第66話:【申請】月曜日の有給休暇と、沈黙のステークホルダー
週が明けた月曜日。
僕と凛は、打ち合わせ通り「休暇届」を提出するべく、榎木さんのデスクへと向かった。
金曜日の有給取得。
男女の社員が揃って、同じ日に休みを取る。
これが港区の戦略コンサルなら「おや、不適切な関係か? それとも引き抜きか?」と疑われ、デューデリジェンス並みの調査対象になってもおかしくない事案だ。
(……慎重に、かつ自然に。理由は『私用のため』の一点張りで通す)
僕は隣でガチガチに緊張し、提出前から挙動不審になっている凛を制し、無表情で書類を差し出した。
「榎木さん。今週の金曜日、私と佐倉さん、有給をいただきたいのですが」
「あ、はいはい。金曜日ね」
榎木さんは、僕の提出したプレゼン資料チェックよりも遥かに真剣な眼差しで、手元のカップ麺の待ち時間を計りながらハンコを取り出した。
「二人揃って……。いいよ、別に。最近忙しかったもんね。……はい、承認(判子ポチッとな)」
ものの数秒。
一切の追及も、意味深なニヤけ顔も、プライベートへの踏み込みもない。
榎木さんの意識の80%はすでに三分後のランチに注がれており、残りの20%は午後の会議の睡魔対策に充てられているようだった。
「……あの、榎木さん。理由は、その、聞かないんですか?」
凛さんが、逆に不安になったのか余計なことを口走る。
僕は咄嗟に彼女の背後に回り、黙って肩に手を置いた。
「ん? 理由? 法的に有給の理由は自由だしね。お腹壊さないようにだけ気をつけてねー」
榎木さんは、適当に手を振って僕らを解放した。
「さあ、凛さん。これが受理された以上、速やかに次の工程に移る。この書類を管理部へ届けてくるよ」
僕は榎木さんの判子が朱色に輝く書類を手に取った。
豊予支社には、勤怠システムという概念がまだ存在しない。導入は来期からだ。
クラウド上のダッシュボードで承認ボタンをクリックするのではなく、こうして紙に判子をもらい、物理的に運ぶ。
(……アナログだが、この『紙一枚』の重みが、今の僕らには決定的な通行許可証に見える)
僕はそのまま三階の管理部の窓口へと向かい、事務員さんに書類を手渡した。
(これで事務上の手続きも完全にコンプリートだ)
デスクに戻ると、凛は沈みこむようにして椅子に座り大きく息を吐いていた。
「……あっさり通っちゃいました。もっとこう、『君たち、まさか一緒に……?』とか言われるかと思って、心臓止まるかと思いましたよ。いつも通りで良かったです!」
「榎木さんが、いい意味で他人に興味のない鈍感な人で助かったよね。」
鳴凪の職場のゆるい空気感。
「アナログな鈍感さ」が、今はこれ以上なくありがたい。
「さあ。これで金曜日の枠は確保したので、あとは当日の実行を待つだけです。……ただし、休みを取るからには週次業務のタスクをすべて前倒しで終わらせる。効率重視だ」
「は、はいっ! 鬼教官!」
僕らは誰にも怪しまれることなく、一泊二日の「誕生日・東京生存戦略」への片道切符を手に入れた。
管理部に受理されたあの紙切れが、僕らの大冒険のスタート合図だった。
◇
管理部のデスクでは、僕が提出した二枚の「休暇届」が、静かな爆弾となって爆発しようとしていた。
「あ……」
管理部の島田さんが、提出された書類の束から僕らの届けを拾い上げた。
「……佐藤くんと佐倉さん。二人揃って今週の金曜日に有給?」
島田さんの呟きは小さかったが、その「有給」というワードに、隣の島の高橋が猛烈な勢いで反応した。
「え! 島田さん、今なんて言いました!? 誰と誰が休みだって!?」
「あ、いや、佐藤くんと佐倉さんが同じ日に……」
「見せてください!」
高橋は島田さんの手から、ひったくるようにして二枚の書類を奪い取った。
そこには、佐藤巧と佐倉凛の署名、そして所属長榎木の、何も考えていないことが透けて見えるような適当な判子が並んでいる。
「……こ、これは……ただごとじゃないぞ……!」
高橋の目が、管理部の蛍光灯を反射して鋭く光った。
「島田さん、いいですか? あの、効率と合理性の権化みたいな佐藤がですよ? そしてあの、佐藤のペースを乱しまくっている天然後輩の佐倉さんが、ピンポイントで金曜日、同時に有給を出す……。これが何を意味するか、分かりませんか?」
「え、ええ……。まあ、偶然じゃないの? ほら、二人とも最近忙しそうだったし……」
「偶然で片付けられるのは一般層までですよ!この申請を出したタイミング、そして金曜日という絶好の『連休構築日』。……これは間違いなく、戦略的な『何か』が動いている……!」
高橋は、まるで隠された裏帳簿を暴く税務調査官のように、二枚の紙を交互に重ね、透かして見ている。
「ただの私用じゃない……。これは、鳴凪を揺るがすビッグプロジェクトか、あるいは……」
「あるいは?」
「……『視察』だ!!」
管理部の片隅で、高橋の確信に満ちた声が響き三階の空気が一瞬止まり……
次の瞬間——
お局様たち騒ぎ出した。
「え!?佐藤くんと佐倉さん!?」
「ついにその時がきたのね!?」
「えっ!二人で連休?もしかしてゴールインの挨拶かしら!!?」
「休み明けに東京バナナが届いたら間違いないわね」
僕らが榎木さんの鈍感さに救われたと安堵していたその裏で、同期の「人間勤怠監視システム(お局様ネットワーク)」がフル稼働し始めていることに、僕はまだ、微塵も気づいていなかった。




