第97話:【深夜】レスキュー・ミッション
湯船に浸かると、ふわりと温かい湯気が二人の身体を包み込んだ。
先ほどまでの狂おしいほどの熱狂が、ゆったりとした水圧に溶け出していく。
「……はぅ……っ」
反響する甘い声を、僕は再び深い口づけで塞ぎ、彼女を抱き上げたまま、湯気の立ち込めるバスタブへとゆっくり身体を沈めた。
どちらからともなく漏れた吐息。
ようやく落ち着きを取り戻した浴室には、心地よい静寂と、時折跳ねる水音だけが響いている。
湯船の中で、凛は僕の正面に座り、その細い腕を僕の首筋に回して預けてきた。
今は情欲よりも、互いの体温を確認し合うような穏やかな親密さが支配している。
「……やっと、落ち着きましたね」
凛が僕の肩に顎を乗せ、耳元で小さく囁いた。
湯気に蒸気した頬は、先ほどまでの情事の名残でほんのり赤く、その瞳には慈しむような光が宿っている。
「そうだね。……凛の鼓動、やっと正常値に近づいてきた」
「もう、すぐそうやって数値とか言う……。今はもっと、こう……ふわふわした気持ちでいてください」
「ふふ。僕なりの照れ隠しだよ。善処する」
濡れた背中に腕を回し、滑らかな肌の感触を慈しむように撫で上げた。
お湯の中で密着した二人の身体は、境界線が曖昧になるほど馴染んでいる。
「……巧くん」
「ん?」
「さっきの……その……『邪悪な』とか言って、ごめんなさい。……でも、本当に、びっくりしちゃって」
思い出したのか、顔がまた少し赤くなる。
腰を引き寄せ、鼻先が触れ合うほどの距離で見つめ返した。
「いいよ。最高の評価だと思ってるから。……それだけ、僕が君を独占したかったっていう証拠だよ」
そう言って、僕は凛の濡れた唇に、お湯の温かさよりももっと熱く、優しい口づけを落とした。
「結論は?」
湯船の中で、至近距離にある潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめた。
僕の唐突な問いかけに一瞬だけ思考がフリーズしたように「え……っ?!」と声を漏らす。
「……初めては痛かったのか、それとも……。その分析結果を、どうぞ発表願います」
あえて仕事のプレゼンでも促すような、慇懃でいて、逃げ場を塞ぐようなトーン。
凛の顔は、お湯の熱さとは明らかに違う温度で、耳の先まで一気に真っ赤に染まった。
「も、もう!……そんなこと、今ここで聞かなくても……っ!!」
「いいえ。今後の……その、円滑な運用のために、ユーザーのフィードバックは不可欠です。定量的な評価が難しいなら、定性的な感想でも構わない」
僕は首に回された腕を引き寄せ、密着した肌から伝わる、再び跳ね上がり始めた鼓動を愉しむ。
「……い、いじわる……。……最初は、その……やっぱり痛かったです。……あんなの、全部は無理だって思いました……」
僕の肩に額を押し当て、消え入りそうな声で白状した。
けれど、言葉はそこで終わらない。凛の指先が、僕のうなじの髪を、熱を帯びたままそっと弄ぶ。
「……でも、巧くんが……何度も、優しく……、その……恥ずかしいくらい、キスしてくれたから……。……途中から、痛いのなんて、どこかに行っちゃいました」
「……ふむ。痛覚を快楽の上書きが成功した、という理解でいいかな?」
「……っ、もう! そういう言い方しないでください! ……とにかく……、巧くんが、……すごく、……熱くて。……私の中が、巧くんでいっぱいになって、……幸せだったんですぅ……っ」
最後の方は、もう泣き出しそうなほど真っ赤になって、僕の胸元に顔を沈めた。
「はは……なるほど。分析完了。……結論としては、『大成功』ということで承認していいかな、凛さん?」
耳朶に、口づけを落としながら囁く。
「……っ。……はい。……認めます……っ。……大成功、でした……っ。ワークフロー承認です」
「……承認、ありがとう。……じゃあ、継続案件として、さっそく次のフェーズへ移行させてもらってもいいかな?」
「……え、ええ……もう一回、ですか?」
「冗談だよ……。したい?」
「むぅぅ!!意地悪過ぎです!」
「……さて、そろそろ上がろう。脱水症状を避けるために、水分補給が必要だ」
僕は湯船から立ち上がり、まずは凛を優しく抱き上げた。
彼女を湯船の外へと降ろした、その瞬間だった。
「バタン!!」
乾いた音と共に、凛の体が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「ぉあっ!!! だ、大丈夫かっ!? 凛!! 頭打ってない!?」
全速力で膝をつき、彼女の肩を支える。
脳内では瞬時に緊急事態のワードが高速展開される。
(……散々汗をかいた後の入浴による血圧変動だ)
「うぅ……っ。……お、お尻が……」
凛は床にぺたんと座り込んだまま、涙目で自分の下半身を見つめていた。
「あ、足が……足の付け根が変で……。ガクガクして、力が入らなくて……立てないですぅ……っ。な、なんでぇ?」
震える声で漏らされた、深刻な不具合の訴え。
「…………」
(原因は、明白だ。)
凛の体力を無視して、何度も一番奥に「邪悪な」熱を叩き込みすぎたせいだ。彼女の筋肉は、僕の過剰な執着によって、完全に限界を超えてしまっている。
「……ごめん。僕のせいです、それ」
僕は痛恨の極みといった顔で、脱衣所からバスタオルをひったくり、凛の白い肌を包み込んだ。そして、彼女を再び横抱きにする。
「ひゃっ!? た、巧くん!?」
「……消防士は呼べないから、僕が責任を持ってベッドまで運びます」
「……お母さんは、このために下着のこと言ってたのかな……」
腕の中で、凛がボソッと呟く。
「いや、この想定ではないよきっと。もしお母様がここまで見越してアドバイスしていたなら、僕のプロジェクト管理を脅かす、極めて優秀な『社外監査役』ということになってしまう。……何でもない」
彼女をベッドに座らせ、キンキンに冷えた水を差し出した。
「……ん、はぁ……。冷たいお水、美味しいです。……巧くんも飲みますか?」
「ありがとう」
凛から受け取り、僕も残りを飲み干す。
「何??」
凛の視線が一点に集中している。
正確には座る彼女の目線の高さにある、僕の腰から下……。
「……ま、まだ、なんかあの……元気そうで……」
「…………」
僕は慌ててタオルを掴み、腰に巻きなおし隠蔽を施した。
(……仕方ないだろう!完全なスリープモードになるまでは、それなりに時間がかかるんだ!)
「あ、あの」
「な、なに?!」
不自然なほど声を裏返して問い返した。
「……何だか、お腹すいちゃいました!」
「……はぁ」
(そうだね……。激しい労働の後のエネルギー補給の観点から優先度が高い)
先ほど強いた過剰な労働(?)を考えれば、体力が底を突くのは当然のこと。
「デリバリーしよう。この時間でも、体に優しくて栄養の取れるものを探すよ」
「ラーメン食べたいです! カップラーメン! ありませんか?」
「……残念ながら、そんな高塩分・高GIの在庫はないよ。僕は基本的にそういうものは食べないからね」
「えぇー……こういう時に必要な塩分じゃないんですかねぇ」
凛はベッドぐったりと倒れ込みながら、これ以上ないほど「不服」な顔をしている。
「……だってぇ巧くんがいじわるして、お腹ペコペコなんですもん。汗もいっぱいかきました……ずるいです、巧くんだけ元気で……。ラーメン……ちゅるちゅるしたい……」
(…………なんだ、その言い方は。僕の罪悪感と独占欲をピンポイントで突いてくる、極めて悪質なレビューは)
「コンビニ行ってくるよ……」
これは無理をさせた僕の、せめてもの償い。
「わぁあい! きつねうどんがいいです!」
(……ラーメンはどこへ行った。仕様変更が早すぎる)
「……わかった。きつねうどんだね。……フォックスマートのプライベートブランドのでいい?」
「ダメです! あのメーカーの甘いやつ! お揚げがじゅわ〜ってなるやつ!」
さっきまでの「足がガクガクで立てない」という弱々しさが嘘のように、その笑顔だけが輝いている。
(……この笑顔……。……僕は一生、こうやって彼女に振り回されるんだろう……でも悪くない)
「……僕が戻るまで、絶対に無理に動かないでね。もし次に帰ってきた時に君が床に倒れていたら、本当に消防士にあの下着を見せる羽目になるよ」
「ぎゃ!……はぁーい、分かりました! 巧くん、いってらっしゃい!」
彼女の能天気な返事を聞き届け、僕は深夜の住宅街へと飛び出した。
◇
(……やってしまった。完全に、やってしまった)
寝室のベッドの上で、私はバスタオルにくるまりながら、天井を仰いだ。
巧くんが「きつねうどん」を調達するために部屋を出て行った、その静かな玄関のドア音を聞きながら、私はようやく冷静さを取り戻しつつ……いや、違う。
冷静になればなるほど、事態の深刻さに頭が真っ白になる。
(((そ……、卒業してしまった!!)))
別に大切に取っておいたワケでもないけど……。
今まで全く縁がなかったのに、巧くんが現れて僅か半年で……
イケメンでハイスペックで、でも本当は超意地悪で理屈ぽい先輩が、彼氏をすっ飛ばして婚約者になって……。
開いた煩悩の扉は全く閉まってくれなかった。
巧くんともっとくっつきたくなって、自分からお泊まり提案して。
(あ、あんなに気持ちいいなんて……痛いのは最初だけだった。まさか……足がガクガクで立てないなんて、そんなの、私、巧くんに「全てを教わってしまった」って言っているようなものじゃない……!)
「ひぃぃいんっ!」
さっきまでの恥ずかしさと、巧くんの「ハイスペックでいじわるな熱」が、今更になって全身を駆け巡る。
巧くんが浴室で全裸でオタオタしていた時とは違う、ベッドでの情熱的な瞳。
(……大好き。……うぅ、もう、どうしよう。巧くんのあんな顔、私しか知らないんだ……でも、あの全裸で慌ててたの、なにあれ……あはは)
ベッドのシーツには、まだ私たち二人だけが共有した「熱」の余韻が残っている。
「巧くんの匂いがする……」
これまで巧くんと過ごしてきた時間は、どれも大切だったけれど、今夜のこれは全くが違う。
まだどこか先輩と後輩の延長戦から、ようやく、心も体も、本当の意味で巧くんの一部になれた気がする。
……でも。
(お腹、空いた……)
この空腹感は、今の私の恥じらいすらも凌駕していく。
「だって……あんなに動いて、汗かいたんだもん!」
コンビニに走ってくれている巧くんの背中を想像する。
きつねうどんを「プロジェクトの重要案件」みたいに真剣に選んでいる顔を想像すると、自然と口元が緩んでしまう。
「……あははっ、本当に。巧くん、本当可愛いです!」
私が彼を振り回しているのか、それとも彼が私を飼い慣らしているのか。その答えなんて、どっちでもいい。
私はベッドから落ちないように慎重に体を動かし、彼が戻ってくるのを待った。
早く、巧くんに会いたい。
彼が帰ってきたら……またその腕の中に飛び込んで、思い切り甘えよう。
――だって、もう私には、もう巧くんしかいないんだもん。
「……早く帰ってきて、巧くん」
誰にも聞こえない声でそう呟くと、胸の奥が温かくなって、視界が少し潤んだ。
もっと、もっと一緒にいたい。




