第75話:【冷却】バスルームの賢者タイムと、秘密基地の罠
シャワーの蛇口を捻り、少し低めの温度に設定した水を頭から被る。
(……落ち着け。一旦、冷静になろう、佐藤巧)
網膜に焼き付いたあの『それ』を必死に、紀ノ国屋で買った生ハムのデータやワイン産地の情報で上書きしていく。
そもそも、彼女の母親の思いは理解できる。
「いつ運ばれてもいいように」
それは不測の事態に対するリスクヘッジだ。
(だが、そのヘッジ手段として「消防士に見せるためのレース」を選択するのは、あまりにも特異点が過ぎる!)
オーバーサイズのリスTシャツという「日常」と、その裏側に潜む「非日常」のレイヤー構造。
投資判断で言えば「一時的な市場の過熱」に過ぎない。
「……ふぅ」
鏡の中の、少しだけ上気した自分の顔を睨みつける。
(過熱が収まるまでノーポジションを貫く、それが敏腕投資家だ!)
凛が望んでいるのは、アイスを食べながら写真を振り返る、穏やかなパジャマパーティなのだ。
僕は深く息を吐き出し、バスルームの扉を開けた。
(……薄暗い。)
部屋の照明は落とされ、木の根の隠れ家をコンセプトにしたベッドのダウンライトだけが灯っていた。
(……なんで、自らムードを演出してるんだ!)
「正しくセットアップ」を完了したらしい凛さんが、ベッドの端で所在なさげに指をいじっていた。
「……あ、巧くん。おかえりなさい。そのTシャツ似合います。サイズもピッタリ」
「……待たせたね。さあ、アイスが溶ける前に始めようか」
凛がその熊のねぐらのようなシングルベッドに、ちょいちょいと手招きする。
(……やり手ばばぁのような手招きは止してくれ!)
その指先の動き、角度、絶妙なスピード感。
それはかつて、接待で迷い込んだ北新地の路地裏。
老舗の暖簾の奥から飛んできた手招きそのものだった。
「巧くん、ここ、良くないですか? 秘密基地みたいです!」
見れば、彼女は使っていないバスタオルをシーツの上に丁寧に広げ、その上に紀ノ国屋で買ったチーズやフルーツ、スナック菓子を並べていた。まるで遠足のレジャーシートのような光景だが、場所は狭いベッドの上だ。
僕は抗えず、その暖簾(?)をくぐった。
「……ベッドの上で食べるの?」
「はい! 行儀悪いのは分かってますけど、今日だけは特別ってことで。……ほら、巧くんもこっちに。こっちの方が、写真も見やすいですよ?」
彼女が座っているすぐ隣をポンポンと叩く。
お揃いのリスが、二頭。
薄暗い照明の中で、彼女の小指のタンザナイトが、そしてその下に隠された「消防士への備え」が、僕の脳内の警戒アラートを最大音量で鳴らし続けている。
(……くぅ。この空間、想定以上にマージンが狭すぎる……!)
僕は覚悟を決め、彼女の隣という名の「激戦区」へと足を踏み入れた。
僕は、自分の内に渦巻く「市場の過熱」を鎮めるべく、最高級バニラアイスをスプーンで掬い、一気に口へと放り込んだ。
(……冷やせ。脳を、本能を、この一過性の情熱を冷却するんだ)
だが、その直後。
「……ぐっ」
こめかみを、鋭利な刃物で貫かれたような激痛が襲う。
アイスクリーム頭痛。
「巧くん!? どうしたんですか、そんなに急いで食べて! もったいないですよ!」
すぐ横で、凛が目を丸くして僕の顔を覗き込んできた。
彼女の手元には、同じく最高級のカップ。
だが、彼女はそれを惜しむように、少しずつ、大切そうに味わっている。
「やっぱり高いアイスクリームは美味しいですね! 鳴凪のスーパーのファミリーパックとは、何かが決定的に違います!」
満足げに微笑む凛。
おそらく彼女は、乳固形分や乳脂肪分の含有量による「ラクトアイス」と「アイスクリーム」の厳格な境界など、微塵も理解していないだろう。
(……境界線、か)
今の僕にとって、何が「日常」で何が「非日常」なのか。その境界線は、溶け始めたバニラアイスのように、あいまいに混ざり合っていく。
「……巧くん。一口、食べます? 私の、ストロベリー味なんですけど」
凛が、自分が使っているスプーンを差し出してきた。
アイスクリーム頭痛の余韻が残るこめかみを抑えながら、ゆっくりと顔を近づけ、その冷たさを口に含む。
「……お、美味しいです……」
「ですよね! やっぱり高いのはイチゴ感が違います! 巧くん、顔が真っ赤ですよ? さっきのアイスクリーム頭痛、まだ響いてますか?」
無邪気に覗き込んでくる凛。
僕の理性の限界は全く彼女は見えていない。
(……このままでは、僕の理性が完全に崩壊する!)
僕は仕切り直し(リバランス)を図るべく、サイドテーブルに置いたボトルを手に取った。
シャンパン抜栓の音が、秘密基地のような静寂に心地よく響く。
「……さあ、改めて。パジャマパーティの開始を祝して」
僕は二つのグラスに注ぎ、彼女の前に差し出した。
ダウンライトの光を反射して、シャンパンの泡が星のように立ち上る。
「わぁ……綺麗。……乾杯、巧くん。今日一日、本当にありがとうございました!」
シャンパンの刺激が喉を焼き、僕の頭を少しだけ強引に、そして心地よく麻痺させていく。
「……僕も、こんなに……予測不能で、楽しい旅行は初めてだ」
僕はグラスを傾けながら、隣でリスのようにイチゴを頬張る彼女の横顔を盗み見た。
「もう『秘密基地』から一歩も出たくないな……」
本音がこぼれそうになるのを、シャンパンの泡と一緒に飲み込む。
すると、凛が「あ、そうだ!」と思い出したように自分のスマホを操作し始めた。
数秒後、僕のポケットの中でバイブレーションが鳴る。
「巧くん、今、招待送りました! 見てください!」
「……招待?」
画面を覗き込むと、そこには家族や恋人同士で使うような、クローズドな写真共有アプリの通知が届いていた。
「これ、アルバム共有アプリです! 今日の写真も全部入れました!あと……これまでの巧くんとの思い出も、勝手に全部まとめちゃいました。巧くんも、アカウント入れますか?」
あ、ああ――と、僕は間抜な返事をして、指先で承認ボタンを押す。
読み込み中のアイコンが回る。
次の瞬間、画面いっぱいに広がったのは、今日リス園で撮った僕のポンコツな姿や、新大久保での食べ歩き、そして僕が知らない間に撮られていた、仕事中の僕の横顔。
(……なんだ、これ)
胸の奥が、シャンパンのアルコールとは別の熱を帯びる。
「アルバムを共有する」という行為。
互いの内部情報をすべて開示し、不可逆的なパートナーシップを締結するのと同じだ。
いや、それ以上の、もっと原始的で、もっと温かい「絆」の証明。
「めちゃくちゃ嬉しい……。なんだこれ、こんなの反則だ……」
口を突いて出た言葉は、自分でも驚くほど素直なトーンだった。
「えへへ、喜んでもらえてよかったです! ほら、この時の巧くん、リスに怯えてて最高に面白いですよ?」
「……それは削除してよ」
画面を覗き込むために、自然と二人の距離がゼロになる。
リスTシャツ越しに伝わる、彼女の柔らかな体温。
アルバムの中に蓄積されていく、僕たちの「共有資産」。
その幸せなデータ量の前では、消防士への備えも、物価のインフレも、すべてが愛おしいノイズへと変わっていった。
「あ、あの。巧くん……。これ、出来映えが……見てくれがあんまり良くないかもしれないんですけど」
凛が恥ずかしそうに、バッグの奥から小さな袋を取り出した。
それは、今朝彼女が「真心です!」と言って手渡してくれた、手作りのクッキーだった。
ソーサーの上にその中身がそっと置かれる。
「…………」
そこにあったのは、少しだけ焼きすぎて茶色が濃くなった、いびつなリスの形のクッキー。
今日一日、僕たちの移動に合わせてずっと持ち歩いていたせいだろう、リスの細い尻尾や耳は、袋の中でいくつも砕けてしまっていた。
(……なんて、言えばいいんだろう。)
言葉が、見つからない。
昨晩、彼女はこの形を作るために、どれだけ苦戦したんだろう。
慣れない手つきで生地をこねて、オーブンの前で焼き上がりをじっと待っていた時間。
「ごめんなさい、ボロボロになっちゃって……。やっぱり、お店で買った方が良かったですよね」
申し訳なさそうに俯く彼女の言葉を遮るように、僕は割れたリスの欠片を一つ、指でつまんで口に運んだ。サクッ、という音と共に、少し焦げた香ばしさと、混じりけのない甘さが口いっぱいに広がる。
「……美味しい」
声が、震えた。
シャンパンの酔いのせいじゃない。鼻の奥が、ツンと痛い。
一粒いくらするイチゴよりも、老舗フレンチの贅を尽くした一皿よりも、この不器用で壊れやすいクッキーの方が、今の僕にとってはどんなものより愛おしい。
「……巧くん?」
僕は、彼女の指をそっと握った。
「ありがとう、凛さん。これ、僕が今まで人生で、一番……一番、嬉しい贈り物だ」
「……!お、大袈裟です!焦げたクッキーで良ければいつでも焼きますよ!」
砕けたクッキーの欠片が、僕の胸の奥にある一番柔らかい場所を、優しく、けれど決定的に撃ち抜いてしまった。




