第90話:【在庫】理性は節約、行動はフル装備
月曜日の午前七時四十五分。
始業まで一時間以上あるオフィスに、キーボードを叩く音だけが空虚に響いている。
(……早すぎた。完全なるリソースの配分ミスだ。浮つき過ぎだな)
週末に溜まったメールの処理は、僕の驚異的な処理速度(と、昂ぶりすぎた交感神経)によって、開始十五分ですべて片付いてしまった。
受信トレイには未読ゼロの文字。
「……完璧な進捗だ。」
だが、僕の心拍数は一向に「アイドリング状態」に戻る気配がない。
先週とは、前提条件が決定的に違う。
僕の隣のデスクに座る「後輩」は、この週末を経て、恋人期間をすっ飛ばして人生の「婚約者(内定)」へと劇的なアップグレードを遂げた。
(……落ち着け。職場恋愛など、過去に経験済みじゃないか)
僕は脳内で、平常心を保つためのシミュレーションを繰り返す。
だが、視線は無意識に、一階から上がってくる階段の入り口へと固定されていた。
カチ、カチ、と時計の秒針が刻む音が、まるで爆弾のカウントダウンのように聞こえる。
もし、彼女が今日、いつもより少しだけ「特別な顔」をして現れたら。
もし、週末の余韻を隠しきれずに、僕を見て頬を染めたりしたら。
(……平静でいられる自信がない!)
僕は震える手で二杯目のコーヒーを口にした。
カフェインの刺激よりも、数分後に訪れるであろう「婚約者の出社」という名のビッグイベントに、僕の全神経が注がれている。
その時。
重い扉が開く音が、静かなフロアに微かに響いた。
軽やかな、でもどこか聞き慣れた足音。
(……来た。メイン・プロジェクトの、到着だ)
僕は慌てて画面をスクロールし、すでに読み終えた「社内報」を、さも今発見したかのような顔で凝視した。
「あ! 佐藤先輩、おはようございます! 今日は一段と早いですね!」
ひょっこり顔を出した凛は、驚くほど「いつも通り」だった。
「……あ、あぁ。おはよう、佐倉さん。……早いね」
(……普通だ。あまりにも、デフォルト設定(初期状態)すぎる。僕だけが意識しすぎなのだろうか)
凛は鼻歌交じりに自分のデスクへ向かうと、カバンを置いてパソコンを立ち上げる。
その横顔は、先週までの「ただの可愛い後輩」と何ら変わりないように見える。
「先輩、どうかしたんですか? 私の顔に、何か付いてます?」
「……いや。……別に」
僕は慌てて視線を社内報(すでに三周目)に戻す。
期待していた「特別な顔」も、隠しきれない「週末の余韻」も、そこには微塵も……。
その時だった。
凛さんが、デスクの下で、僕の靴の先をトントン、と自分のつま先で軽く叩いた。
そして、パソコンの影に隠れるようにして、僕にしか聞こえない極小のボリュームで囁く。
「……巧くん……実は私、三時間しか寝てないんです、興奮しちゃって」
「…………っ!!」
(……興奮? つまり凛も、やはり僕と同じように……)
「蓮がずっとゲームで対戦しようって寝かせてくれなくて!昨日ありがとうございました!」
「……それは、どういたしまして(蓮くん喜んでくれてよかったよ)」
「あー、おはよー。二人とも早いねぇ。」
背後から、榎木のんびりとした声が降ってきた。
「え、榎木さん! おはようございます! あ、これ東京のお土産です!」
凛さんは電光石火の早業で、デスクに置いてあった紙袋を榎木さんに差し出した。
その豹変ぶりは、先ほど僕の靴をトントンと叩いていた人物と同一だとは到底思えない。
「おや、お土産? 気を遣わなくていいのに。……お、これ有名なバターサンドじゃないか。センスがいいねぇ」
榎木さんはホクホク顔で箱を受け取り、「朝のコーヒーに合うんだよね」と、早速給湯室へ向かう。
「…………」
僕はといえば、デスクの下で触れたつま先の感触を、どう処理すべきか測りかねていた。
「……佐倉さん。一点、確認していいかな」
「はい? なんですか?」
「……蓮くんには勝てたの?」
凛さんは一瞬きょとんとした後、盛大に吹き出した。
「真面目な顔してそんな事聞かないでください!私のが蓮よりゲーム強いです」
ふふっ、と勝ち誇ったように笑う凛。
その表情には、僕を「巧くん」と呼んだ艶っぽさは微塵もなく、いつもの元気な後輩の顔があった。
「…………」
僕は肺の中に溜まっていた熱い空気を、諦めとともに吐き出した。
(……変わらない。僕がどれだけ心拍数を乱し、数千通りのシミュレーションを重ねてこの朝を迎えたとしても、凛はいつだって僕の予想を軽やかに裏切って、この『鳴凪支店』の空気に溶け込んでしまう)
だが、それが不思議と心地よかった。
もし彼女が、今朝から「婚約者」らしくしおらしく振る舞っていたら、僕は今頃、気恥ずかしさで業務不能に陥っていただろう。
変わらないからこそ、この秘密が特別になる。
「……そうか。なら、リベンジのロジックを組む必要はなさそうだね。……業務に支障が出ない程度に、ほどほどにね、佐倉さん」
「はーい! 分かってます、佐藤先輩」
凛さんはそう言うと、キーボードを叩き始めた。
カタカタと、軽快なタイピング音がフロアに響き始める。
一見すれば、どこにでもある地方支店の月曜朝の風景。
だが、僕の視界の端でキーボードを叩く凛の小指には、蛍光灯の光を透過して、深い群青色が宿っていた。
僕が贈った、タンザナイトのピンキーリング。
ふとした拍子に、凛が僕の方をチラリと見て、悪戯っぽく片目を細めたのを、僕は見逃さなかった。
その視線は、週末の熱を、そして僕たちが誓い合った未来のすべてを物語っていた。
(……承知した。この『いつも通りの日常』という名のカモフラージュを維持しながら、僕たちは僕たちのプロジェクトを進めるとしよう)
「……巧くん」
まただ。
その、僕の理性をピンポイントで狙い撃ちするような、極小ボリュームの囁き。
「……金曜日の忘年会、終わったら……すぐ帰りますか?」
僕は画面を注視したまま、努めて冷静な声を返した。
「え? ああ……。高橋がどこかへ連れ回そうとしそうだけど。……それが何か?」
「えーっと……」
凛は、所在なげに指輪を動かしてモジモジしている。
視線を送れば、僕と目を合わせようとせず、モニターの隅をじっと見つめていた。その耳たぶが、みるみるうちに薄紅色に染まっていく。
(……なんだ。この、明らかに何かを『提案』しようとして、勇気が足りずにスタックしている状態は)
僕の方を上目遣いで見た。
その瞳には、不安と、それ以上の熱を帯びた「期待」が揺れている。
「……あの、忘年会の会場、巧くんの家に近いじゃないですか」
次は指先でデスクの端をなぞりながら、視線を泳がせている。
「あの、私……東京旅行で奮発しすぎちゃって。もう、ボーナスパワーも底をつきそうなんです。……あの時間から私の家まで帰ったら、タクシー代、結構かかっちゃうし……」
「…………」
僕はタイピングの手を止め、静かに凛を見やった。
まるで「予算不足でプロジェクトが頓挫しそうなんです」と訴える新人営業のような、切実で、どこか申し訳なさそうな顔をしている。
(……なんだ、この遠回しな……誘惑のような言い回しは……っ!?)
いや、待て。落ち着け、佐藤巧。
凛は今、純粋に「可処分所得の最適化」について相談しているだけではないのか。
(……ただの節約か? 僕を『宿泊施設』として利用することで、タクシー代を回避しようとしている……。極めて合理的な判断だ。……だが!)
僕の脳内はその「節約」という名の表層データの裏側に、別の可能性を検知して警報を鳴らしていた。
忘年会後の深夜。
酒の入った男女。そして、僕の家。
さらには初体験の物理的な痛みを気にする誤爆ライン。
(……何も起きないはずがない。もし、ただ『泊めるだけ』で終わらせたら、それはそれで僕のオスとしての機能が疑われる……!)
「……巧くん? あの、やっぱり迷惑ですよね。……二次会も行きたいですよね?」
返事が遅れた僕の沈黙を、拒絶と捉えたのか、凛が慌てて身を引こうとする。
僕はそれを、音速のレスポンスで阻止した。
「……行かない。」
「えっ?」
「二次会は行かない!すぐ帰る……不経済なタクシー代を支払うのも、合理的ではないからね」
僕は努めて冷静なトーンを維持しながら、凛の目を真っ直ぐに見つめた。
「金曜の夜は、僕の家に来てください。……徹底的に『節約』に協力します」
「……っ、ありがとうございます!! よかったぁ、巧くんが優しくて……!」
まるで大きな商談がまとまったかのような、無邪気で満開の笑顔を浮かべた。
(……本当に『節約』のつもりなのか、それとも僕を試しているのか。……どちらにせよ、もう後戻りはできない)
凛にそう告げた直後、僕は左手でブラウザのシークレットモードを音速で起動した。
マウスを握る右手は、今期最大のプレゼン資料を作成している時よりも正確で、迷いがない。
(……金曜の夜から、土曜、日曜。『節約』に付き合うとなれば、僕の家で過ごす時間は最長で48時間)
そして、目に飛び込んできたのは——。
検索窓に叩き込んだキーワードのオススメ欄。
(……業務用? ……そんな、144個入りなんてものが、この世には存在するのか……!?)
(月次消費ペースを考えると…いや、何を計算しているんだ僕は!!)
宿泊施設や特殊な現場(?)で使われるであろうその「バルク品」。
(……144。……いやいや、さすがにそれはオーバースペックだろ。でもオススメ順で一番最上部にくるなら、世の中のカップルはこれを購入しているのだろう。……つまり、これは“平均値”ということだ)
僕は、凛から見えないデスクの下で、震える指先を動かした。
【注文確定:業務用 144個入りパック(即日発送対応)】
(……よし。これで、物理的な障壁(リソース不足)は完全に排除した。あとは当日、いかにしてこの『業務用の海』へ誘うかだ……)
注文完了の通知をスマートウォッチで確認し、僕は再び、何事もなかったかのように「社内報」(4周目)を凝視した。
「……巧くん? なんだか、さっきよりキーボードを叩く指が……激しいですけど、大丈夫ですか?」
「……あぁ、問題ない。……非常に重要な『調達案件』の納期が確定しただけだ」
(……在庫リスクという概念皆無の)
僕は完璧なポーカーフェイスを維持した。




