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ハイスペ佐藤くん、この恋だけはポンコツです〜五月雨式に失礼いたします〜  作者: もふおのしっぽ
第一章

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第94話:【境界】超える理性と崩壊

 マンションの正面玄関に到着し、冷たい冬の夜気の中で足を止める。


 肺の奥まで凍りそうな空気を吸い込み、腕時計に視線を落とした。


(……まだ、いない。凛の脱出プロトコルに何らかの緊急事態が生じたか……)


 不安が脳内を掠めた、その時だった。


 暗がりの向こうから、聞き覚えのある、けれど少し急いだ足音が響いてくる。


パタパタ……。


「っ!」


 振り返る暇もなかった。


 背中に、柔らかくて温かい衝撃が、すとんと収まる。


 ――ぽす。


「…………」


 背中越しに伝わってくる、凛の少し早まった鼓動と体温。


 一瞬、思考が過去の記憶を呼び出した。


(ああ。……あの時も、こうして不意打ちのハグをされて、戸惑ったな)


 かつての僕は、この感情の正体が分からず、まるで痴漢の免罪を主張するかのように両手を挙げて硬直していた。


「……ははっ」


 自嘲気味な、けれど幸福感に満ちた笑みがこぼれる。


 僕は背後に回された細い腕を優しく掴み、そのままゆっくりと自分の方へ引き寄せ、正面へと向き直らせた。


「た、ただいま……です。巧くん」


街灯の光の下、僕の胸に顔を埋めるようにして、凛が上目遣いに呟く。


 宴会場の喧騒も、立花さんの警告も、今はもう遠い。


「おかえり、凛」


 彼女を逃がさないように、ぎゃっと力一杯抱きしめた。


 凛の髪から、微かに冬の風の匂いと、さっきまで一緒にいた忘年会の名残がする。


 マンションの入り口という公の場であることも忘れ、僕は自分の「最優先事項」を、ただ静かに、けれど強く、腕の中に閉じ込めた。



 エントランスでの抱擁から、僕たちの部屋へ。


 ドアを閉め、リビングの電気をつける。


「……あ、そういえば」


 僕は冷凍庫から準備していたものを取り出した。


「凛の好きなアイス、買っておいたんだ。……食べる?」


「…………」


 借りてきた猫のように大人しく立っている。


 普段の凛からは想像できないほどの静けさだ。

(……いや、違うな。これは遠慮しているんじゃない)


 凛は、自分からこの「お泊まり」を提案したのだ。


 その言葉の裏にある覚悟が心臓の奥底をじりじりと熱くさせる。


「……座る?」


「……はい」


 僕が促すと、凛は少しだけ背筋を伸ばし、ソファにちょこんと腰を下ろした。


 アイスを差し出そうと隣に座っても、彼女はもじもじと指先を弄っている。


「あの……えーっと……」


 言葉が続かない。


 ゆっくりと顔を上げ、僕を上目遣いに見つめた。

 その瞳に溜まった熱が、言いたいことを雄弁に物語っている。


 僕はアイスをテーブルに置き、躊躇なく彼女を腕の中に引き寄せた。


「……いいよ。焦らなくても」


「……違うんです」


 凛は僕のシャツをギュッと掴み、さらに深く僕の懐へと潜り込んできた。


「私が……もっと巧くんを、近くに感じたくて……だめ、ですか?」


 その言葉は、僕の理性を焼き払うには十分すぎる威力を持っていた。


 凛の吐息が、僕の鎖骨あたりに触れる。


(ああ、この人はほんとに……僕の理性を軽々と飛び越える)


 僕は彼女の背中に手を回し、深く深く抱きしめ直した。


 凛は顔を真っ赤にしたまま、僕のシャツの襟元を掴んで少しだけ体を離した。


 その瞳は潤んでいて、彼女が今、どれほどの覚悟を持って僕の隣にいるのかを物語っていた。


「しゃ……シャワー、借りれますか?」


(……はは。本当に僕よりよほど大胆だな)


 僕は彼女の額に落ちた一筋の髪を、優しく指先で退けた。


「もちろん。タオルも、着替えも……僕のシャツで良ければ、新しいのを出しておく」


「着替えは一式持ってきました……」 


 僕の言葉に、凛はさらに頬を赤く染めた。


「あの、お酒飲むつもりなかったんですけど……何杯かシャンパン飲んじゃって……お酒くさいです。あと、汗も……」


 彼女は自分自身の匂いを気にするように、恥ずかしそうに肩をすくめた。

 

 僕は立ち上がり、彼女の手を引いてバスルームの前へと案内した。


「準備しておく。……ゆっくりしてきていい。……少し落ち着くための時間を取るから」


 僕はそう言って、凛の背中を優しく押した。


 バスルームのドアが閉まる音を聞きながら、僕はリビングのソファに腰を下ろす。


 (……はぁ。参ったな。いざとなったら、自分でも驚くほど心拍数が跳ね上がっている)


 深く息を吐き出し、静寂の中で自分自身の鼓動を整えることに集中した。


 視線の先、棚の奥。

 不測の事態に備えて発注した、あの「144個の在庫」の箱が目に入る。


(……使うことに、なったな。あの日、即座に発注しておいて本当に良かった)


 コンプライアンスの遵守と、愛する人を泣かせないという誓い。


 そして自分の内側に潜む熱。

 それらを必死に天秤にかけながら、彼女が戻るのを待った。


 やがて、バスルームの扉が開き湯気とともに現れた凛。


「……ありがとうございました」


 上気した頬と、微かに湿った髪。


「……あの、化粧水とか、なんか私のよりいいのがあったので、使っちゃいました。たっぷりと……なんかつやつやになりました」


「ははっ。いいよ、親の敵くらい使っても」


 僕は立ち上がり、彼女の視線を受け止めながら、自分の役割を再認識する。


「じゃあ、僕も入ってくる。……もしアイスが食べたくなったら、遠慮なく食べてていいから」


 僕なりの気遣いのつもりだったが、彼女は少しだけ恥ずかしそうに微笑んで、首を振った。


「歯磨きもしたので、やめときます」


(…………)


 ――準備万端だ。


 僕は短く「……分かった」とだけ答え、入れ替わるようにバスルームへと向かった。


 熱いシャワーを浴びながら、僕はこれからの「最優先事項」を遂行するために、最後の一振りの理性を研ぎ澄ませた。


 バスルームから出た僕は、まずはリビングを見渡した。


 しかし、さっきまで座っていたソファに、その姿はない。


(……あれ? どこいった?逃げる、わけないよな)


 一抹の不安を覚えつつ、廊下の突き当たり、寝室のドアへと視線を向ける。 


 わずかに開いた扉の隙間からそっと中をのぞき込む。

 ベッドの端に所在なげに腰掛けていた。


「……いる」


 心臓が、本日何度目か分からない大きな音を立てる。


 僕は意を決して一歩踏み出し、壁のスイッチを指先で弾いた。


 パチッ。


「ひゃっ!!!」


 部屋全体が明るくなった瞬間、凛は肩を跳ね上げ、文字通り飛び上がるような声を上げた。


 丸まった背中が、まるで驚いた小動物のように細かく震えている。


「あ……ごめん。驚かせるつもりはなかったんだ」


「た、巧くん……! びっくりしました……。あの、勝手に入っちゃって……」


 凛は顔を伏せ、シーツをギュッと掴み直した。


 街灯の下で見せた大胆さはどこへやら、今の彼女は今にも溶けてしまいそうなほど赤くなっている。



 僕は静かにドアを閉め、ゆっくりと彼女の元へと歩み寄った。


 空気の中に、シャンプーの甘い香りと、微かな熱が混ざり合っている。


「……凛。そんなに端っこにいたら、落ちるよ」 


 僕は努めて冷静な声を出し、彼女の隣に腰を下ろした。


 シーツ越しに伝わる彼女の微かな震えが、僕の指先まで伝染してくる。


「……巧くん。……あの、さっき言ったこと……」


 凛が消え入りそうな声で、僕のシャツの袖を指先でつまんだ。


「もっと一緒に……なりたいって。……本気ですから」


 その真っ直ぐな、けれど震える「本音」の出力に、僕はもう、どんな理論的な言い訳も用意することはできなかった。

 

「うん。……分かった、こっちおいで」


 努めて穏やかに、けれど拒絶を許さない響きを含ませて、僕は両腕を広げた。


 僕の声に応じるように、凛が「はい……」と小さく、震える声で答える。


 ためらいがちに、けれど吸い寄せられるように、ゆっくりと僕の腕の中へと収まってきた。


(……温かい)


 腕の中に収まったその体は驚くほど華奢で、少し力を込めただけで壊れてしまいそうなほどだ。


「……巧くん。心臓、すごく速いですね」


 僕の胸に耳を押し当てるようにして、凛がポツリと呟いた。

 

(……バレたか。流石の僕も、この状況でバイタルサインを正常に保つ術は持ち合わせていない)


「……ああ。僕も緊張してるかな」


 僕は自嘲気味に笑い、彼女のうなじに顔を寄せた。


 触れ合う部分から、互いの熱が溶け合っていくのが分かる。


「凛。……逃がさないよ。いい?」


「……逃げないです。……ずっと、こうしてほしかったから」


 凛の手が、僕の背中に回され、ギュッとパジャマを掴んだ。


 その小さな手の力が、僕の最後の理性のリミッターを、音を立てて解除していく。


 僕は彼女の肩を優しく抱き直しキスをする。


 夜の静寂が、二人の重なる吐息だけで満たされていく。

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