」
じゅわっ、と。
口の中に溢れ出したのは、甘辛い汁と、暴力的なまでの旨味の奔流。
(……凛が「これ」を求めた理由が、今なら論理を超えて理解できる)
深夜二時半。
カップうどんの空容器を前に、かつてないほどの敗北感と、それ以上の深い幸福感に包まれながら、静かに夜を明かす準備を始めた。
◇
リビングの朝日が、ソファの角から僕を強引に引き剥がした。
頭が重い。
寝返りを打つたびに、視界のピントが微かにずれるような感覚がある。
(……ナトリウム過剰摂取による、浸透圧の急激な変化……。顔面の血管外に水分が滞留している……っ)
「巧くん……」
ぼんやりとした視界に、眩いばかりの朝の光と、掛け布団をマントのように羽織って立っている凛のシルエットが重なる。
「……おはよう、ございます」
「……うわぁ」
僕が反射的に体を起こそうとした瞬間、ソファという極めて限定的な可動域から、重力が容赦なく僕を迎え入れた。
ゴトン。
鈍い音とともに、僕は床と水平になった。
「だ、大丈夫ですか!!! 巧くんっ!!!」
凛が慌てて駆け寄ってくる。
その顔には、昨日僕が買い出しに行っている間に、自分だけが大の字で眠りこけてしまったことへの謝罪と、僕の変わり果てた姿への困惑が入り混じっていた。
「……ごめんなさい。……私、ベッドを完全に占領しちゃってましたね」
申し訳なさそうに、けれど少しだけ唇を尖らせて僕を見下ろす彼女。
その視線が、床に転がる僕の顔面に固定される。
「だ、大丈夫……気にしないで」
「……ふふっ」
凛が、クスクスと笑い声を漏らす。
「巧くん、なんか……顔がめちゃくちゃむくんでます」
「…………」
僕はすかさず眼鏡を取り、スマホのインカメラを起動した。
画面に映し出されたのは、普段の「冷徹マシーン」とは程遠い膨張した顔の男だった。
(……昨夜の『致死量のナトリウム』が、僕の顔面に報復している……)
僕は絶望のあまり、床の上で再び大の字になった。
「っ……、ひどい…………見ないで」
「あははっ! でも、そんな顔の巧くんも、なんだか可愛いです」
凛は笑いながら僕の隣に座り込み、その柔らかな指先で、僕のパンパンになった頬をぷにりと押した。
――昨夜の記憶が、鮮明に脳内を駆け巡る。
ベッドのシーツの感触、あの柔らかい感触、そして深夜に食べた暴力的な出汁の味。
「……やっぱり、深夜のカップうどんは暴挙だった」
「ええっ!? もしかして巧くん、ひとりで食べたんですか? ずるいです!」
凛は布団を被ったまま、信じられないものを見るような目で僕を凝視した。
「いや、凛の分もあるよ。安心して。……あの、朝食にする?」
「わぁ! 食べます! すぐ食べます! 巧くん、お湯わかしてください!」
凛は「お揚げ」という報酬系に向かって布団をマントのようになびかせ、キッチンへ向かおうとする彼女の足取りは、心なしかまだ少し覚束ない。
「……その前に、凛。まずは着替えましょう……」
床から立ち上がり、まだ布団一枚(しかも僕の)を纏っただけの、極めて「防御レベルの低い」凛の肩を優しく掴んだ。
(……そんな格好でうどんを啜られたら、僕の血圧が上がってしまう)
凛は着替えに寝室へと引っ込んでいった。
僕はその背中を見送りながら、再びキッチンのポットのスイッチを入れる。
(……朝からカップうどん。うどん県民は朝うどんを食べるらしいから、これは有りなのかな)
ボコボコとお湯が沸く音を聞きながら、僕はむくんだ顔をマッサージしながら、少しだけ苦笑した。




