第88話:【誤爆】溢れる煩悩
翌朝。
お母様の美味しい朝食をいただき、嵐のような「佐倉家訪問」の旅は幕を閉じようとしていた。
「お義兄さん、電気屋は!? スイッチ2は!?」
「……ごめん、今はキャパオーバーだ。また今度」
最新ゲーム機を求めて縋り付く蓮くんを、「一秒でも早く家で寝たい」という本能で拒絶し、僕は玄関に向かった。
凛は流石に疲れていたようで、僕が発つ時も起きてこなかった。
(顔くらい見たかったけど……まぁ、あれだけ色んな感情を爆発させれば当然か。)
背後で蓮くんが「嘘つきー!」と激しく睨んでいた気がするが、今はそれを処理する気力は残っていない。
玄関を開ける、その時だった。
ズボンのポケットで、スマートフォンが短く、鋭く震えた。
『初めてって……やっぱり痛いの?』
『彼氏いるって言ってたよね、立花ちゃん』
「…………は?」
ドアノブを握ったまま、思考が完全停止した。
……痛い?
脳内の辞書を高速検索するが、この文脈に合致する「物理的苦痛」の項目は、一つしかない。
(僕に……聞いているのか? いや、違う。……営業所の、立花さんにだ。)
凛の同期の名前。
本来なら、女子会トークとして処理されるべき一文。
それがなぜ、僕の端末が「受信」しているんだ。
続いて、画面にトドメの通知が躍る。
『図鑑には、だいたい痛いって書いてるけど……』
「ぐっ…………!!!」
((((見送りにすら来ないと思ったら、朝から布団の中で何を相談しているんだ、この子は!))))
昨夜のあの熱いキスの続き。
僕が「大切にしたい」とブレーキをかけたその先。
凛の脳内では、僕が越えるのを必死で止めた先をシミュレーションしている。
(……凛さん。今、自分がどれだけ危険な『非論理的誘惑』を、よりによって僕にバラ撒いているか分かっているのか……!)
心拍数が、高知競馬の最終コーナー並みの速度で跳ね上がる。今すぐ部屋に突っ込んで、「痛くないようにロジカルにエスコートする」とプレゼンしたい衝動を、血の滲むような思いで抑え込んだ。
その直後。
二階から「ひぎゃああああああああ!!!」という、もはや佐倉家の名物となりつつある絶叫が響いてきた。
どうやら、送信者本人が「誤爆」の重大性に気づいたらしい。
「凛ちゃん、うるせーよ!!凛ちゃん起きてこないから、ゲーム機買えないだろうがぁ!!!」
……兄弟喧嘩をよそに、逃げるように佐倉家を後にした僕はあのメッセージが網膜に浮かび続けた。
運転中の脳内で「痛覚の緩和と快楽の相関性」についての論文を書こうとする自分を必死に制した。
「じ……事故る……っ!」
東京一泊二日の予定が、気づけば東京・鳴凪二泊三日。
お土産は、世界一かわいい婚約者(内定済み)と、六千万円の不労所得。
そして、処理しきれない特大の煩悩。
カーシェアを返却し、這うようにしてようやく自宅のマンションにたどり着く。
ドアを閉めた瞬間に、自分の部屋の「無機質な静寂」が体中に染みた。
「……つ、疲れた……」
コートを脱ぐ余裕すらなく、僕はベッドに倒れ込んだ。
(まずは一回寝よう……)
……いや、寝れるのか? あのメッセージを読んだあとの僕に、安眠というリソースは残されているのか?
結局、僕は「痛くない 初めて」という検索履歴をシークレットモードで生成しながら、泥のような眠りへと落ちていった。




