第74話:【試練】理性を焼く夜と、消防士のパンツ
レストランを出た僕たちの指先には、まだ微かにタンザナイトの余韻と、繋いだ手の熱が残っていた。
だが、凛の意識はすでに「次」へと切り替わっている。
「パジャマパーティの買い出し、行きましょう! 巧くん!」
向かったのは、青山が誇る老舗高級スーパー、紀ノ国屋。エントランスのロゴを見た瞬間、凛が今日一番の勢いで声を上げた。
「わぁ……! ここが『紀伊國屋』さんですか!」
「……。『紀伊』じゃなくて、こっちは『ノ』の方だよ」
(……もうわざとな気がしてきたな。わざと僕のロジックを揺さぶっているんだろうか)
僕は苦笑しながらカートを手に取った。
シャンパンとそれに合うハードチーズ、生ハムをいくつか選定していく。
一方、凛はお惣菜やスナック菓子のコーナーを熱心に探索していた。だが、しばらくすると彼女の動きがピタリと止まった。
「……巧くん。ちょっと、これ見てください」
彼女が手にしていたのは、輸入物のポテトチップスとフルーツのパック。
その指先が、指輪をキラキラと輝かせながら、微かに震えている。
「……どうしたの?」
「と、東京の物価が……! 私の知らない間に、日本はめちゃくちゃインフレしてませんか!? このポテトチップス、鳴凪のスーパーなら三袋買ってお釣りが来ますよ!」
値札を二度見、三度見する彼女。
確かにここは、庶民的なスーパーの価格設定とは一線を画している。だが、怯えるように商品を棚に戻そうとする姿を見て、僕は思わず吹き出してしまった。
「……いいよ、凛さん。今日は特別な日だ。ほら、その美味しそうなイチゴもカゴに入れなさい」
「で、でも……! 巧くん、このイチゴ一粒で、リスさんのエサが何日分買えるか……」
結局、僕が強引にカゴへ詰め込み、会計を済ませた。
タクシーでホテルへ戻る道中、凛はちゃっかり購入したエコバッグを大事そうに抱えながら、「東京、恐るべしです……」と遠い目をして呟いていた。
物価に震えながら選んだスナック菓子。
そんなアンバランスな彼女を連れて、僕たちはついに「森の隠れ家」へと帰還する。
「……さあ、着いたよ。凛さん、パジャマパーティの準備だ」
「はい……! 今度こそ、リスさんの出番ですね!」
エレベーターを降りる彼女の足取りは、いつの間にかまた無邪気なリズムを取り戻していた。
部屋に入り、空気が少しだけ甘い沈黙に変わる。
「……あの、先に私、お風呂入ってもいいですか??」
「…………どうぞ」
凛はキャリーケースから着替えをガサゴソと取り出すと、小走りでバスルームへと向かった。
嵐が去ったような静けさの中、ふと足元に目を落とすと、何かが落ちていた。
布だ。
それも、非常に面積の心許ない、レースの下着……。
「…………パンツ」
声に出した瞬間、僕の思考が完全にフリーズした。
(……待て。落ち着け。)
これをどう処理するのが最も合理的か。
(拾って届けるか? いや、それはあまりに不審者だ。)
見なかったことにするか? いや、彼女が風呂上がりに「紛失」に気づいた時のリスクが大きすぎる。
僕は、絨毯の上に不時着したその「物体」を凝視したまま、一歩も動けずにいた。
(いつもこんな面積の狭い、レース地の下着なのか……?)
脳内を過ぎる、あまりに非合理で、かつ刺激の強いシミュレーション。
(いや、ありえない。絶対、違うだろ)
(これは……そうか、誕生日という特別なイベントに対する、彼女なりの『勝負のポートフォリオ』の組み換え……!?)
もし、これが「偶然」ではなく「意図的」な装備だとしたら?
これから始まるパジャマパーティの、その先にある「出口戦略」が、僕の想定を遥かに超えたものだとしたら?
(ダメだ!思考が完全にエロオヤジだ!)
「あれ……? おかしいな、入れたはずなのに。パンツがない……」
バスルームの向こうから、独り言にしては少し大きすぎる困惑の声が聞こえてきた。
(……ひっ!!)
やがて、ガチャリと扉が開く。
湯気とともに現れたのは、オーバーサイズのリスTシャツにショートパンツという、完璧なパジャマパーティ・スタイルの凛さんだった。
だが、彼女の視線が、僕の足元――正確には、僕が視線を外せずにいる「面積の狭いレース」――に止まった瞬間、世界が静止した。
「…………」
「…………」
「ぎぃやああああああああああああ!!!」
港区の静寂を切り裂くような絶叫。
凛さんは顔面をトマトのように真っ赤に染め、餌を目の前にしたリスの如く駆け寄ってくると、僕の視界からその「それ」を強引に回収した。
「巧くん! 違います! 違うんです、これはっ……!!」
「……何が、違うの? 面積の話か、それともレースの密度の話か」
(あっ、しまった!)
「な、何言ってるんですか!!どっちも違います! それは、その……っ! こ、これは消防士に見せるパンツです!!」
(…………消防士。消防士に、見せる?)
「……僕は消防士じゃない」
「知ってます! 変な意味じゃないです! お母さんが、『いつ運ばれてもいいように良いのを持ちなさい』って勝手に入れたんですぅ……!」
涙目で訴える凛さん。
(……お母様、あなたの娘さんは今、救急搬送よりも恐ろしい『僕の理性の崩壊』という災害に直面していますよ)
僕は、熱くなった顔を隠すように窓の外、南青山の夜景へと視線を投げた。
リスのTシャツの下に、消防士専用(?)のレースを仕込んでいるという事実。
「……わかった。なら、今夜は火事が起きないことを切に願おう。……さあ、アイスが溶ける。僕もシャワー浴びてきます…」
僕は逃げるようにバスルームへ向かった。
凛は「消防士のパンツ」を正しく装備し直すべく、足早にトイレへと消えていった。




