第93話:【焦燥】空回りするお世話係
乾杯の挨拶が終わると、会場は一気に騒がしくなった。
あちこちでグラスが重なり合い、楽しそうな笑い声が飛び交う。
遠くの席で、凛が営業所のみんなと楽しそうに話しているのが見えた。
(……そうだ。今日は一年の労を労う日だ。僕が過保護なナイトのように彼女の周りを徘徊するのは、最早無粋だ)
自分にそう言い聞かせて、目の前のことに集中しようとした。
隣の席では、立花さんが依然として「なぜ私が佐藤の隣なんだ」という不機嫌な顔のまま、手近なカナッペを無造作に口に運んでいる。
「……立花さん。何か、取ってきましょうか?」
「え? ……結構です。自分のことは自分でできますから」
立花さんは僕の方を見もせずに、素っ気なく断った。
だが、今の僕にはやるべきことがあった。
この忘年会の「くじ引きによるランダム席」という――真意は、部署間の溝を埋めるという幹事達の無言の要請。
ならば僕は、ここで焦燥でも不貞腐れるのではなく、「気の利く同僚」という役を完璧に演じきるべきだ。
「そう言わずに。あちらの料理、この席からだと遠いでしょう? 僕が取ってきますよ」
彼女の返事も聞かずに立ち上がり、料理が並ぶテーブルへと向かった。
立花さんが「え、ちょっと……」と困惑している声が聞こえたけれど、あえて無視して戻る。
「……これくらいなら、食べられますよね?もし多かったら、僕のお皿へ移してください」
彼女の前に、綺麗に盛り付けた皿を置いた。
さらに、通りかかったスタッフを呼び止める。
「すみません。彼女にシャンパンを一杯もらえますか」
「かしこまりました」
立花さんのグラスにシャンパンを注いでいく。
「…………」
立花さんは目の前の山盛りの料理と、なみなみと注がれたシャンパン、そしてそれらをなんだか満足げな顔で見つめる僕を、交互に見た。
「……なにこれ」
立花さんは、納得いない顔をし呆然としている。
(なぜ、私はこの『冷徹マシーン佐藤』に、お姫様扱い(エスコート)されているの……!? 気持ち悪っ……!)
「……え、あの。なぜ佐藤さんにこんなに丁寧にお世話されるんだろうって……」
そう呟く彼女の声には、深い困惑が滲んでいた。
(……あれ? もしかして、やりすぎたか?)
彼女の反応を見て、ようやく自分の行動が少しズレていたことに気づき始めた。
遠くで笑う凛のことが気になり、どうやら空回りしていたようだ。
凛に「してあげたい」という気持ちが抑えられなくて、隣にいる立花さんに対して全力で注いでいたのだ。
気まずくなって、手元のオレンジジュースを一口飲んだ。
「飲まないんですね」
「ええ、今日はこの後重要なミッションが」
立花さんの視線は、鋭いナイフのようでもあり、どこか湿り気を帯びた呆れを含んでいるようでもあった。
「……大事にしてるんですね。少し過保護過ぎだと思うけど」
それは、トゲのある皮肉ではない。
同じ職場で、同じ時間を過ごしてきた同期としての言葉。
立花さんはシャンパンの泡をじっと見つめながら、ポツリと独り言のように付け加えた。
(立花さんが、これで安心できるのなら……)
「……僕は、佐倉さんを大切にしたいと、心から思っていますので」
口から出た言葉は、自分でも驚くほど淀みがなかった。
ビジネスの交渉でも、プロジェクトのプレゼンでもない。ただの、剥き出しの本音。
その瞬間、立花さんが「じーっ」と目を薄めて僕を見てきた。
その沈黙が、やけに長く感じる。
(……なんだ? 次は何だ。また『佐藤、きもい』とでも言いたいのか。あるいは、この過保護な振る舞いを『非効率だ』と断罪するのか)
身構えた。
どんな罵倒がきても、論理的に、かつ冷静に撃ち返す準備はできている。
だが、彼女の口から飛び出したのは、予想だにしない「警告」だった。
「……泣かせたら、許しませんから」
「え……?」
「凛は、鳴凪のアイドルですから。あの子を悲しませるようなことがあったら、私だけじゃなくて、営業所全員を敵に回すと思ってくださいね」
立花さんはそう一気にまくしたてると、手元のシャンパンを一気に飲み干した。
「これ……、ありがとうございます。いただきます」
(……ほんと、めんどくさい男)
その横顔には、同期としての情け容赦ない「通告」と、親友を想う強い意志が刻まれている。
「……はい。十分に、存じ上げております」
僕は深く、一度だけ頷いた。
遠くの席で、誰かの冗談に顔をくしゃくしゃにして笑っている凛を見る。
凛がこの場所で、どれほど多くの人に愛されているか。
そして、その愛されている凛の「たった一人」に、僕が選ばれたということの重み。
オレンジジュースの冷たさが、心地よく喉を通り抜けていく。
(……泣かせるわけがない。……あ、否?)
僕は既に凛を三回泣かせている。
一回目は完全にコンプライアンス違反の涙だ。
……黙っておこう。
(ここで正直に『既に三回ほど』と報告しようものなら、立花さんに『手元が狂った』とでも言われながらフォークで刺されかねない)
視線を正面に戻し、あたかも「清廉潔白な婚約者」であるかのような顔で、再びオレンジジュースを一口飲んだ。
「……何か、言いたいことでもあるんですか?」
立花さんが、僕の微妙な沈黙を不審に思ったのか、横目でジロリと睨んでくる。
「いいえ。……立花さんの忠告を、生涯の運用ルールとして刻み込んでいただけです。……あ、そのエビのチリソース、少し辛いかもしれません。すぐにお水を用意しましょうか?」
「…………っ」
立花さんは一瞬、言葉を詰まらせて僕を凝視した。
「……もういいですってば! そういうのは凛にだけして、佐藤さん!」
立花さんは本気で顔をそむけ、吐き捨てるように言った。
(顔だけはイケメン過ぎるから、こんな事されたらちょっとトキめいちゃうんだよぅ! ……もう!!)
そんな彼女の「動揺」に気づくはずもなく、僕は「やはりやりすぎたか」と一人反省の色を深める。
立花さんに本気で引かれ(ていると誤解し)ながらも、心の中で、四回目――すなわち「悲しみの涙」だけは絶対に発生させないと強固たる誓いを立てた。
忘年会の喧騒は、ついにクライマックスのビンゴ大会へと突入した。
凛と二人でイオンを駆け回って選定した景品たちは、地獄の使者(サンタ高橋とトナカイ島田)の暴走によって、もはや「贈り物」というより「供物」のような勢いで次々と配られていく。
勢いづいた彼らのパフォーマンスは、ホテルのスタッフの顔色を秒単位で変えさせていた。
(……来年からこの系列ホテルを出禁にならなければいいが。)
ホテルの格式を貶める損害賠償の見積もりが頭をよぎっている間に、宴の混沌は鳴凪支店長の一本締めにてお開きとなった。
「……さて」
立ち上がり、真っ先に「99番席」へと視線を飛ばす。
最優先タスク(凛の回収)を実行する時間だ。
会場を出ようとする人波をかき分け、彼女を探す。
「さーとーうーーー!! 二次会! 二次会行こうぜ!!」
背後から、出来上がった高橋が、僕の肩をガシッと掴んできた。
酒の匂いと、馴れ馴れしいパーソナルスペースの侵害。
「全力で、拒否する」
0.1秒の遅延もなく即答し、その手をスマートに振り払った。
今の僕に、酔っ払いの相手という非生産的なプロセスに割くリソースは一ミリもない。
「あ、冷てー! 相変わらずハイスペック・マシーンだな、お前は!」
そんな野次を背中で聞き流しながら、僕は人混みの奥に、見覚えのあるふわふわとしたシルエットを見つけた。
(……見つけた)
人混みに揉まれながら、少しだけ髪を乱した凛が、キョロキョロと辺りを見回している。
立花さんに「アイドル」と呼ばれた彼女の元へ、最短ルートで歩み寄った。
ようやく合流できた凛の第一声は、僕の警戒心を最大化させるものだった。
「先輩!! 二次会に行く流れになってます!」
周囲の喧騒と、彼女を取り巻く営業所の熱気が、物理的な壁となって僕たちの間に立ちはだかる。
「……え、そっか」
一瞬、思考を停止させた。
彼女の行動を制限する権利は僕にはない。
「なら、僕は先に帰って待ってるよ。……楽しんできて」
精一杯の理性で絞り出した言葉だったが、凛は目に見えて寂しそうな顔をして、力強く首を振った。
「行かないですよ! バカぁ!」
「……っ」
至近距離での「バカ」という罵倒。
だが、それは僕の胸の奥にある、最も柔らかな部分を直撃した。
「トイレに行くふりして、巧くんの家に移動するので、追いかけてきてください!!」
凛は周囲に悟られないよう、内緒話の距離まで顔を近づけていたずらっぽく、けれど切実な瞳で僕を見上げた。
(……脱出プロトコル(エスケープルート)の提示)
凛の提示した作戦は、極めて非効率で、かつ子供染みたものだ。だが、今の僕にとって、それ以上の最適解は存在しない。
営業所のハイエナたちから「アイドル」を奪還し、二人だけの静かな空間へ移行するための、唯一の承認パスワード。
「御意(了解だ)」
短く答え、彼女の乱れた髪を、誰にも気づかれないほどの速さで一瞬だけ整えた。
「……10分後に、現地(自宅)で合流しよう」
凛がパッと顔を輝かせ、僕に背を向けて人混みの中へと消えていく。
彼女の背中を見送りながら、背後でまだ「佐藤、二次会行くだろ!?」と騒いでいる酔っ払いたちに、冷徹な一瞥をくれた。
(悪いが、僕の夜のスケジュールは、既に『最優先事項』によって完全に埋まっているんだ)
最短ルートでホテルの出口へと向かい、冬の冷たい夜気の中へと足を踏み出した。




