第30話 勇者パーティとドランク
「リコ……リコ、しっかりしろ」
夜の闇の中、ドランクは血だらけの妹を抱きかかえながら、見知らぬ街の路地を彷徨っていた。
リコの腹には、逃げる最中に受けた銃弾が深く食い込んでいた。血の気の失せた顔、浅くなる一方の呼吸。抱える腕の中で、妹の体温が少しずつ下がっていくのが分かった。
「頼む……頼むから、目を覚ましててくれ」
村を出てからどれほど歩いただろうか。方向も分からず、ただ人の気配がする方へ、灯りが見える方へと足を進めた。辿り着いたのは、貧民街と呼ぶにふさわしい、寂れた区画だった。
崩れかけた建物、饐えた匂いの漂う路地、行き倒れた者を見ても誰も足を止めない街。
その中を、ドランクは妹を抱えたまま駆けずり回った。
「すいません誰か、医者は! 医者はいませんか!」
声を張り上げても、返ってくるのは冷たい視線ばかりだった。
ようやく見つけた診療所の扉を叩けば、灯りは点いていても応答はない。次に見つけた家では、扉の隙間から顔を覗かせた老人に、けんもほろろに追い返された。
「銃創だと? 冗談じゃない、そんなもん見ただけで巻き込まれちまう。よそ行ってくれ」
「頼みます、このままじゃ妹が死んじまう!」
「知ったこっちゃない。とっとと失せろ!」
扉は無情に閉ざされた。
銃創を負った人間を助けたことが知れれば、後々厄介事に巻き込まれる——貧民街に住む者たちは、皆それを恐れていた。誰も彼も、我が身可愛さに目の前で死にゆく子供にさえ手を差し伸べようとしない。
それでも、ドランクは諦めなかった。
「金なら、後でなんとかする! 頼む、診てくれ!」
「後で払うだと? そんな口約束、誰が信じる」
次の医者も、また次の医者も、皆同じだった。
諦めるという選択肢は、最初からドランクの中になかった。
脚が縺れ、何度も転びそうになりながら、それでも走り続けた。途中、路地裏に座り込んでいた浮浪者に縋りついたこともあった。
「なあ、この辺りに、腕のいい医者はいないか。金は……今はねえけど、必ず払う」
「医者ぁ? そんなもん、ここいらにゃいねえよ。いたとしても、金がなきゃ門前払いだ」
「そんな……」
「諦めな、坊主。ここいらじゃ、金のねえ怪我人なんて掃いて捨てるほどいる。お前の妹だけが特別ってわけじゃねえんだよ」
浮浪者は乾いた笑い声を上げながら、興味を失ったように視線を逸らした。
それでも、ドランクは足を止めなかった。灯りが見えるたびに扉を叩き、人影が見えるたびに声をかけた。ある家では水をかけられ、ある家では犬をけしかけられた。それでも構わず、次の扉、また次の扉へと縋り続けた。
腕の中のリコは、もう自分の名前を呼ぶことすらできなくなっていた。ただ、浅く、途切れそうな呼吸だけが、まだ生きている証だった。
「頼む……お願いします、なんでもしますから!」
声は掠れ、喉は張り裂けそうだった。それでも、やめるわけにはいかなかった。
やがてドランクは、なりふり構わなくなっていった。
「頼む! 俺の……俺の臓器でもなんでも売っていい! 腎臓でも、目玉でも、なんだって差し出すから、妹だけは助けてくれ!」
膝をつき、頭を地面に擦りつけながら懇願する。
だが、それすらも失笑と共に無視された。
「馬鹿言うな、坊主。臓器売買なんて、そんな簡単にできるかよ。第一、お前の臓器なんぞ誰が欲しがる」
扉という扉に断られ続け、それでもリコの息は少しずつ、確実に弱くなっていく。
ドランクの腕の中で、妹の唇が僅かに動いた。
「お兄、ちゃん……」
「喋るな、リコ! 喋らなくていい、俺が必ず……必ず助けるから!」
声にならない嗚咽を堪えながら、ドランクはまた歩き出した。
どれだけの扉を叩いたか、もう数えることすらできなかった。空が白み始めた頃、路地の奥にひっそりと佇む、一軒のあばら家に辿り着いた。
「開けてくれ……頼む、開けてくれよ……!」
力なく叩いた扉が、軋みながら開いた。
顔を出したのは、無精髭を生やし、酒臭い息を吐く初老の男だった。手には、まともに消毒されているとも思えない道具箱を抱えている。
「……ああ? なんだ、こんな時間に」
「医者、なんですよね……? 頼む、妹を、診てくれ! 銃で撃たれて……もう、あと少しも保たない!」
男は目を細め、ドランクの腕の中のリコを一瞥した。
しばらく値踏みするような沈黙の後、男はにやりと笑った。
「診てやってもいいがな。安くはねえぞ」
「金なら、必ず払う! だから——」
「口約束はいらねえ。今すぐ、目に見える形で払ってもらう」
男はそう言うと、ドランクの下半身に目をやった。
「幸い、お前は若い。売れるものがあるだろう」
その意味を理解するのに、そう時間はかからなかった。
ドランクは一瞬、言葉を失った。だが、腕の中で弱り切っていく妹の呼吸を感じた瞬間、迷いは消えた。
「……分かった。持ってけ。なんでも持ってけよ!」
その後のことを、ドランクはあまり覚えていない。
薄暗い部屋に運び込まれ、汚れた布の上に横たえられたこと。焼けるような激痛と、意識が飛びそうになるほどの熱。歯を食いしばりながら、それでも声を上げまいとしたこと。
気がつけば、ドランクの体からは、片方の睾丸が失われていた。
それを対価として、男はリコの治療を始めた。銃弾を摘出し、傷口を縫合し、止血の魔術薬を惜しみなく使う。荒っぽい処置ではあったが、少なくとも、命を繋ぎ止めるだけの技術は確かにあった。
「……これで、当面は保つ。だが、完治とはいかねえな」
男はそう言って、リコの容体を見下ろした。
「弾が抉った内臓は、簡単には元に戻らねえ。定期的に薬と処置が必要になる。それも、安くはねえぞ」
ドランクの中から失われたものひとつでは、到底足りない対価だった。
それでも、リコは息をしていた。眠るように目を閉じたまま、それでも確かに、胸が上下していた。
「……分かった。金は、必ず用意する」
ドランクはそう答えるしかなかった。
◆
それから数日、ドランクはあばら家の片隅でリコの看病を続けた。
意識は戻らない。熱は上がったり下がったりを繰り返し、時折うわ言のように、家族の名前を呼んだ。母の名を、そしてドランク自身の名を。
だが、金はすぐに底をついた。
村から命からがら持ち出したなけなしの金など、法外な治療費の前ではあっという間に消えてなくなる。次の支払いの目処すら、まるで立たなかった。
「……働かなくちゃ、な」
あばら家の壁に背を預けながら、ドランクは呟いた。
村で剣を振るっていた経験はある。まだ子供と呼ばれる歳ではあったが、それでも体格だけは人より恵まれていた。腕っぷしを買われて雇われる仕事なら、この街にもいくらでもあるはずだった。
傭兵。
その言葉が、頭に浮かんだ。
危険な仕事だということは分かっていた。子供が足を踏み入れていい世界ではないことも。だが、他に選べる道などなかった。
出立の朝、ドランクは眠り続ける妹の枕元に膝をついた。
汗ばんだ額に張り付いた前髪を、そっと払う。
「リコ……ちゃんと、聞こえてるか分かんねえけどよ」
返事はない。
規則正しい寝息だけが、狭い部屋に響いていた。
「悪いな。しばらく、傍にいてやれねえ。でも、必ず金は稼いでくる。お前の治療費も、飯代も、全部——だから、待っててくれよ」
ドランクは妹の手を、両手でそっと包み込んだ。
指先は冷たく、力なく、握り返されることはない。それでも、確かに脈は打っていた。
「行ってくる。……さよならじゃ、ねえからな。またすぐ、帰ってくるから」
その言葉が、自分自身に言い聞かせるためのものだということに、ドランクは気づいていなかった。
あるいは、気づかないふりをしていただけかもしれない。
「なあ、リコ。覚えてるか、母ちゃんがよく歌ってくれた、あの子守唄」
返事はない。分かっていて、それでもドランクは続けた。
「今度帰ってきたら、歌ってやるよ。下手くそだけどな。だから、それまで……ちゃんと、生きててくれよ」
声が震えた。堪えきれなくなった涙が、頬を伝って落ちる。それを乱暴に袖で拭い、ドランクは深く息を吸い込んだ。
立ち上がり、扉に手をかけたところで、一度だけ振り返る。
薄暗い部屋の中、小さく上下する布団の膨らみを、目に焼き付けるように見つめた。
「……行ってくる」
もう一度、今度は誰にも聞こえないほどの声で呟いて、ドランクはあばら家を後にした。
外はまだ薄暗く、街は眠りから覚めきっていなかった。
ドランクは一度も振り返ることなく、傭兵組合の看板が掲げられた通りへと、重い足を踏み出した。
これが、ドランクという男の始まりだった。
剣を握り、他人の争いに命を懸けて金を稼ぐ。誰かのためではなく、ただ妹一人を生かすためだけに、血で血を洗う日々に足を踏み入れた瞬間だった。
◆
魔王ミチャロフ三世を討ち果たしてから、三日後——ドランクの周囲には、十数体の死体が転がっていた。
ドラカルト政府が差し向けた刺客たちだ。任務を終えた勇者一行の口を封じるため、あるいは今後の利用価値を見極めるための、いわば試験のような襲撃だった。だが、その程度の手勢で仕留められるほど、ドランクという男はもはや生易しくはなかった。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をしながら、ドランクは血の滴る剣を鞘に収めた。
辺りには、月明かりに照らされた骸が幾つも横たわっている。かつて村の子供でしかなかった少年は、いつの間にか、これほどの命を刈り取れる化け物になっていた。
その事実に、今更ながら胸の奥がひやりとした。だが、立ち止まっている暇はない。
「……行かなくちゃな」
剣についた血を払い、ドランクは踵を返した。
向かう先はただ一つ。
八年前、意識のないまま置き去りにしてきた、たった一人の家族の元だった。
「待っててくれよ、リコ」
朝焼けに染まり始めた空の下、ドランクは死体の散らばる戦場を後にし、妹の待つ場所へと歩き出した。




