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ハイスペ佐藤くん、この恋だけはポンコツです〜五月雨式に失礼いたします〜  作者: もふおのしっぽ
第一章

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第89話 :【静寂】そのプレゼンはコンプラ違反です

「ん~……」


 重い瞼を無理やりこじ開ける。

 スマホを手に取ると、時刻は午後一時。昼過ぎまで寝るのは、学生時代以来かもしれない。


「はぁ……」


 夢じゃないかと銀行アプリを開けば、そこには相変わらず桁外れの数字が鎮座していた。


「…………よし。……やるか」


 ゆっくりと起き上がり、乱れた髪をかき上げた。


 部屋着に着替え、シーツを洗濯機で回し、掃除機をかけて部屋を整える。いつもの週末のルーチンだ。


 だが、何かが決定的に違う。


 コーヒーを淹れる豆を挽く音さえ、今日はどこか空虚に響く。


 お気に入りのカップを満たし、ソファに深く腰を下ろした。


 昨日、凛と想いを通じ合わせたソファ。

 あの時は彼女の体温があって、甘い香りがして、僕の理性をかき乱すような賑やかさがあった。


 だが、今は耳が痛くなるほどの静寂。


 かつて愛した「静寂」が、今は「孤独」を突きつけてくる。


(……これはセロトニンやオキシトシンの減少による『離脱症状』だ)


 共有アプリにアップされた「苺を頬張る凛」の写真を見る。


「……凛さん」


 独り言のように名前を呼んでみるが、返事はない。時計はまだ15時。


(あと数時間。家に居ながらもホームシックのような、この「凛シック」に耐えるのか……)


 送信取消が連発された無惨なトーク画面を開き、僕は「今、何をしてますか?」とメッセージを送った。



 即座に「既読」がつく。だが、返信がこない。三分、五分……。


「何もしてないです」


 たった七文字に五分。ビジネスなら致命的なレスポンスの遅さだ。


「なんか、そっけないな……」


 僕は焦燥を隠し、追撃する。


『この後、何か予定はありますか?』


 また即既読。なのに返信がない。テンポが悪すぎる。


 そしてようやく届いたのが、「はい、ちょっとやることが」という煮え切らないテキスト。


(……凛は今、あぐねているのか。僕への返信を、あるいはこの後の予想される行動を!)


 否、もしや今この瞬間に立花さんと「例の相談」をしているのではないか。


 あろうことか、僕とも面識がありなおかつ僕を「冷徹な効率モンスター」として敵視している彼女に、僕との夜の営みについて助言を求めているのだとしたら。


(……寄りによって立花さんかぁ……。明らかに僕の事毛嫌いしてるんだよなぁ。そんな彼女に凛があの内容を相談でもしたら……)


 間違いなく月曜日の支店は僕にとって文字通りの「針のむしろ」と化す。


「リスクでしかない……」


 凛からの「うーん……」「あー……」はっきりしない態度に僕は耐えかねて、通話ボタンを押した。


(一秒でも早く「立花さんへの相談タスク」を上書きして強制終了させる!)


コール音は、意外なほどすぐに途切れた。


「…………」


 画面に映し出されたのは、案の定シーツの海に埋もれたボサボサ頭の凛だった。


 だが、その表情は「寝起き」というにはあまりに険しい。目の下には、加工アプリでも隠しきれないほど立派なクマが鎮座していた。


(……僕の煩悩よりも重症じゃないか?)


「凛さん?」


「…………なんですか」


 声が低い。


 普段の明るさは微塵もなく、まるで徹夜明けのようなどんよりとしたオーラを放っている。


(……まさかシミュレーションのし過ぎで昨日から寝ていないのか? )


 本来なら「大丈夫ですか」と労わるべき場面だが、今の僕には、それ以上に確認しなければならない優先事項がある。


「凛さん。単刀直入に聞くけど……今、立花さんと通信中ですか?」


「ひっ……!! や、やっぱり見てたんですねぇ!」


 凛さんが跳ね起きた。

 シーツから覗いた肩が、驚きと気まずさで激しく揺れる。


(既読がついたから、叫んでたんだろうに……)


「……た、立花ちゃんには……送るのやめました。相談したら、明日出社した途端、みんなの視線に殺されそうな気がして……」


「……そっか。懸明な判断です(僕へ誤爆してくれて良かった)」


 意外にも凛は冷静な分析を見せた。


 どうやら、送信直後の「ひぎゃあああ」という絶叫とともに、彼女の防衛本能が『情報漏洩は社会的死を招く』とアラートを出したのだろう。


 だが、安堵したのも束の間。


 だが暗闇の中から、「ううぅ……」という、この世の終わりを嘆くような唸り声が聞こえてくる。


「……凛さん。不明点や不安要素があるなら、すべて僕に……当事者である僕に、ダイレクトに問い合わせてください。ロジカルかつ、身体的負担を最小限に抑えた最適解を、僕が責任を持ってプレゼンしますから」


『……プレゼン……って……ばかぁ……っ!!』


 画面の向こうで、凛さんが真っ赤な顔をして枕に頭を沈めた、次は涙目で僕を睨みつけた。


『うぅ……じゃあ、いいですよ! そこまで言うなら、明日までにその「痛くないロジック」の資料、作っておいてくださいよ! 営業実績のグラフみたいに、わかりやすーいやつ!』


 それは彼女なりの、精一杯の「皮肉」を込めた冗談だったのだろう。

だが、あいにく僕は、彼女から振られた「案件」をスルーできるほど適当な男ではない。


「承知しました。導入メリットとリスク管理、および中長期的なQOLの向上についてまとめた資料を、明日の朝までにPDFで送付します」


『……は?』


「パスワード付きのZIPファイルにして送りますから、セキュリティ対策も万全です」


『……本気で言ってるんですか……? 冗談ですよ!バカなの……? 巧くんのバカ! ロジックマン! ハイスペックの無駄遣いぃぃ!!』


「凛さん、これはハイスペックの無駄遣いではありません。愛という不確実な事象を、コンプライアンスの観点から最適化する……」


『……巧くん。そんなの送ってきたらコンプラアウトです! 完全なセクハラです!』


 虚を突かれた。


 まさか凛さんに、僕が最も遵守すべき「コンプライアンス」という刃で切り付けられるとは。


(((そもそも、誤爆メッセージを送ってきたのは凛さんの方ではないか!)))


 当事者として誠実に回答しようとしている僕が、なぜ加害者扱いされなければならないんだ。


 僕が釈明のロジックを組み立てようとした、その時。


 画面の向こうから、地響きのような怒鳴り声が割り込んできた。


『おい凛ちゃん!! 誰がバカだって!? それよりお義兄さんは!? 玄関でもう一時間待ってるんだぞ! 「スイッチ2持ってきてくれるから正座して待ってろ」って言ったの、凛ちゃんだろ!』


「…………は?」


 一人の少年が「最新ゲーム機」という光り輝く未来を信じ、寒い玄関先で一時間も正座待機し続けていたというのか。


『あ、また蓮くんが「お義兄さんの嘘つきー! 詐欺師ー! 財閥の犬ー!」って叫びながらバット振り回してる……』


「待って、なぜ僕が今からそっちに行くことになっているんだ?」


「朝からずっとうるさいから、巧くんから連絡きた時に、迎えにこさせるって嘘言っちゃいました! だめですよね(笑)」


「笑い事じゃない! 殺されるよ。物理的に、蓮くんに消される!」


(……この家族、リスクが高すぎる。だが——リターンも、異常だ)

 

 結局、僕は彼女に完封されているのだ。


 どんなに高度なロジックを組み立て、完璧なプレゼン資料を用意しようとも、彼女の無邪気すぎる笑顔の前では、僕の理屈など砂上の楼閣に過ぎない。


 だが、不思議と心地よい敗北感だった。


 数ヶ月前までの僕なら、こんな予測不能で非効率な週末など、真っ先に切り捨てていただろう。


 積み上げてきたエリートのキャリアなんかよりも、遙かに、画面越しに笑う彼女の方が価値がある。


 理不尽に振り回され、予定は狂い、平穏はかき乱される。


 けれど、そのすべてが愛おしい。

 

 それを表すかのように、かつては耳が痛いほど静かだった僕の部屋には彼女の笑い声の残響が、確かな色を持って居座っている。


 想像もしていなかった、この賑やかで、不格好で、温かい日々。


「……今から行くよ、凛さん」


「えっ、本当に!? 蓮くん、本当にバット持ってますよ!?」


「……構わない。いざとなったら、太郎を盾にする。あいつの毛並みなら、蓮くんのフルスイングも吸収してくれるはずだ」


「……巧くん。最低の危機管理リスクマネジメントです……!」


 画面越しの彼女が呆れたように、けれど本当に嬉しそうに笑う。


 僕はクローゼットからコートをひったくり、玄関を出た。

 

 東京から来たガチガチの合理主義者だった僕と、鳴凪の愛すべきカオスな彼女。


 恋人になった僕たちの行く先は、きっとこれからも、僕の想定を優雅に裏切り続けるのだろう。

 

 マンションのロビーを出ると、夕暮れの喧騒に混じって、潮の香りが鼻を掠めた。


 僕は幸せな溜息をひとつつき、愛する人が待つ場所へと迷わず向かった。

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