第65話:【正解】パールの輝きと、薬指の空位
試着室の厚いカーテンが、静かに左右に割れた。
「……あの、巧くん。やっぱりちょっと、私には大人っぽすぎませんか?」
おずおずと一歩踏み出してきた凛の姿に、僕は言葉を失った。
(…………)
マットなミッドナイトブルーは、彼女の肌の色を驚くほど綺麗に見せていた。
先ほどまで「地味」だと言っていたデザインは、凛が袖を通した瞬間に、まるで最初から彼女のために作られたかのような「正解」へと変わっている。
(……これだ。これしかない)
あまりの「似合い方」を前に静かな高揚感を覚えた。
「すごく、似合って……」
「あら、まあ! 彼氏さん、お見立てがいいですね!」
被せる様に横から現れたベテランの店員さんが、明るい声を上げた。
「こちらのドレス、ハンガーにかかっている時は少し控えめに見えるんですけど、着る方の良さをすごく引き出してくれるんです。本当によくお似合いですよ。こちらに合うお靴も何点か持ってきますね!」
店員さんはテキパキとした動作で、バックヤードへと走っていった。
「……巧くん? あの、黙ってないで何か言ってください。やっぱり変ですか?」
不安そうに僕を見つめる凛。
僕は腕を組み、鏡越しに彼女の姿をもう一度じっくりと眺めた。
「……変なわけない。すごく似合ってる」
「本当……ですか?」
「うん。凛さんの雰囲気に合ってるし、品がある。……正直、僕の想像以上です」
お世辞でも何でもない、本音がもれる。
僕が淡々とそう告げると、凛は「……よかった」と、小さく息を吐いて笑った。
「巧くんが選んでくれたから、自信持って着ます。……でも、本当にいいんですか? 一万円なのに」
「一万円かどうかなんて、関係ないよ。今の凛さんを見て『安っぽい』なんて思うやつがいたら、そいつの目の方が節穴だ」
僕は少しだけ口角を上げた。
イオンのフォーマル売り場。周囲には買い物カートを引く家族連れが通り過ぎていくけれど、鏡の中にいる彼女は、間違いなくここではない「どこか」へ行く準備ができていた。
「さあ、靴も決めてしまおう。あとはアクセサリーだ。……次はアクセサリーの店舗へ行こう」
「……はいっ。ありがとうございます、巧くん」
その笑顔に、僕は思わず小さく肩をすくめた。
「……反則です、その顔は」
僕がボソッと呟くと、凛はさらに顔を赤くして、僕らは狭い試着室の前で、しばらく二人で照れ笑いを交わした。
南青山の老舗フレンチと、町田のリス園。
その両方を攻略するための、僕らの等身大な戦装束がようやく決まった。
◇
ドレスショップを後にし、僕らは同じフロアにあるアクセサリー店へと向かった。
そこは、先ほどのフォーマルウェア売り場よりもさらに「現実」が詰まった空間だった。
ガラスケースの向こう側では、僕らと同じくらいの、あるいはもう少し若そうなカップルたちが、真剣な面持ちでトレイを見つめている。
(……結婚指輪か)
店の一角にあるブライダルコーナー。
夫婦になることを決めた男女が、互いの薬指に嵌め合っている。
その光景を横目に、僕は不思議と心がざわつくのを感じた。
「巧くん、見てください! このパールのネックレス、さっきのドレスに合いそうじゃないですか?」
凛はブライダルコーナーには目もくれず、カジュアルなパールが並ぶ棚の前で声を弾ませた。
(数千円、高くても一万円台か。こっちのコーナーのが良さそうだけど……)
本真珠ではないかもしれない。
けれど、その控えめな輝きは、さっき選んだミッドナイトブルーのドレスには、かえって嫌味のない「正解」を添えてくれるはずだ。
凛がカジュアルパールの選びに夢中になっている間、僕は静かに隣の高級ジュエリーコーナーへと足を向けた。
並んでいるのは、宝石箱をひっくり返したような色とりどりの輝き。その中で、僕の視線はある一点で固定された。
(……タンザナイト。僕と同じ、12月の石)
透き通るような、けれど底の見えない深い青。
それは、僕が彼女の前でだけ見せてしまう、自分でも制御しきれない感情の色に似ていた。
「お客様、そちらのピンキーリング、素敵ですよね」
店員が静かに声をかけてくる。
「ピンキーリングには『幸運のお守り』という意味があります。特に12月の石は、正しい判断を導くと言われているんですよ」
(正しい判断……、今の僕が、この「一見不合理な大冒険」に身を投じていることが正しいのか、試されてるみたいだな)
(それを証明するためのお守りとしても、この石は悪くないな。)
「……これを。ラッピングは不要です。小さな袋だけで」
僕は凛に気づかれないよう、一瞬でカード決済を済ませ、僕のポケットの中に滑り込ませた。
「巧くーん! これに決めました!」
駆け寄ってくる彼女。
その無防備な笑顔を見ながら、僕はポケットの中の硬い感触を確かめた。
「……そうだね。粒が大きすぎない方が、凛さんのデコルテが綺麗に見える」
「じゃあ、これにします! あ、イヤリングもお揃いのが……」
凛が嬉々として鏡の前でアクセサリーを当てている間、僕はふと、さっきのブライダルコーナーの方へ視線を戻した。
(今は小指だけでも十分だ……)
だけど、いつか――。
もし、僕のこの「ロジックを超えた感情」が、一つの決定的な結論に達した時、僕は彼女をあちら側のケースの前へ連れて行くことになるのだろうか。
「巧くん? どうしたんですか、ぼーっとして」
凛が僕の顔を覗き込んできた。
その左手の薬指には、まだ何も飾られていない。
「……いや。もし次にここに来る時は、もう少し時間をかけて選ぶことになりそうだな、と思って」
「え? アクセサリーですか? 私、これで十分満足ですけど……」
全くピンと来ていない彼女の天然な反応に、僕は思わず苦笑した。
「……いいよ。今は、そのパールを揃えよう。レジへ」
「はいっ!」
一万円のドレスと、数千円のパール。
僕が知っている「高級」の定義とは程遠いけれど、レジで会計を済ませて嬉しそうに紙袋を抱える彼女の横顔は、僕のどんなポートフォリオよりも、僕の心を安定させていた。
「流石にお腹すきましたぁ……もう2時です!」
「そうだね。フードコートで何か食べようか」
「はい! 私うどんとたこ焼きにします!」
「はは、炭水化物の暴力だな」
そう言いながら、僕も彼女の隣でトレーを持って並んだ。
帰り道。
結局、専門店街にもより東京観光で着るコートやワンピースなどもセール品で揃え、夕暮れの駐車場に向かいながら、僕は心の中で、12月3日のスケジュールをもう一度上書きした。
町田のリス、新大久保のハットグ、そして南青山のフレンチ。
この支離滅裂な「大冒険」の果てに、僕は彼女に何を伝えるべきか。
潮風が少し冷たくなってきた鳴凪の空の下、僕らの「戦装束」はすべて揃った。




