第27話 ミケと家族
石造りの城壁が、夜明け前の薄闇に黒々と聳えていた。
バルト皇国の首都『サンペータブルッヘ』——その中枢に位置する宮殿は、まるで大地から生えた巨大な墓標のようだった。窓という窓に明かりが灯り、内部では直属部隊と秘密警察が最後の守りを固めているのだろう。城壁の外に広がる市街は、すでに幾度となく繰り返された掃討戦の傷跡を残し、瓦礫と死体の匂いが夜風に混じって漂ってくる。
その匂いに、四人はもう慣れきっていた。
「……さすがに疲れたな」
崩れた石塀に背を預けたドランクが、掠れた声で呟いた。
鎧代わりに巻いた布は所々血で黒く染まり、頬にはいくつもの切り傷がある。回復薬の作用で塞がってはいるが、完全に治りきったわけではない。目の下の隈は濃く、まともに眠れていないことは誰の目にも明らかだった。
「明日の今頃には、全部終わってる……はずだよな」
誰に言うでもなく、ドランクはそう続けた。
その隣で、セルバンテスが膝を抱えて座り込んでいる。杖代わりの短杖を両手で握りしめ、指先はかすかに震えていた。
「終わるの何も……ここが最後なんだから、数分後にはもう分かってるはずだよ」
「セスは冷静だな」
「疲れてるせいかな……もうよくわからないんだ」
軽口を叩くセルバンテスの声にも、隠しきれない硬さがあった。
ミケは崩れた石段に腰かけ、いつものように眼鏡の位置を直しながら、静かに宮殿を見上げている。
そしてアレンだけが、立ったまま——一人、少し離れた場所で夜空を見ていた。
「アレン」
ドランクが声をかけた。
振り向いたアレンの顔に、いつもの笑みがある。だがその笑みの奥に何があるのか、この二年でドランクにも、他の二人にも見抜くことはできなくなっていた。
「なんだ」
「なあ……聞きたいことがある」
ドランクは一度、言葉を探すように口を閉じた。
もう何百回と繰り返してきた自問だ。今更聞くまでもないと分かっていた。だが、決戦を前にした今この瞬間だからこそ、確かめておきたかった。
「俺たちは……ミチャロフ三世を殺した後、ドラカルトに帰れば……殺されるんだよな」
沈黙が落ちた。
風が瓦礫の隙間を抜けて、乾いた音を立てる。
ミケもセルバンテスも、顔を上げてアレンを見た。誰も口にはしなかったが、三人とも分かっていたことだ。ミチャロフ三世殺害の秘密部隊など、任務を終えれば処分される捨て駒でしかない。妹を、教会を、家名を人質に取られて召集されたこの旅の果てに、待っているのは英雄の凱旋ではなく、口封じの銃弾だ。
誰もが薄々気づいていた。
それでも今日まで、誰もそれを言葉にしなかった。
「……あの日あの場所で約束したろ。まだ答えがまだだよな」
ドランクの声が、僅かに震えた。
普段の粗野な物言いからは想像もつかないほど、弱々しい声だった。
「俺は……妹に、もう一度会いたいだけなんだ。それだけでいい。それだけでいいから」
その言葉に、セルバンテスも小さく頷いた。
彼もまた、故郷の家に——自分を利用するだけの家族の元へ、それでも帰りたいと思っている。ミケだけが、何も言わずに二人の様子を見つめていた。
「……俺たちは、生き残れるんだよな」
もう一度、ドランクが繰り返した。
懇願するような、それでいて自分に言い聞かせるような声だった。
アレンはドランクの目を見た。
いつもと変わらない、穏やかな微笑みのままで。
「安心しろ。お前たちは生きて帰れる」
その声には一片の淀みもなかった。
迷いも、後ろめたさも、まるで感じさせない。だからこそドランクは信じた。信じることができた。
「……そうか。そうだよな」
ドランクはやつれきった満面の笑み浮かべた。
それはおそらく安堵から来る笑みではなかったのだろう。そして同じようにセルバンテスも笑っている。
「じゃあ……約束だよ、アレン」
「ああ。生きて帰れるとも」
三人のやり取りをミケがじっとみていた。その目はどこか虚なようで、確かに一点を見つめている。
眼鏡の奥の瞳はアレンを見つめていた。
(——あと少しですよ、アレンさん)
声にはならない。
誰にも聞こえない、ミケだけの独白だった。
アレンの噓は、いつだって完璧だ。だがミケにだけは分かる。この期に及んでも、アレンはまだ噓をつく。
最後の最後まで。
その噓を支え続けるのが、ミケの役目だ。
ミケは静かに目を伏せた。
瞼の裏に浮かぶのは、遠い遠い昔——あの夏がまだ始まってもいない頃の記憶だった。
◆
私の家は、村の中でも『立派な家』として知られていた。
父は莱旬祭の世話役を長年務め、村の寄り合いでも一目置かれる存在だった。困っている旅人に宿を貸し、収穫の悪い年には自分の畑の作物を分け与え、誰よりも大きな声で村の未来を語る。子供にも分け隔てなく飴を配り、笑顔を絶やさない、村人の誰もが「あんな立派な人はいない」と口を揃える人間だった。
「ミケちゃんのお父さんは、本当にいい人ねえ。あんたも自慢の父親でしょう」
畑仕事の合間、井戸端で顔を合わせるたびに、近所のおかみさんはそう言って私の頭を撫でた。
その言葉を聞くたび、私は曖昧に頷くことしかできなかった。
「……そうですね」
それ以外に、何を言えばよかったのだろう。
『違うよ』とでも宣えばよかったのだろうか。しかし父親はそれを許さないだろう。
外面だけはいつもいいのだ。
「おい、今日の飯はなんだ。これしかねえのか」
家の中ではいつも父が母を怒鳴りつけていた。
私はその光景を覚えている。
「……今日は……」
「言い訳するな! お前が甲斐性なしだから、こんな貧相な飯しか出てこねえんだろうが!」
最初は母への罵声だった。
次第にそれは食器を投げつける音に変わり、やがて拳や蹴りに変わっていった。母は最初のうちこそ言い返していたが、いつしか何も言わずに膝を抱えるだけになった。
私は幼い頃、その光景を部屋の隅で息を殺して見ていることしかできなかった。
「ミケ、お前はどこ見てんだ。テメェも同じだろうが!」
いつから、私にも矛先が向くようになったのかは覚えていない。
きっと、存在そのものが気に入らなかったのだろう。あるいは、機嫌が悪ければそれだけで十分だった。
「なんだその目は。親を睨みつけてんじゃねえよ!」
飛んでくるのは湯呑みであったり、木製の椅子であったり、時にはただの拳だった。避けそこねた頬に、腕に、背中に、痣が絶えることはなかった。壁に叩きつけられた背中の痛みで、しばらく息ができなくなったことも一度や二度ではない。
母は止めなかった。
「……ごめんね、ミケ。お父さんも、悪気があるわけじゃないのよ」
その言葉を、何度聞いただろう。
止められなかったのだと、今なら分かる。だが幼い私には、それが余計に堪えた。庇ってくれない母もまた、私を見捨てているのだと感じていた。
朝になれば、父はいつもの笑顔で家を出ていく。
「よう、今日もいい天気だな! 畑仕事、精が出るなあ!」
昨晩の狂気など欠片も見せず、道行く村人に手を振り、子供を見れば頭を撫で、老人には丁寧に頭を下げる。
彼らには昨晩の怒鳴り声が聞こえていないのだろうか。この大きくはない村で、父の本性に気が付かないのだろうか
違うだろう。
父の本性なんて、たぶん皆、薄々勘付いてる。だけど彼は、外ではいい人で、働き者で、責任感があって、優しいのだ。村を維持していく上で必要な存在で、共同体の柱で、何よりも、私と母以外には害がない。
見捨てられたのだ。
捧げられたのだ。
私は、この村で父のストレスを発散させるための存在として、黙認されていたのだ。
父も、母も、私を見なかった大人たちも、私を憐れみながらも何もしてくれなかった村人たちも——全員、消えてしまえばいい。焼けてしまえばいい。そうすれば、この息苦しい日々から解放される。
村が滅びればいい。
そう願うことだけが、幼い私にできる唯一の抵抗だった。
◆
そんな私を、何も聞かずに気にかけてくれたのはドランクだった。
「おい、ミケ。今日も川行こうぜ」
「……気分じゃありません」
「なんだよ、辛気臭え顔しやがって。ほら、行くぞ」
半ば強引に連れ出されて、川辺で釣りをする。何を話すでもなく、ただ隣に座って水面を眺める時間が、当時の私にとってはささやかな救いだった。
ある日、腕の痣に気づいたドランクは、いつものように無遠慮な様子で私の腕を掴み、じっと見つめた。何があったのか、とは聞かなかった。ただ、少し困ったような顔をして、こう言っただけだった。
「痛そうだな。今度、俺の獲った肉、多めに持ってくよ」
「……別に、いりませんよ」
「いいから。栄養つけろ。デケェ体になれば、殴られても痛くなくなるからよ」
「そういう問題じゃないと思いますけど」
「うるせえ、いいから食え」
ドランクなりの、不器用な優しさだった。
彼は何も詮索しなかった。何も暴かなかった。ただ、私の痣を見て見ぬふりもせず、かといって余計な言葉で傷つけることもなく、いつもと変わらない態度で接してくれた。それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
だが、それは根本的な救いにはならなかった。
ドランクの優しさは私の傷を癒したが、私を家から連れ出してはくれない。翌朝には、また同じ家に帰らなければならない。
◆
私を本当の意味で見抜いていたのは、アレンだった。
あの子はいつも、少し離れたところから村を見ていた。
子供らしいはしゃぎ方をしながらも、その目の奥にはいつも別の何かが宿っている——そんな違和感を、幼い私でさえ感じ取っていた。
ドランクと三人で遊んでいる時も、アレンだけはふと会話の輪から外れて、遠くを見つめていることがあった。
「アレン、何ぼーっとしてんだよ」
「……いや、何でもない」
「嘘つけ。お前、たまにおかしな顔するもんな」
「そうか? 気のせいだろ」
ドランクはそれ以上追及しなかったが、私は違った。
アレンの視線の先には、いつも何もない。空とも、村ともつかない、どこか遠い場所を見ているような目だった。
ある日、ドランクとセルバンテスが川遊びに夢中になっている隙に、アレンが私の隣に腰を下ろした。
「ミケ、お前……村が無くなればいいと思ってるだろ」
心臓が跳ねた。
誰にも言ったことのない願望を、あっさりと言い当てられたからだ。
「なん……何を、急に」
「顔に出てる。それに、お前の家のことも、大体知ってる」
どこまで知っているのか、私には測りようもなかった。
だが、逃げても仕方がないと悟った。この村で唯一、私の内側を見抜くことができる人間の前で、隠し立てをする意味がない。
「……知ってて、何が言いたいんですか」
「別に。責めてるわけじゃない。ただ——お前の願いは、案外近いうちに叶うかもしれない、って話をしたかっただけだ」
「案外近いうち、って……どういう意味ですか」
「今はまだ、言えない」
「なんですか、それ。気になるようなことだけ言って、誤魔化すんですか」
「誤魔化してるわけじゃない。……ただ、まだお前に話す準備が、俺の方にできてないだけだ」
その言葉の意味を、当時の私はまだ理解できなかった。
ただ、アレンの横顔に浮かんでいた表情だけは、今でもはっきりと覚えている。
子供ながらに、あれは人間の表情ではないと思った。
それから数日、私はアレンの様子をそれとなく窺うようになった。
いつもと変わらないように見えて、時折、ひどく疲れたような顔をしていることに気づいた。夜、眠れていないのか、目の下に薄っすらと隈ができている日もあった。
「アレン、最近ちゃんと寝てますか」
「……なんでそんなこと聞くんだ」
「顔色、悪いですよ」
「そう見えるか。……まあ、色々考え事があってな」
「私に話す準備、まだできてないんですよね」
「ああ」
「早くしてくださいよ。気になって仕方ないので」
私がそう言うと、アレンは僅かに笑った。
だが、その笑みはどこか痛々しく、無理をしているようにも見えた。
「……もう少しだけ、待っててくれ」
その『もう少し』が訪れたのは、それから半月ほど経った、ある夜のことだった。
◆
その半月の間にも、私たちの日常は変わらず続いていた。
農作業が終われば、ドランクが「川行こうぜ」と誘いに来て、アレンは相変わらず、時々遠くを見るような顔をしていたが、それ以外はいつも通りだった。
「なあ、ミケ。今度の莱旬祭、お前も出し物やれよ」
「私は裏方でいいですよ。目立つのは性に合いません」
「またそういうこと言って、俺なんて強制でやらされて、去年一人で寸劇やって大失敗してたぞ」
「あれは失敗ではなく、観客の理解が追いつかなかっただけです」
「同じことだろ、それ」
笑い合う時間は、確かに存在した。
村への憎しみを抱えながらも、この時間だけは——ドランクの馬鹿さ加減も、アレンの時折見せる遠い目も——すべてが、私にとって唯一心が休まる場所だった。
夕暮れ時、川辺で解散する時になると、アレンだけが少し遅れて帰ることが増えていった。
「アレン、帰らないんですか」
「ん、ああ。もう少ししたら帰る」
「一人で何を考えてるんですか」
「……別に、大したことじゃない」
そう言って笑うアレンの横顔には、やはりあの、何かを堪えるような影が差していた。
私はそれ以上追及しなかった。いずれ話す、と言った以上、待つしかないと分かっていたからだ。
だが、その『いずれ』は、思っていたよりもずっと早く——そして、思っていたよりもずっと重い形で、訪れることになる。
◆
アレンが自分の秘密を打ち明けたのは、それから間もなくのことだった。
夏に向かう手前、まだ肌寒さの残る夜。私たちはトントン山の中腹、後に秘密基地が建つことになる場所からほど近い、開けた斜面にいた。星が異様なほど鮮やかに見える夜だった。
アレンは長い間、口を開かなかった。何度か言いかけては止め、また言いかけては止め——を繰り返した後、ようやく声を絞り出した。
「ミケ、お前……俺のこと、気味悪いと思うか」
「唐突ですね。何を今更」
「いいから、答えてくれ」
「……思いませんよ。あなたはずっと、私を見てくれた数少ない人間の一人ですから」
アレンは小さく息を吐いた。
覚悟を決めたように、拳を握りしめる。
「俺には、未来が視える」
アレンは静かにそう切り出した。
最初は冗談だと思った。だがアレンの目は、これまで見たどの表情よりも真剣だった。
「未来……って、占いか何かですか」
「そういうのじゃない。もっと、明確なものだ。数分先、数時間先——時には、もっと遠く。誰かが次にどんな言葉を言うか、何をするか。それが、視えてしまう」
「……本当に、そんなことが」
「信じられないなら、それでいい。ただ、聞いてくれ」
そしてアレンは、これまで誰にも話したことのないという『視えているもの』について語り始めた。
戦争。
大陸中を巻き込む、途方もない規模の戦争。
国が滅び、村が焼かれ、名も知らぬ何百万という人間が死んでいく光景。それは遠い未来の話ではなく、これから数十年のうちに、確実に訪れる未来だと、アレンは言った。
「その未来は、変えられないんですか」
「変えられる。だが、それには……とてつもない代償が必要になる」
アレンの声が、初めて揺れた。
「俺が視た限り、その未来を避けるためには……この村を、犠牲にしなくちゃいけない。お前たちも、いずれ、みんな」
私は言葉を失った。
アレンが語ったのは、想像を絶する規模の話だった。何百万という命を救うために、目の前にいる村人たちを、友人を、家族を犠牲にする。数字だけで見れば、天秤は圧倒的に未来に傾いている。だが——
「なのに、お前は動かないんですね」
私がそう指摘すると、アレンは僅かに顔を歪めた。
初めて見る、迷いに満ちた表情だった。
「動けないんだよ」
「なんでですか。何百万人を救えるのに」
「今がある。今、ここに、お前らがいる。ドランクも、これから来るセスも……今の温かさを、俺は捨てられない。未来のために今を切り捨てる勇気なんて、俺にはまだない」
「じゃあ、このまま何もしなければ、その戦争とやらは本当に起きるんですか」
「起きる。俺が動かなければ、確実に」
「なのに、動かない。矛盾してますね」
「分かってる。分かってるんだよ、それぐらい」
アレンは頭を抱えるようにして俯いた。
「頭では分かってる。何百万人の命の方が重いって、そんなことは子供でも分かる理屈だ。だけど、いざ目の前にお前らがいると……その理屈だけじゃ、俺は動けない。俺は、そこまで強くない」
誰よりも聡明で、誰よりも責任感が強いはずのアレンが、そこにいた。
だが同時に、誰よりも臆病で、誰よりも優しいアレンもまた、そこにいた。
未来のために動くべきだと頭では分かっていながら、今この瞬間の温もりを手放せない。世界を救う勇者になどなれず、ただの臆病な子供のまま、迷いの中で立ち尽くしている。
それが、アレンの本当の姿だった。
「じゃあ、どうするつもりですか」
「分からない。だから……ミケに、頼みたいことがある」
◆
「お前の魔術……いや、まだ目覚めてないんだったな」
アレンは、確信を持ってそう言った。
「私に魔術の才能があるって、言うんですか」
「ある。俺には視える。お前はいずれ、催眠に関する魔術を扱えるようになる。それも、並外れた精度でな」
当時の私には、魔術の才能などまるでなかった。
村の子供たちの誰もが、魔術というものに縁遠かった時代だ。だからこそ、アレンの言葉は荒唐無稽に聞こえた。だが、未来を視るという彼の言葉を、私はもう疑っていなかった。
「それが、何だと言うんですか」
「その力が目覚めた時——お前に、頼みたいことがある。俺に、催眠魔術をかけてほしい」
「……はい? 今、なんて」
「俺に、催眠をかけてほしいんだ。真剣に言ってる」
「……なんで、そんなこと」
「俺には、勇気がない。今を切り捨てて未来のために動く勇気が、どうしても持てない。だから……その勇気を、お前に作ってほしいんだ」
「意味が分かりません。もう少し、ちゃんと説明してください」
「言った通りだ。俺は自分の意思じゃ、絶対に一線を越えられない。だったら、意思そのものを作り変えてしまえばいい」
「作り変えるって……人の心を、そんな簡単に弄っていいものなんですか」
「よくない。分かってる。だけど、それぐらいしないと——俺は一生、何百万人が死ぬのを、指をくわえて見ているだけの人間になる」
アレンが語った催眠の内容は、単純だった。
将来訪れる戦争のために、すべてを犠牲にする覚悟を、迷いなく持てるように。友情も、道徳も、良心の呵責さえも押し殺し、必要とあらば故郷を、友人を、自分自身の心すら差し出せる人間に、なるように。
それは、もはや呪いに近いものだった。
人としての柔らかさを引き剥がし、ただ未来のためだけに動く駒へと、自分自身を作り変えてほしいという願いだった。
「そんなこと……本気で言ってるんですか」
「本気だ。俺一人じゃ、決して踏み出せない。だから、誰かに背中を押してほしい。それも、決して戻れないぐらい、強く」
「戻れなくなりますよ、それ。今のあなたじゃなくなる」
「構わない。今の俺のままじゃ、何も救えないんだから」
私はしばらく、言葉を返せなかった。
目の前にいるのは、村で唯一、私の傷を見抜いてくれた人間だ。その人間が、自らの弱さを晒しながら、私に——最も残酷な役目を頼んでいる。
「もし、私が断ったら」
「その時は、俺は一生このまま、何もできずに終わるだろうな」
アレンは笑った。
だが、その笑みはいつもの余裕あるものではなく、どこか自嘲めいていた。
「なんで、私に頼むんですか。もっと他に、適任がいるでしょう」
「お前だからだ」
アレンは私の目を、真っ直ぐに見た。
「お前は、この村を恨んでる。誰よりも憎んでる。だからこそ、俺の頼みを——迷いなく引き受けられるはずだ」
図星だった。
村が滅びればいいと願い続けてきた私にとって、アレンの計画は復讐にも似た響きを持っていた。この村を犠牲にする。そのために、私が一枚噛む。誰にも理解されなかった憎悪が、ようやく形になる瞬間だった。
「それに」
アレンは続けた。
「お前がこの村を出た後——きっと、お前の人生を変える人と出会う。俺には、それが視えている」
「……人生を、変える人」
「詳しくは言えない。だが、その人はきっと、お前が今まで誰にも与えられなかったものを、与えてくれるはずだ」
「随分と、都合のいい話に聞こえますけど」
「都合よく聞こえるように言ってる。悪いか」
「……正直ですね、そこは」
私は思わず、小さく笑ってしまった。
その言葉の真偽は、当時の私には確かめようもなかった。だが、その一言だけで十分だった。この地獄のような日々の先に、何か——救いのようなものが待っているのだと、アレンが保証してくれたことが。
◆
私は、しばらく黙って夜空を見上げていた。
星々は変わらず、無責任なほど美しく瞬いている。父の怒声も、母の沈黙も、村人たちの偽善も、すべてがちっぽけに思えるほど、遠く高い場所で。
「……分かりました」
私はそう答えた。
「あなたの計画に、乗ります。この村が消えてなくなるなら——私にとっては、望むところですから」
「すまない」
「謝らないでください。これは、私が選んだことです」
「後悔しないか」
「後悔なんて、今更ですよ。物心ついた時から、ずっとこの村を恨んできたんです。今更、それを覆すようなものなんて、何もありません」
私たちは、拳を軽く合わせた。
子供たちが交わす、他愛のない約束の仕草だった。だがその実態は、幾万という命を賭けた、あまりにも重い契約だった。
「共犯者、ですね」
「ああ。共犯者だ」
アレンは頷いた。
その表情には、安堵と——それ以上の、深い罪悪感が滲んでいた。
「戦争を止めるために、俺はお前たちを利用する。お前は、新しい人生のために、この村を捨てる。誰も、綺麗事だけでは動けない」
「ええ。誰も彼も、身勝手なだけですよ」
私は、笑った。
自分でも驚くほど、晴れやかな笑みだった。
この日から、私はもう一人の共犯者になった。
村の破滅を望む子供と、世界の破滅を止めようとする少年——目的こそ違えど、その手を血で染める覚悟だけは、確かに重なっていた。
いつか、私の中に眠るという力が目覚める日が来るまで。
そして、その力でアレンに誓わせた覚悟を刻みつける、その時が来るまで。
私たちは、それぞれの日常へと戻っていった。何事もなかったかのように。
◆
「——ミケ、大丈夫か」
セルバンテスの声で、我に返る。
崩れた石段に座ったまま、随分と長い間、意識を過去に置き去りにしていたらしい。目の前には、宮殿を見据えるアレンとドランクの背中がある。
「ええ、大丈夫ですよ。少し、昔のことを思い出していただけです」
「昔のこと?」
「ええ——ずっと昔、まだこの旅が始まる前の話です」
ミケは眼鏡の奥で、静かに笑った。
夜明けはもう近い。
城の奥では、魔王と呼ばれる男が勇者を待っている。
そして、あと少しで——アレンの噓が、噓のまま終わる時が来る。
「行きましょうか。あなたの噓に、最後まで付き合ってあげますよ、アレンさん」
誰にも聞こえぬようそう呟くと、ミケは立ち上がって城へと視線を向けた。




