第3話:【標的型】洗礼は五月雨式に
凛が所属する営業企画グループは、現在、奇妙なバランスの上に成り立っている。
メンバーは、元の役職が課長の榎木、親会社からの出向社員である佐藤、そして実務担当の凛の三人のみ。
元々は全社員130人規模の中小企業だ。
これまでは、上の人間がじっくり企画を練る余裕などないせいで、凛と榎木の二人でチラシを作り、SNSを駆使して泥臭く販売促進を行ってきた。
決済権は課長にあり、実務と制作はすべて凛が担う。
効率とスピードこそが命の、小回りの利く小さな部署だった。
しかし、親会社の傘下に入ったことで状況は一変した。
親会社から降りてくる巨大な販促企画。
その「大企業のルール」と「現場の実務」の間に立ち、調整役として送り込まれてきたのが佐藤だった。
そして今、「大企業の洗礼」が、平和なオフィスを地獄に変えていた。
「ひっ……!? ウイルスだ! ウイルスが来たぁぁ!!」
突然、榎木が椅子を跳ね飛ばして立ち上がった。
「えっ!? 榎木課長、あ、いや……榎木さん、どうしたんですか!?」
「佐倉さん、これを見ろ! さっき君が言ってた『使命』の続きだと思って開いたら、画面が真っ赤になって……! 早く、早くLANケーブルを抜け!! 物理的に切り離すんだ!!」
「えぇぇぇ!? 嘘、私のパソコンも!?」
榎木と凛が同時に「奇声」を発し、デスクの下に潜り込んでLANケーブルを力任せに引き抜く。
その混乱は、二人だけではなかった。
他のデスクの島でも「抜いて!」「遮断して!」と叫び声が上がり、オフィス中が五月雨式にネットから切り離されていく。
そんな阿鼻叫喚のフロアで、一人だけ動かない男がいた。
(……かかったな)
佐藤は冷めたコーヒーを一口啜り、余裕の笑みを浮かべていた。
彼は自分のパソコンを閉じることもなく、ただパニックに陥る二人を「高見の見物」と決め込んでいる。
「さ、佐藤さん! 佐藤さんも早く!! 榎木さんがやらかしました! 全員、この支店全員クビです! これ見てください!」
凛が青ざめ、地雷を踏み抜いた榎木は震え上がって、もはや震える手で管理課に自首の電話をかけようとしている。
「残念です……皆さん、本当に残念ですよ」
佐藤の口振りは悲しそうだが、その肩は笑いを堪えて小刻みに震えている。
「ふ、ふふ……佐倉さん、榎木さん。そのメール、送り主のドメイン……よく見ましたか?」
「ドメイン……? フォックスエネルギーじゃないんですか!?」
「フォックス……『エナジー』。ドットコム。……残念でした。」
一文字違いのドメイン。
さらに追い討ちをかけるような佐藤の言葉に、榎木が涙目になる。
「すいません、やり過ぎですね。これは親会社の管理部が仕掛けた、標的型攻撃メール訓練ですよ」
床に這いつくばってLANケーブルを握りしめたまま、凛の動きがピタリと止まった。
「……くん、れん?」
「先月のeラーニング受講から一ヶ月ですね。ちょうど知識が抜けて忘れた頃に届くように設定されている訓練メールです。僕のところにも、今さっき届きましたよ」
「な、なら……これは大丈夫……?」
すがるような目で佐藤を見上げる榎木。
「ええ、実害はありません。詰め込んだ知識を実践で試す、管理部特製の実技試験ですから。……おめでとうございます。榎木さん、見事な『不合格』です。今頃、管理部の再教育名簿に榎木さんの名前が入力されてますね……」
佐藤は意地悪く、手元の「未開封」のメール画面を二人に見せつけた。
「佐藤先輩……最初から知ってたんですか……?」
「……これも教育です。さあ!大丈夫なのでLANケーブルを戻してください。管理部から『再教育』の呼び出しメールが届く前に、その添付されたワードファイルを開いてみてください」
凛が恐る恐る榎木がダウンロードしたファイルを開くと、そこには40ptのフォントサイズで最大級の嫌味が記されていた。
【警告:これを開封したあなたへ。あなたは今、会社を滅ぼしました】
「は、図ったなぁ! 卑怯です、管理部!!」
凛の叫びも虚しく、大企業の洗礼は、eラーニングの設問よりも遥かにえげつない爪痕を残した。
その後、あまりの恐怖からフロア全員が「本物の重要なメール」すら開かなくなるという二次被害が発生。
「返信が遅すぎる!」と再び管理部から五月雨式に怒られることになるのだが、それはまた別の話である。




