第72話:【混濁】新大久保の誘惑と、森の隠れ家
町田から再び新宿を経由し、一駅。
山手線を降りた瞬間、そこはニンニクとスパイス、そして熱狂的な重低音が入り混じる「新大久保」だった。
「わぁ……! 巧くん、ここ、すごい匂いと人ですね! 鳴凪の商店街の百倍くらい賑やかです!」
「ここは東京の中でも特にエネルギーが集中しているエリアだからね。さあ、凛さんが食べたがっていた『チーズハットグ』の店に行こう。あまり時間がない」
行列に並び、手に入れた黄金色のハットグ。凛が思い切り頬張ると、驚くほど長くチーズが伸びた。
「ふぁっ……! 巧くん、見てください! どこまでも伸びますよ、これ! 楽しい……!」
「……ほら、口元に砂糖がついている」
僕はハンカチを出しながら、チーズと格闘する彼女を眩しそうに見つめた。
高級フレンチのデリケートなソースもいいが、こうして屋台飯を全力で楽しむ彼女の姿は、計算外に僕の胸を打つ。
だが、平和な時間は長くは続かなかった。
「……? 巧くん、あそこにキラキラした人たちがいます!」
凛さんが指差した先。
派手な色の髪に、バキバキにメイクを施した少年たちが、道行く女性にチラシを配っていた。韓国系の地下アイドルグループらしい。
「ライブ、今夜あります! ぜひ来てください!」
「えっ、ライブ……! 巧くん、見てください。この人、まるでお人形さんみたい……」
チラシを受け取った凛さんが、うっとりとその写真を見つめている。
(なんか……面白くない。)
「……凛さん。そんな修正だらけで二次元になってる。現実のスケジュールを見よう。今夜は南青山で……」
「でも巧くん! この人たち、夢を追いかけてる感じがして素敵です! 応援したくなっちゃいます!」
(……さっきは僕のことイケメンっていってたクセに、実はああいうがいいのか?……僕じゃなくて)
無邪気にチラシを抱え、アイドルたちの去り際をいつまでも目で追う凛。
僕は、彼女の手にある「アイドルのチラシ」を、そっと奪い自分の「リス園の紙袋」の陰に隠した。
「……新大久保の滞在時間はあと十五分だ。さあ、次は南青山へ移動しよう。……いいね?」
「はーい! でも、東京って本当にいろんな人がいるんですねぇ……」
(まださっきのアイドル探してる……)
夢見るアイドルの余韻に浸る凛と、焦燥感を「合理性」という仮面で隠す僕。
パジャマパーティを控えた僕たちの夜は、新大久保のネオンよりも複雑に光り始めていた。
新大久保の熱気とハットグの匂いを背負ったまま、僕たちは港区の静かな一角に降り立った。
辿り着いたのは、都会の喧騒を忘れさせる「森の隠れ家」をイメージしたコンセプトホテルだ。
「わぁ……! 巧くん、ここ、ホテルなんですか? 建物の中に木が生えてるみたい……!」
ロビーに足を踏み入れた瞬間、凛さんの瞳が再び輝き出した。
五人が泊まれる広大な空間には、二段ベッドやロフト状の隠れ家ベッドが点在している。
仕切りが絶妙で、付き合っていない男女でもプライバシーが守れる設計――それが僕の選んだ「最適解」。
「すごーい! 巧くん、見てください! このベッド、秘密基地ですよ!」
「……はしゃぐのは後だ、凛さん。早く着替えよう。予約したレストランの時間が迫っている」
本来なら高層階のスイートを選ぶのが定石なのだろうが、今日は「リス園の没入感」を優先した。
港区女子なら間違いなく引くであろうこのチョイスも、凛さんなら最高に喜んでくれると確信していたからだ。
僕は先に送っておいたスーツに。
彼女は、あの時イオンで一緒に選んだドレスに。
数十分後。バスルームの扉が開き、そこから現れた姿に、僕は息を呑んだ。
「……あの、巧くん。どうですか……? おかしくないですか? 髪もちょっとまとめてみたんですけど」
さっきまでリスと戯れ、チーズハットグを頬張っていた姿は、そこにはいなかった。
シックなドレスに身を包み、少しだけ背筋を伸ばした彼女は、港区の夜にふさわしい「一人の女性」へと変貌を遂げていた。
(……ああ。やっぱり、僕の目に狂いはなかった)
この「森の隠れ家」でドレスアップするというアンバランスな体験こそが、彼女の個性を一番美しく際立たせる。
「……とても綺麗だ。凛さん、ネックレスをつけるからこっちに」
「あ、はい。これお願いします」
細いパールのネックレスを受け取り、背後から首筋に手を回す。
いつもは無造作に下ろされていて見えないうなじが、ダイレクトに視界に飛び込んできた。
(まいったな……)
視線を逸らすこともできず、指先が微かに震えるのを悟られないよう必死に留め具を留める。
「……イヤリングも」
「……お願いします」
耳たぶに触れる指先から、彼女の緊張が伝わってくる。新大久保から直行したせいで、お互いに少しだけ汗ばんでいる。
シャワーを浴びる時間がなかったことが、急に後悔となって押し寄せてきた。
「凛さん、そのまま」
僕はバッグから自分の香水を取り出し、自分と、そして凛さんの首筋に軽く振りかけた。
「ひゃ」
「ごめん。僕のやつで悪いけど」
シトラスとサンダルウッドの、僕の使い慣れた香りが、彼女の体温と混ざり合ってふわりと広がる。
「あ! 私この匂い好きです! 巧くんの匂いのやつ!」
凛さんははっとしたように顔を真っ赤にした。
それを誤魔化すように、僕は「……そろそろ時間だ」と、彼女に手を差し出した。
リスの残り香と、僕と同じ香水の匂いが漂う部屋。そこに「リスTシャツ」を残したまま、僕たちは夜の南青山、老舗フレンチの静寂へと繰り出した。




