第61話 :【亀裂】分かち合えない金銭感覚
あれから高橋は即行動に移し、資産価値のあるものは全て現金にし、なんとか再建の目処を立てた。
現金化された金で消費者金融への道を閉ざし、ローンの支払い計画を再構築したのだ。
でなければコンプライアンス通報する、との僕の脅しがちゃんと効いたようだ。
(……脅しが効かなければ、人として終わっていた。流石にそこは安心した)
会社という組織の歯車としては、これで一件落着だ。
だが、僕の心は晴れない。
会議室で凛が口にした「ぼんぼん」「庶民」という言葉。
あの日以来、その二言が、ずっとわだかまりのように僕の喉につかえている。
(高橋には絶対に見せられない)
僕は証券口座のアプリを開いた。
大学に入ってから九年。個別株には手を出さず、毎年、親からの贈与をそのまま投資信託に流し込んできた。
今は、五倍近い。
(……努力の結果、そう言い切れたらどれだけ楽か)
元手は親だ。スタートラインが、最初から違った。
高橋が言った「ぼんぼん」。
凛が笑いながらいう「資産価値を気にするどこぞの御曹司」。
(否定できない……)
資産を守り、それを彼女の未来に注ぎ込もうとしている僕の努力が、彼女の無邪気な言葉によって、冷たい壁に変えられていくような気がしてならなかった。
(……美味しいものを食べさせたい僕と、欲のためなら納豆でいい凛。この違和感は、どちらかが折れない限り埋まらない)
夢の中で見た、カニ旅行の爆益。
(……僕は完璧なポートフォリオで彼女の人生を管理したいと思ってしまう。)
じゃないと彼女は一生、夢の中でカニの殻だけを剥き続けることになるのではないか。
そんな焦燥感に僕はため息をつき、画面上のポートフォリオを閉じた。
(このままここにいても、僕らの溝は深まるばかりだ。)
自席で、月末近くでお金がないからと、家から持ってきた米と納豆と漬け物を食べる凛を見つめる。
「……佐倉さん。東京にいきませんか?」
「え? 何しにですか? 出張とかですか?」
口から糸をたらしポカンとする凛。
(本当に……、こういう時に全くピンとこないんだな)
だが……それが、たまらなく好きだった。
「12月3日、佐倉さんの誕生日だよね。この間のお見舞いの時、住所を調べたときに見た。ごめん。僕もその10日後、13日が誕生日です」
「……ん?」
「あなたの誕生日を祝わせてほしい。凛さん」
価値観を埋めるには、彼女に「ボンボン」の世界――僕の生きてきた、僕のアイデンティティを見てもらいたいと思った。
*
「……凛さん」
その低い声が、私の鼓膜を直接震わせた。
「佐倉さん」という、後輩呼ぶ呼称ではない。
私という、一個人の名前。
見上げると、佐藤先輩の顔がわずかに、けれど確かに熱を帯びて赤らんでいた。
(……あ。これ、違う)
いつもの「業務の効率化」や「ロジックや解像度」なんて話じゃない。
(これは、新幹線代がどうとか、無駄使いしたから行けませーん……とか、そういうのじゃない)
フォックス社のエリート社員・佐藤巧が、地方の子会社社員にするお願いじゃない。
(心臓の音が、うるさい……)
さっきまで食べていた納豆の匂いが、急に恥ずかしくてたまらなくなった。
「……先輩」
私の声が、情けないほど震える。
「……東京ですか。……私、修学旅行でしか行ったことないです。紀ノ国屋と紀伊国屋の違い分からないけど、行ってもいいんですか?」
それは拒絶ではなく、私の精一杯の「武装解除」だった。
巧さんは、ふっと視線を和らげ肩を揺らす。
「……ふふ。なんでいつもこうなるかな。僕が、全部、凛さんに案内します。だから一緒に、来てほしい」
ただ、この人が見ている景色を、私も隣で見てみたいと思った。
たとえそこが、先輩がいつも語る眩しすぎる南青山の空の下だとしても。
「…………はい。行きます。連れてってください。……東京。巧……くん」
私の返答を聞いた瞬間、佐藤先輩の口元に、今日一番の、そしてこれまでで一番「人間臭い」安堵の笑みに、胸の奥が、とても熱くなった。
けれど……。
(……東京。新幹線。ホテル。お誕生日プレゼント。……全部でいくらかかるんだろう)
頭の中で、私の少ない通帳の残高と、ボーナスの想定金額が高速で踊り狂う。
熱かった胸の奥が、ほんの少しだけ冷めた気がした。




