第80話:【境界】夕闇の新幹線と指先
午後3時
時間は駅の電光掲示板が刻む数字のように、容赦なく過ぎ去っていく。
僕たちの旅行も、いよいよ終わりの時を迎えた。
「……終わっちゃうんですね、巧くん。あんなにドキドキして、最初は『私なんかが南青山なんて……』って、逃げ出しそうだったのに……」
新横浜駅のホーム。
滑り込んできた新幹線を前に、凛がポツリと呟いた。
「逃げ出さず、来てくれて良かった」
「えへへっ」
手元には、さっき駅ビルで一緒に選んだ豪華な駅弁と、自分へのお土産の青いロボットのキーホルダー。
その横顔には、お祭りの終わりを惜しむ子供のような、切ない寂しさが滲んでいる。
「……今回の旅行は想像以上に楽しかった。……また、来よう」
「はいっ! ……次は全額自分のお金で行きます!もっと胸を張って巧くんの隣を歩けるように、私、お仕事頑張ってお金貯めます!」
「はは、頼ってくれていいのに。期待してますよ、凛さん」
新幹線のドアが開き、僕たちは静かな車内のシートに身を沈めた。
「巧くん! 帰りは今度こそ、富士山見ますからね! 行きは見逃しちゃいましたけど、帰りは絶対、目に焼き付けて……あ、でもお弁当も食べなきゃ……」
「……分かった。富士山が見えるタイミングは僕が見張っておくから。心ゆくまでその駅弁を食べていいよ」
「……ちょっと信用ありませんね、その言葉」
「うるさい」
列車が加速し、車窓から街の景色が遠ざかっていく。
「……巧くん。今回の旅行、私、すごく楽しかったです。……巧くんの元カノさんとか、みんな……こんなに幸せだったんでしょうかね?」
――は?
不意を突かれた僕は、手にしていたお茶を飲み込み損ねそうになった。
「あ、すみません! 変なこと聞いちゃって。……でも、リス園に行って、ホテルでパジャマパーティして……こんなにデートって楽しいものなんだなって思ったら、つい」
(……違う。それは違うから)
彼女は、僕がこれまで「完璧な恋人」として、同じような経験を誰かと共有してきたと思っているのだろうか。
「……僕は、リス園に行ったのも、ホテルでパジャマパーティなんてものをしたのも、今回が初めてだよ」
驚いたように目を丸くする彼女を見て、僕は少しだけ溜息をついた。
(何で伝わっていないんだろうか。)
僕にとって、この数か月がどれほど「異常」で「特別」な時間だったのかを。
「えっ……? そうなんですか?」
「うん、本当。」
今までの僕は、告白されれば断る理由がない限り付き合ってきた。それでも『恋愛』だと思っていた。
「……今までの僕といて、彼女たちが凛さんと同じくらいに楽しかったかどうかは分からない。きっと満足はしていたかもしれないけど……。」
(僕はただ、相手に求められる役割を演じていただけだった)
予約の取にくいレストラン、宝石、エスコート。
それは僕にとって、単なる仕事に過ぎなかった。
自分から誰かを旅行に誘ったことも、ましてやこんな「無駄」で「愛おしい」時間をこれからもずっと共有したいと願ったことは一度もなかった。
「……凛さんとの時間は違う。……自分でも驚くほど、計画にないことばかりしてる。こんなの、初めてだよ」
凛が、何かを悟ったように顔を赤らめる。
(……この旅行が終わるまでに。いや、鳴凪に着くまでに、僕は言わなきゃいけないんだ)
僕は照れ隠しに「富士山を見逃すなよ」と窓の外を指差し、結局疲れからかそのまま眠りに落ちていった。
* * *
新幹線の心地よい揺れの中、巧くんが深い眠りに落ちていた。
スースーと穏やかな寝息を立てるその横顔は、彫刻みたいに整っているけれど、どこか子供のような幼さが混じっている。
「……巧くん、寝ちゃいましたね」
私は小さく呟いて、ふぅ、と息を吐いた。
家族や友達以外で、こんなにも誰かを「大好き」だと思ったことなんてなかった。
これが、恋。
鈍感な私だって、もう嫌っていうほど理解した。
……けれど。
(……受入出向。あと一年くらいは、一緒にいられるのかな。この王子様と)
彼はいつか、この期間限定の「鳴凪」から、本来いるべき「高い場所」へと帰っていく人だ。
「私みたいなのを選ぶなんて、どうかと思いますよ、巧ちゃま。」
自嘲気味に笑いながら、私はそっと、彼の右手に自分の手を重ねた。
一人で見た富士山はあまり感動しなかった。
「巧くんと見たかったな……これが日本一の固定資産ですとか言ってくださいよ」
期限付きでもいい。
今だけは、この温もりを独り占めさせてほしい。
私は寝ている巧くんの手をそっと握りしめ、その指の間に自分の指を絡めた。
ぎゅっと。
離したくないという、私のわがままを込めて。
彼の指が、眠ったままほんの少しだけ動いた。
巧くんから貰った、二人の誕生石であるタンザナイトのピンキーリングが、車内の明かりを反射してキラキラと輝いている。
それを見つめていると、少しだけ窓の景色が滲んだ。
新幹線は、二人だけの「期限付きの夢」を乗せて走り続けていた。




