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ハイスペ佐藤くん、この恋だけはポンコツです〜五月雨式に失礼いたします〜  作者: もふおのしっぽ
第一章

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第73話:【境界】老舗フレンチの静寂と、青い約束

タクシーの自動ドアが閉まった瞬間、車内は濃密な沈黙に包まれた。



 町田のリスや新大久保の喧騒が嘘のように、狭い後部座席で、僕と同じ香水の匂いを纏った凛がバッグをぎゅっと握りしめている。



「……巧くん。私、なんだか急に……場違いな気がしてきました」



 隣で小さく呟く彼女の声は、かすかに震えていた。



さっきまでリスに名前をつけていた彼女は、今、ドレスに身を包み、これから訪れる未知の世界に怯えている。



「大丈夫だよ。僕がエスコートする」



「……はい。でも、髪型とか変じゃないですか? 髪飾りの留め具、ちゃんと付いてますか?」



「大丈夫。ちゃんと付いてる、完璧だよ」



 鏡のように夜の港区を映す車窓。

その光が、彼女の不安げな横顔を断続的に照らし出す。



(僕の「完璧」という言葉が、ドレスの着こなしだけでなく、凛の存在そのものを指していることに気づいているだろうか)



 タクシーが南青山の静かな路地裏で静止した。



重厚なエントランスには、長い歴史を刻んできた老舗フレンチの格式が、静かな威圧感を持って鎮座している。僕は先に車を降り、ドアの向こうで足を止めている彼女に右手を差し出した。



「……さあ、凛さん」



 彼女の細い指先が僕の掌に重なる。冷たい夜の空気の中で、彼女の手だけが驚くほど熱かった。



(まいったな。緊張しているのは、僕の方かもしれない……)



 背筋を伸ばし、彼女を導くようにエントランスへと歩き出す。



リスのTシャツも、チーズハットグの賑やかさも、今は記憶の奥に預けて。



僕たちは、最高級のソースが香る「聖域」へと足を踏み入れた。



 扉が開くと、磨き上げられた調度品と柔らかな照明が僕たちを迎えた。



「佐藤様、おかえりなさいませ。今夜はお会いできて光栄です」



 支配人の落ち着いた声に、僕の腕に添えられた凛さんの指先がビクッと跳ねた。



「無理を言ってすいませんでした。……今日はよろしくお願いします」



「承知いたしました。最高のお席をご用意しております」



 ふかふかの絨毯の上を歩きながら、彼女が蚊の鳴くような声で囁く。



「……ねぇ、巧くん。今の何ですか? ここ、巧くんの実家かなんかでしたか?」



「……はは。実家じゃないよ。贔屓にしている店では、そういう挨拶をされるものなんだ。ここは僕のホームグラウンドみたいな場所だよ」



「ホームグラウンド……。じゃあ、巧くんがキャプテンですね」


「……野球じゃないからね」



 僕が椅子を引き、彼女は緊張を少しだけ緩めて席に着いた。テーブルの中央で揺れるキャンドルの炎が、彼女を凛とした美しさで照らし出す。



「……さあ、まずはシャンパンで乾杯しよう」



 銀食器が触れ合う静かな夜の幕が上がる。



 シャンパングラスの泡が星のように弾け、最初の一皿が運ばれてきた。前菜のテリーヌ。宝石箱のような盛り付けに、凛は感嘆の溜息を漏らす。



「巧くん……これ、本当に食べていいんですか? もったいない気がしちゃいます」



「ふふ……いいよ。どうぞ、召し上がれ」



 おそるおそる一口運んだ瞬間、彼女の顔に花が咲いたような笑顔が広がった。



「……魔法みたい。私、こんなに優しい味がする食べ物、初めて食べました」



 凛の素直な反応に、僕の肩からようやく力が抜けた。濃厚なコンソメスープ、魚料理、そしてメインの最高級牛肉。一皿ごとに変化する「味の物語」に、彼女はいつしか夢中になっていた。



「……巧くん。これ、ナイフがいらないくらい柔らかいです。……あの、なんだか私、今日が誕生日みたい」



(…………突っ込むべきなのか。今日が誕生日なんだよ、凛さん)



 コースの締めくくり。



 照明がわずかに落とされ、支配人が小さなホールケーキを運んできた。プレートには『Happy Birthday Rin』の文字。



「……あっ。……あはは。今日、その旅行ですもね!すっかり忘れてました……!」



 照れ隠しに笑いながら、周囲をキョロキョロと見渡す凛。




(……わかっている。)



 彼女は、スタッフが歌い踊る派手な演出を想像しているのだろう。



(……さすがに、それは用意していない。支配人も歌わないし、もちろん僕も歌わない。絶対に、手拍子して歌ったりはしないよ)



 ただ、揺れる一本のキャンドルの炎が、彼女の瞳を真っ直ぐに映し出している。



「……おめでとう。生まれてきてくれて、僕と出会ってくれて、……ありがとう」



 歌よりも確かな言葉を、僕は静寂の中に置いた。



「……歌わないんですね、巧くん」

「……ここは南青山の老舗だよ。静かに祝うのが、ここの流儀ロジックだ」



 凛さんは「ふふっ」と笑い、そっと目を閉じて息を吹きかけた。



小さな光が消え、視界がふわりと暗がりに沈む。僕はポケットから、小さなベルベットのケースを取り出した。



「……凛さん。これ、改めて誕生日おめでとう」



 蓋を開けると、そこには夜空を写したような、透き通った青紫の石。



「タンザナイトだ。ピンキーリングだよ」



 凛が「ピンキー?」と小首を傾げる。


 僕は彼女の左手をそっと手にとり、その小さな指に指輪を滑らせた。



 このリングは、彼女の自由を縛らず、けれど「僕がここにいること」を思い出させるための、僕なりの執着の形だ。



「……綺麗。巧くん、これ、青い……でも、紫にも見えます」


「多色性のある石だからね。今の、凛さんの瞳の色にも似てる」



 凛さんは小指の輝きを愛おしそうに見つめると、僕の手をぎゅっと握った。



「巧くん。私、この指輪……一生、大事にします。リスのTシャツと同じくらい、私の宝物です!」


「……リスのTシャツと同格か。……まあ、いいよ」



 僕は苦笑しながらも、その温もりを拒まなかった。



タンザナイトの石言葉は「誇り高き人」、そして「希望」。明日にはまた、新しい色を見せてくれるだろう彼女との未来を、僕はその青い輝きの中に確信していた。



 元々は僕のこの試す意図のようなこの旅行。


(……凛さんは今、どっちの世界にも立っている。もう考えるのは止めよう。)



 自分の物差しで彼女を測って何になる。今はただ、2人の時間を純粋に、特別に楽しみたい。



「……さあ、戻ろうか。僕たちの『森』へ」


「はい! パジャマパーティ、開始ですね!」



 レストランを出る僕たちの足取りは、来た時よりもずっと軽やかで、けれど深く結びついていた。

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