第82話:【成約】暴走の果て、涙のキス
タクシーの自動ドアが開き、夜の冷えた空気が車内に流れ込む。
僕たちはようやく手を離し、運転手さんに料金を支払って車を降りた。
エントランスのオートロックを開け、エレベーターに乗る間も、凛は僕の服の裾をぎゅっと掴んだまま離そうとしなかった。
自室のドアを開け、照明を点ける。
数日前と何も変わっていないはずの無機質な空間が、彼女が足を踏み入れた瞬間に、全く別の色彩を帯びたような気がした。
「……どうぞ」
「……お邪魔します」
玄関で靴を脱ぐ凛の動きは、どこかぎこちない。
さっきタクシーであれだけ大胆に僕を引きずり込んだ勢いはどこへ行ったのか、今はまた、いつもの彼女に戻っているようだった。
上着を脱いで壁に掛け、キッチンへと向かう。
「……何か淹れようか? コーヒー、それとも紅茶がいい?」
「あ、えっと……冷たいお水とか、いただけたら……」
彼女はソファの端にちょこんと腰を下ろし、所在なさげに自分の膝を見つめている。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスに注いで彼女の前に置いた。
沈黙。
いつもなら、凛がふざけたことを言い、僕がロジックで返す……それでいつもの空気に戻るはずだった。
けれど、今は違う。
指には、僕が贈ったタンザナイトのリングが。
僕の右手には、まだ繋いでいた時の「熱」が、消えずに残っている。
(……ここだ。今度こそ、伝えよう)
彼女の隣、手を伸ばせば届く距離に腰を下ろした。
「凛さん」
「……はい」
顔を上げた彼女の瞳は、薄暗い部屋の明かりを反射して、脆く潤んでいるように見えた。
「……新幹線の続きだ。僕が自分から誰かを誘い、自分からこの手を取ったのは……世界中で、君だけだ」
企業構文も、自分を守るための煩わしい横文字も、今の僕には必要なかった。
ただ、心臓の鼓動がうるさいほどに鳴り響いている。
潤んだ瞳が、逃げ場のないほど真っ直ぐに僕を捉えた。
鳴凪に来て、五月雨のように、少しずつ、だけど確かに好きになった。
(……かわいいな、本当に)
今まで、何度も「愛している」とか「付き合ってほしい」という言葉を耳にしてきた。
けれど、そのどれもが、今の僕が抱えているこの胸の痛みとは無縁の、無機質な記号に過ぎなかったんだ。
彼女の震える肩を、壊れ物を扱うようにそっと抱き寄せた。
「……凛」
自分の声が震えていないか不安になる。
たった数文字の意思表示を紡ぐのに、これほどの勇気を必要とするなんて。
「……付き合ってほしい。……期間限定だなんて思ってない。君の事が大好きだ。ずっと一緒にいたいと思ってる」
その瞬間。
凛の大きな瞳から、溜まっていた雫がポロリとこぼれ落ちた。
「……っ、ふ……っ、うわぁぁん!」
彼女は僕の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣き出した。
五月雨式にポタポタと溢れ出す。
ピンキーリングをはめた小さな手が、僕のシャツをぎゅっと掴む。
「……私、私……っ。恋愛なんて、テレビの中のキラキラした人たちがやることで……自分には一生関係ない、図鑑の中の出来事だと思ってたんです……っ!」
鼻をすすりながら、彼女は必死に言葉を紡ぐ。
「人を大好きになるなんて、どんな感じか想像もつかなくて……。巧くんと一緒にいること自体、ずっと誰かの夢に迷い込んでるだけだと思ってて……っ!」
解像度の低い、ふわふわとした彼女の世界。
そこに「佐藤巧」という現実を叩き込んだのは、僕の方だった。
涙でぐしょぐしょになった彼女を、僕は愛おしさを込めて強く抱きしめ返した。
「……そんなに泣かないで」
「感情が……うっ、なんか、ぐちゃぐちゃで……良く分からないんですぅ……っ」
受入出向、あと一年。
そんな数字、僕の未来にはもう関係ない。
どこへ行くにしても、僕は彼女を離さない。
「……夢じゃないって、言っただろ」
腕の中で震える凛の肩を、僕はさらに強く抱きしめた。
呼吸が乱れ、「感情が分からない」と泣きじゃくる彼女。
テレビの向こう側の出来事だと思っていた恋愛の、そのど真ん中に、僕は彼女を連れてきた。
「……っ、でも、巧くん……私……」
顔を上げようとした彼女の言葉を、僕は唇で塞いだ。
「……分かってる」
「…………んっ」
重なった場所から、驚いたような吐息が漏れる。
涙の熱さと、それ以上に熱い彼女の体温が、ダイレクトに僕の脳を揺らした。
今まで、義務のように繰り返してきた「キス」とは、何もかもが違っていた。
心拍数が跳ね上がり、ロジックなんて一瞬で消し飛ぶ。
指先に触れる髪の柔らかさ。
鼻をかすめる、彼女の震える吐息。
ただ、この瞬間の彼女が愛おしくて、離したくない。
ゆっくりと顔を離すと、凛は目を見開いたまま、頰を真っ赤に染めて固まっていた。
さっきまでの涙が嘘のように止まり、呆然と僕を見つめている。
「……どう?……これでも、夢に見える?」
「………………」
凛は言葉を失ったように、パクパクと口を動かした。
やがて、カアッと耳まで赤くなると、僕の胸をポカポカと叩き始める。
「……ひ、ひどいです! 巧くん! 私、今、すごく情緒不安定だったのに……っ!」
「………合理的じゃないのは、分かってるけど……落ち着くかと思って」
照れ隠しに眼鏡を直して、彼女を抱きしめた。
泣き腫らした目。真っ赤な顔。
図鑑の中の出来事ではなく、これは僕たちの初々しい「現実」の始まりだ。
「……凛。……もう一度、してもいい?」
「っ! ……だめです……でも……ちょっとだけなら……」
さっきよりも深いキスが、言葉よりも静かな時間が、二人の距離を埋めていった。




