第69話:【敗北】富士山よりも君の寝息? 痛恨の判断ミス
「……凛さん、急いで! あと三分で発車だ!」
「ひぃ、ひぃ……! 巧くん、速すぎますぅ……! 鳴凪の時間はもっと、ゆっくり流れてるはずなのに……!」
岡山駅。
特急から新幹線への乗り換え時間はわずか十分。
僕は凛の小さな手と、彼女の重たいキャリーケースを両手に分かち持ち、階段を駆け上がった。
僕のコートの裾が風を切り、凛の髪が必死に左右に揺れる。
「……いっとくけど、東京はもっと過酷だよ。基本は全部早歩き、一日の歩数は優に二万歩を超えるよ」
「に、二万……! ひぃん、リスのために……リスに会うために、私、頑張ります……っ!」
限界に近い喘ぎ声を上げながらも、彼女は「リス」という単語だけで、折れそうな心を繋ぎ止めている。
その健気(あるいは食い意地、もしくは動物愛)には、僕も驚かされるばかりだ。
ホームに到着し、凛を安全な柱の陰に待たせる。
「ここで待っていて。動かないように」
僕はそのまま自販機へと走り、温かいお茶を二本、電子決済で素早く購入した。
ホームに戻ると同時に、白い流線型の巨体が、静かな重低音を響かせて滑り込んできた。
「わぁ……! 新幹線だぁ!! 巧くん、見てください、本物ですよ!」
さっきまで「死にそう」と言っていたはずの凛が、目を輝かせて歓声を上げる。
その切り替えの速さもまた、彼女の魅力……なのかもしれない。
指定席、二人の時間
滑り出す窓の外。
三列シートを二人で占有する贅沢な空間で、凛は少し緊張した面持ちで、例の容器を膝に乗せた。
「……あの、巧くん。さっき言ったお弁当なんですけど……。今朝、寝ぼけて作っちゃったから、卵焼き……ちょっと焦げちゃったかもしれません」
彼女が恐る恐る蓋を開ける。
そこには、確かに少し端が茶色くなった卵焼きと、ふっくらとしたおにぎりが並んでいた。凛は「失敗しちゃった」という顔で僕を見上げている。
「……」
「は、はい……やっぱり、ダメですよね」
僕は迷わず、その「真心」のひとかけらを口に運んだ。
(……甘い。そして、驚くほど温かいな)
南青山の三ツ星レストランでも、この「味」だけは再現できないだろう。
「おいしいよ。ありがとう」
「……よかったぁ! 巧くん、……優しいですね」
凛は安心したように、自分のおにぎりを頬張った。
新幹線は、時速三百キロで東京へと加速していく。
新大阪を過ぎたあたりで、凛の咀嚼が止まり、カクンと頭が揺れ始めた。
「……眠いなら、寝てていいよ。東京に着いたら起こすから」
「んー……。でも、富士山……見たいです……。日本一の、山……」
「分かった。富士山の手前で必ず起こすよ。約束だ」
「巧ちゃま……約束ですよ……むにゃ……」
返事も途切れ途切れに、彼女は深い眠りに落ちていった。規則正しい寝息が、僕の肩のすぐ近くで聞こえ始める。
窓から差し込む冬の光が、彼女の睫毛を白く透かしていた。
僕はほんの少しだけ躊躇した後、彼女の頭をそっと僕の肩の方へと寄せた。
(……首を痛めて、東京散策のパフォーマンスが下がるのを防ぐための……リスク管理だ)
そう自分に言い聞かせながらも、肩にかかる彼女の重みと、微かなクッキーの甘い香りに、僕の心臓は新幹線のモーター音よりも速く脈打っていた。
新幹線は静岡県内を疾走している。
窓の外には、冬の澄んだ空気の向こうに、白雪を頂いた富士山がその雄大な姿を現し始めていた。
(……来たな。日本最高峰のアセットが)
窓の外に広がる、完璧な白と青。誰が見ても「正解」と言える、圧倒的な景色。
(ここで起こすのが、論理的かつ合理的な判断だ)
僕には約束がある。
この景色には価値がある。
すべてにおいて、完璧なはずだった。
――にもかかわらず。
僕の視線は、窓の外ではなく、肩に預けられた小さな重みの方に固定されていた。
(……なぜだ)
(理解できない。明らかに優先順位がおかしい。)
日本一の絶景よりも、隣で眠るただの寝顔の方が、僕の意識を100%占有している。
(……いや、“ただの”じゃないな)
規則正しい寝息。
力の抜けた指先。
かすかに香る、朝に彼女が手渡してくれたクッキーの甘い匂い。それらが、僕が築き上げてきた鉄壁の論理を、いとも容易くすり抜けてくる。
(……これを、起こすというのか?)
一瞬だけ想像する。肩を揺らして、彼女を現実に引き戻す未来。
そして――今、この奇跡的な充足感が終わってしまう未来。
(…………)
その瞬間。僕の中で、何かがはっきりと音を立てて傾いた。
(……あと一分。あと一分だけ)
それはもはや、リスク管理でも健康管理でもない。
ただの――「欲」という名の選択だった。
(……凛さん。富士山が、通り過ぎていくぞ)
自ら目を覚ましてくれ!そう思いながらも、僕は結局、何もしなかった。
窓の外で、日本一の山がゆっくりと、けれど無情に後方へ流れていく。
(……あ、あはは。もう見えぬ。さすが300キロ)
――それでも。
不思議と、後悔は微塵もなかった。
(むしろ……)
肩に残るこの確かな体温と重みの方が、今の僕にとっては、よほど「価値のあるもの」に思えてしまったのだから。
「……ん、……ぁ」
新幹線が小田原を通過する頃、凛さんがゆっくりとまぶたを持ち上げた。
「……おはよ、うございます。巧くん……。富士山、まだ……?」
「……ああ。凛さん、非常に言いづらいんだけど」
僕は、痺れた左肩の感覚を無視して、努めて冷静に――敗北した理屈の残骸をかき集めて告げた。
「……富士山は、現在地より後方三十キロメートルの地点に、固定資産として置いてきたよ」
「えええええええ!? 巧ちゃまの嘘つきー!!」
車内に響く彼女の悲鳴。
僕は「リスク管理の結果だ」という、自分でも苦しい言い訳を飲み込み、東京駅へのラストスパートに備えることにした。




