第54話:港区ブランド、イオンの藻屑と消える
温暖な気候の鳴凪もいよいよ寒くなってきた。
南青山で買ったカシミアのコートが、鳴凪でも本格的に稼働し始める。
ロンドンの職人が一本の糸からこだわって織り上げた、僕のアイデンティティそのものだ。
だが、DXジャンパーを羽織った彼女は冷ややかな目で一瞥した。
「佐藤先輩、そのコート。鳴凪のイオンの葬儀屋コーナーで売ってる、おじさんの服っぽいです!……でも、先輩が着ると、なんか……似合ってます。」
彼女なりの(?)ほめ言葉が、南青山から持ち帰った僕の「知性の残滓」を木っ端微塵に粉砕した。
(……イ、イオン……?)
脳内の検索エンジンがフル回転するが、ヒットするのは「地方にある巨大なピンクとグレーの建造物」という、僕の人生には無縁の画像だけだ。
(そもそも、港区にイオンはあるか? ……断じて、ない!!)
週明けに会えた喜びと、彼女の二日間溜め込んだカミソリのような毒。
デューデリジェンスでM&Aが決まりかけていた関係が、この一言で「初期段階の敵対的買収」へと巻き戻った感覚。
「……佐倉さん。これはロンドン直輸入の、極細ウールを使用した……」
「あー、わかります!そういう『こだわってます感』はバッチリ出てます!」
凛の「地方の解像度」という名のナタが、数十万円のコートを、一瞬で「鳴凪の法事服」へとダウングレードさせた。
「……佐倉さん、いい加減にしてください。僕が行くスーパーは『紀ノ国屋』と『成城石井』だ。僕の生活圏において、あのピンクの看板はない。『KINOKUNIYA』とアルファベットでデザインされた、緑色のエコバックとこのカシミアコートは親和性が高いんです!」
必死の形相で「エリートのライフライン」を主張する僕に、凛は不思議そうな顔をした。
「なんか歴史的な名前のお店ですね……。 でも、『紀伊国屋』は漢字ですよね? 本屋さんの。東京の意識高い本屋さんは、オシャレな本と一緒に食料品も売ってるんですか? へぇ〜、さすが『紀伊国屋』」
『KINOKUNIYAスーパー』と『紀伊國屋書店』。
その決定的なブランドの境界線を、凛は「歴史的な名前」という圧倒的な認識でなぎ倒した。
「……違う。違うんだ。K-I-N-O、の方だ。書店じゃなくて、最高級の、エグゼクティブな食の殿堂なんだ! 」
「あ!そうか!食料品といえば蔦屋ですよ! 鳴凪にもあります! 先輩、わざわざ東京から図書バッグ持ってこなくても、現地調達できますよ!Tポイントも貯まる、いい書店ですよ!」
「……え?」
僕の脳内にある「南青山の優雅な生活」が、「鳴凪の蔦屋で、Tカードを片手に、緑の図書バッグにメロンパンを詰め込んでいる佐藤巧(26歳・独身)」という、救いようのない映像に塗り替えられた。
「佐倉さん……Tじゃない。今はもう、Vポイントです。青と黄色のVです。経済ニュースをチェックしていれば当然の……」
僕は最新の金融リテラシーを教授するエグゼクティブの顔で彼女を見下ろしたが、凛はガサゴソとパンパンに膨らんだ財布を漁った。
「え、何を言ってるんですか? これ、見てくださいよ」
つままれていたのは、端っこがボロボロになり、塗装さえも剥げかけた年季の入りすぎたTポイントカードだった。
「Tです。どう見てもTですよ。どこにVなんて書いてあるんですか? 」
僕が語る「V(三井住友との統合)」というマクロ経済の正解は、彼女の持つ「剥げたTカード(鳴凪の現場)」というミクロの現実に、完膚なきまでに握りつぶされた。
「……統合、したんだ……TはVに飲み込まれたんだ……」
「先輩、カードに飲み込まれるとか、カードバトルのアニメの見すぎですよ! あははは」
(なんだこの圧倒的な価値観の断絶は……。この人は、僕の世界を知らなさすぎる——)
デューデリジェンスでM&Aの稟議を通そうとしていた僕の論理が、ガラガラと崩れ去っていくようだった。




