第68話:【出発】午前四時の境界線と、野生のリスへの備え
午前四時。
鳴凪駅のコンコースは、自分の足音さえ響くほどに静まり返っていた。
僕はカシミアのコートの襟を立て、タートルネックに顎を埋める。
(……あまり眠れなかったな)
遠足前の子どものような興奮――などという不合理な理由ではない。
今回の「東京攻略ポートフォリオ」に抜け漏れがないか、脳内シミュレーションを繰り返していた結果……ということにしておく。
「……ふわぁ」
思わず欠伸が漏れた。
左腕の時計に目を落とす。
久しぶりに着けた自前のブランド品は、驚くほど重たく感じられた。
(こんな重たかったかな?)
集合時間まであと三十秒。
今回の旅費のすべてを決済した身として、一秒の遅延も許されない。
(……遅いな。リスク管理として、モーニングコールの回数を増やすべきだったか)
そう思った瞬間。
駅のロータリーに、一台の軽自動車が滑り込んできた。
「気をつけてね! 消防士さんに見られないようにね!」
「もう、お母さん! 声が大きいってば!」
(……消防士? 救急車ではなく? そもそも何を見られるというんだ)
そんな不可解で騒がしいやり取りと共に、大きなキャリーケースを抱えた凛が、転がるように改札へ向かってきた。
目の前に立った彼女は、いつもの姿とは違う、気合の入った旅の装い。
……そして、その顔は僕以上に眠そうだ。
「はぁ、はぁ……! 巧くん! お待たせしました!」
「……おはよう、凛さん。遅刻はしていないよ。予定通りだ」
「よ、よかったです……。全然眠れなくて。あ、これ! 朝ごはん、作ってきました!」
彼女が差し出してきたのは、丁寧に包まれたプラスチック容器のお弁当。
「帰りに荷物にならないように、捨てられる容器にしてあります。……巧くん、新幹線で食べませんか? 今回の旅費、全部出してもらっちゃってるから……せめてもの、お礼です」
容器から伝わってくる、微かな温もり。
(嬉しい……。こういうの、人生で初めてかもしれない)
「ありがとう……」
さらに彼女は、小刻みに震える手で小さな袋を僕に手渡した。
「あと、これは……クッキー。真心というか、心ばかりの……」
袋越しに伝わる、不格好で愛おしい「真心」の重さを噛み締める。
今回の旅費――宿泊代や南青山のディナーに比べれば、この弁当の原価は数百円だろう。
けれど。
(今の僕の心拍数を跳ね上げているのは、ポケットのタンザナイトでも、フレンチの献立でもない。この、手作りのお弁当だ)
「……新幹線で、一緒に食べよう」
僕は彼女の大きな荷物を引き受け、空いた手を差し出した。
一瞬の躊躇いのあと、凛の小さな手が僕の手をぎゅっと握る。
「さあ、行こう。マリンライナーが来る」
「……はい! 絶対にリス、かわいいですよ!」
町田の野生動物に想いを馳せる彼女の等身大の言葉が、たまらなく愛おしい。
朝霧の中、マリンライナーのライトが遠くから見えてきた。
お母様に送り出された彼女が、その鞄の中に「一万円の決意」を秘めていることなど、この時の僕は露ほども知らずに。
僕たちの、不合理で特別な大冒険が、今、動き出した。




