3ページ 名付け(一)
扉が開き、マリナがいつもと変わらない足取りで家へ入ってきた。
腕には買ってきたパンを抱えている。衣服に乱れはなく、歩き方にも目立った違和感はない。それでも、クリスは彼女が顔を上げるより先に、どこか普段とは違うものを感じた。
「おかえりマリナ」
「……ただいまクリス」
返ってきた声は、ほんのわずかに遅れた。
クリスは手元の作業を止め、マリナの顔を見た。彼女はいつものように微笑もうとしているようだったが、視線が一瞬だけ床へ落ちる。
「…?どうした?」
「いえ、今日は帰りに水を汲んでたのよ」
マリナは抱えていたパンを卓上へ置き、何でもないことのように袋の口を整えた。
「……そうか」
クリスはそれ以上、問いを重ねなかった。
マリナの様子がおかしいな…… 何かあったのか?
下手に詰めても追い込む事になるな、やめるか。
僅かな沈黙の間に、パンの香ばしい匂いが部屋へ広がる。マリナの指は袋の端に触れたまま、まだ朝食の支度へ移ろうとしなかった。
クリスは静かに立ち上がり、竈の方へ向かった。
「マリナ今日は俺がスープを作るよ。座ってて」
「ありがとう、クリス。甘えるわ」
マリナは小さく息を吐き、勧められるまま椅子へ腰を下ろした。
張っていたものが少しだけ緩んだのか、背もたれへ身体を預ける。クリスはその様子を横目に見ながら、竈へ薪を足した。
「クリス今日の仕事は何をするの?」
「今日は販路の整理だよ。義父上が副会長として新たに道をつくると言ってるんだ」
鍋へ水を注ぎ、火にかける。底を舐める炎が揺れ、薪の爆ぜる乾いた音が台所に響いた。
「そう、父も相わらずね。流石、王都一の稼ぎ頭と呼ばれるだけあるわ」
マリナは呆れたように笑いながら、卓上のパンへ手を伸ばした。袋の口を開けば、まだ温もりを残した香りがふわりと広がる。
「そうだね。流通の王、鉄槌のガルド……そう呼ばれるだけある」
クリスは食材を取り出し、手際よく切り分けていく。
商売では誰よりも先を読み、邪魔をする者には容赦がない。義父に付けられた二つ名を思えば、大げさとも言い切れなかった。
「今日は山菜採りを辞めて母の所に行くわ。ちょっと確認したい事ができたの」
包丁を動かしていたクリスの手が、ほんの一瞬だけ止まる。
振り返ると、マリナはパンを見つめたまま、指先で袋の縁をなぞっていた。
「わかった途中まで行こう。義母上の所……久しぶりに稽古するの?」
「ええ。何だか、ちょっと身体が訛ってるなって思ったんだ」
マリナはそう言って、自分の手首を軽く回した。
「……無理だけはするなよ」
クリスが念を押すと、マリナは素直に頷いた。
それ以上は何も言わず、椅子から立ち上がる。そのまま寝室へ向かっていく背中を、クリスは鍋を混ぜながら見送った。
やがて、奥の部屋から張りのある声が響いてくる。
「アイリーン!メイリーン!起きなさい!」
「今日はおばあちゃんの所に行くわよ!」
……いつもの調子に戻ったな
しばらく様子を見るしかないか
にしても身体が訛ってる…… ね、俺も久しぶりに身体を動かしてもいいな
鍋の中で、切った野菜が湯気に揺れる。
七十年前の事を思うと、警戒して損は無い
クリスが火加減を整えていると、寝室の方から軽い足音が近づいてきた。
メイリーンが、寝起きとは思えないほど嬉しそうな顔で駆けてくる。
「お父さん!今日はおばあちゃんの家に行くんだって!」
「良かったな、たくさん走って遊んでおいで」
「うん!いっぱい遊んだら果実水を飲めるんだよ!楽しみ!」
メイリーンは両手を胸の前で弾ませ、待ちきれない様子で笑った。
少し遅れて、アイリーンも姿を見せる。髪にはまだ眠りの名残が残っていたが、その表情はどこか誇らしげだった。
「……お父さん、私は今年から組手をしてもいいって言われたの」
「そうかアイリーンも頑張ってるな、終わった後にたくさんご褒美をもらいなさい」
アイリーンはコクリと頷いた。
朝食の支度が整うと、四人で食卓を囲んだ。
温かなスープを飲み終えた頃には、窓から差し込む光もすっかり強くなっている。
マリナとクリスは子どもたちを連れ、家を出た。
通りを進むうち、朝の王都は少しずつ賑わいを増していた。
店先には荷が並び始め、荷車の軋む音や商人たちの呼び声が、石畳の上を行き交っている。
マリナは道の端へ目を向け、足をわずかに緩めた。
「……あそこ孤児が増えたわね。」
建物の影には、何人かの子どもたちが身を寄せ合っていた。痩せた腕を抱え込み、通りを行く大人たちを黙って見つめている。
「……そうだな」
クリスも視線を向けたが、すぐには言葉を続けなかった。
マリナは隣を歩くクリスの顔を見上げ、小さく呟く。
「エスター伯爵からは?」
「何も無いよ」
「そう、あの人も立場は複雑だものね」
「そうだね。今は動けないな」
二人の間を、子どもたちの軽い足音が通り過ぎる。
「ロウズレインも?」
「ああ、あそこには俺は行っちゃ駄目だ。仕事でも俺は行かないよ」
クリスの声には、迷いがなかった。
「その方がいいわね」
マリナも深く追及せず、前へ向き直る。
しばらく歩くと、通りの先に大きな商会の建物が見えてきた。
広い敷地には何台もの荷馬車が並び、御者や使用人たちが忙しなく行き交っている。積み荷を確認する声、馬の嘶き、木箱を運ぶ音が、朝の空気を震わせていた。
そこは、流通の王と呼ばれるガルドが副会長を務める、荷馬車専門のベルトン商会だった。
「じゃあ、マリナ…… 行ってくるよ。」
クリスが足を止めると、マリナも子どもたちとともに立ち止まった。
「いってらっしゃい、クリス。」
マリナは穏やかに送り出し、そのままアイリーンとメイリーンを連れて、ベルトン商会の裏手へ回っていく。そこには商会の大きな建物とは対照的な、小さな屋敷が建っていた。
三人が屋敷へ入っていくのを見届け、クリスは商会の正面へ向かう。
敷地内では、すでに何台もの荷馬車が出入りしていた。木箱を運ぶ者たちの掛け声と、馬具の金具が鳴る音が絶え間なく続いている。
「お疲れさまです。クリストフさん」
声をかけてきたのは、荷の確認をしていたベンだった。
「ああ、ベンもお疲れさま」
クリスは軽く手を上げて応じる。
「義父上……副会長は?」
一瞬言い直したクリスに、ベンは気にした様子もなく頷いた。
「はい、副会長室にいますよ」
「ありがとう」
クリスは商会の中へ入り、そのまま奥にある副会長室へ向かった。
廊下には書類を抱えた職員たちが忙しなく行き交い、扉の向こうからは商談の声が漏れている。副会長室の前まで来ると、クリスは短く扉を叩いて中へ入った。
「副会長おはようございます」
机の上に広げた帳簿へ目を落としていたガルドが、顔を上げる。
「クリスか今日は遅かったな」
「すいません、少し準備に手間取ってしまって」
ガルドはクリスの顔をしばらく見た後、手元の帳簿へ視線を戻した。
「そうか、まあいい」
ガルドは帳簿の頁を指先で押さえたまま、机の脇に積まれた書類へ目を移した。
「クリス今日は西部…… グランツの方を頼む」
地名を聞いた瞬間、クリスの眉がわずかに寄る。
「……ロウズレインは?」
「あそこにはお前は近づくな」
返答は早かった。ガルドは顔を上げ、念を押すようにクリスを見据える。
「ただでさえあそこは俺も近づけん。ロウズレインはお前の父親に任せるさ」
「父上……はい、それがいいですね」
父上がロウズレインに……
危険だが、他に無いな俺は国外に婿入りしたことになっているが……
あそこは今はどうなっているんだ?
クリスは机上に広げられた地図へ視線を落とした。
王都ルクシアから西へ伸びる道。その先にあるグランツ一帯には、荷馬車の経路を示す細い線が幾重にも引かれている。
……グランツ
あそこは今、物価が高い
不満を王家に向けているから、ここルクシアへの印象も悪いからな……
俺も王都の奴と厄介な扱いを受けそうだ。
西部へ続く線を目で辿りながら、今度は地図の北側へ意識を向ける。
北のロウズレインは水を止めようとしている。
氷と雪で水が豊富だが水源を握ってるのはあそこだ。
今は水の値が高いな……
水は食料以上に流れを止められない。
積み荷の不足だけなら金で補えることもある。だが、水が途絶えれば、街も人も長くは保たない。
水を運ぶ荷馬車は特に注意した方が良さそうだ。
何かの妨害工作が来るなら、おそらくここだ
クリスは副会長室を出ると、荷馬車の出入りが絶えない敷地へ戻った。
荷札を確かめていたベンを見つけ、声をかける。
「ベン。馬番長に伝えろ。ロウズレイン方面は特に気をつけろと」
ベンは手にしていた帳面から顔を上げ、すぐに頷いた。
「はい。クリストフさんはこれからグランツ公爵領へ?」
「ああ、今日はそっちだ。無茶な値下げを言われていてな。なだめに行くんだよ」
クリスが僅かに肩を落とすと、ベンは事情を察したように乾いた笑いを漏らした。
「ははっ…… あそこですか。いつもお疲れさまですね。」
「……まだこれからだ。お疲れさまは早い」
低く返された言葉に、ベンが目を見開く。
「そうでした!ルクシアとロウズレインはこっちに任せてください。」
「頼んだ」
短く言い残し、クリスは待機していた商会の馬車へ向かった。
御者が扉を開け、クリスが車内へ乗り込む。合図とともに馬が歩き始め、車輪が石畳の上で重い音を立てた。
商人や荷車で混み合う通りを抜け、馬車は王都ルクシアの門をくぐる。
高い城壁がゆっくりと背後へ遠ざかり、グランツ公爵領へ続く街道が、クリスの前に伸びていた。
***
その頃、ルクシア城。
執務室の扉が開き、書類を抱えたレイが足早に入ってきた。
「陛下、ご報告です」
机に向かっていたアランは、顔を上げない。
「……」
レイはその沈黙を了承と受け取り、手元の書類を開いた。
「三大公爵家が睨み合っています」
アランの指先が、紙の上で止まる。
「……水か」
「はい。水源が乏しい最南端のヴァローナと水源で利益を得ているロウズレインが険悪になっております」
机上には、王国全土を示した地図が広げられていた。
南端のヴァローナ。北のロウズレイン。その間を結ぶ街道には、物資の流れを示す線が幾重にも引かれている。
「……グランツは?」
「最西端のグランツは北と南に挟まれ、身動きが取れません。北が水の値を上げているので、全体的に物価が高騰して来ました。」
レイの指が、地図の西側をなぞる。
水の値上がりは、運搬費や食料の価格にまで波及している。どこか一つが崩れれば、残りも無傷では済まない。
「ロウズレインの機嫌を損ねるのは不味いな」
「非常に不味いです」
レイの返答には、わずかな間もなかった。
煩わしい……
ロウズレイン……
暫定公爵の分際で、ここまで食い込むか
アランは椅子の背へ身体を預け、地図の北端を冷えた目で見つめた。
アランは地図の北端へ向けていた視線を上げた。
「最近やけに調子に乗ってると思ったら、水をカードにしていく気らしいな」
卓上に広げられた街道図には、北から南へ伸びる水路と運搬経路が細く描き込まれている。その線のいくつかは、ロウズレインを通らなければ成り立たない。
ロウズレイン公爵ヴェルディウスはどうだ?
いや、あいつは駄目だな。オルヴィンより厄介な動きをみせる。
七十年前の件ではオルヴィンよりは話せるが……
ましってだけだ。
アランは指先で机を一度叩いた。
「……で?ロウズレインは何を望んでいる?」
「はっ!七十年の件で、主を返せと」
レイは抱えていた書類から一枚を抜き出し、机上へ置いた。
「リシュエル嬢は和解の意味合いがある可能性が」
……和解だと?和解のためにリシュエルが?俺はリシュエルを望んだことなど一度たりとも無い。
アランの眉間に、深い皺が刻まれる。
それとも、俺が隠していると本気で思っているのか?
ちっ!先々代も余計な事をしてくれる
「あの狂信者どもめ」
吐き捨てるような声が、執務室の静けさを裂いた。
「陛下、お気持ちは分かりますが……」
レイは言葉を濁しながら、書類を持つ指へ力を込めた。
(もう!!今になって何でこんな事を!!こっちだってわからないわ!何で私らが知ってる事になってるんだよ!七十年前から資料が一切途絶えたんだぞ!?)
レイは手元の書類を持ち直し、慎重に口を開いた。
「陛下…… また、その、夜会が…」
――ミシッ
言葉を遮るように、アランの椅子から大きな音が響いた。
レイの視線が、音のした場所へ落ちる。
肘掛けを掴むアランの手が、わずかに震えていた。指の下では硬い木が僅かに割れ、細い亀裂が走っている。
あいつら……
何が何でもリシュエルを側妃に付けるか……
あの女は見張りか?
アランの指に、さらに力が籠もる。
その時、執務室の扉が慌ただしく開いた。
侍従が息を切らせながら中へ入り、深く頭を下げる。
「失礼致します!!ザルモンド男爵がお呼びです」
……ザルモンド?誰だそれは?
アランが訝しげに眉を寄せる横で、レイがすぐさま侍従へ向き直った。
「そんな話は始めて聞きました。詳細をお聞かせください」
侍従は一瞬、言葉に詰まったように口を開いた。
「はぁ……」
曖昧な返事に、レイの眉が寄る。
侍従は慌てて姿勢を正し、続けた。
「なんでも先週陛下が民の女を気にかけて衛兵を送ったと話題でして……」
「ザルモンド男爵が女を連れて礼を言いたいと……」
「民の女…?衛兵…?」
レイの頭の中で、夜道の光景が一気に蘇る。
(…あ!………ああぁぁ!!あの時の!?酔っ払いの時の女ぁぁ!?ええええ!!今!?このタイミングで!?わざとか!?わざとなのか!?)
アランは深く息を吐き、椅子から立ち上がった。
肘掛けから手を離すと、罅の入った木がわずかに軋む。
「……どこにいる」
「はっ!控えの間でお待ちです」
アランはそれ以上問い返さず、執務室を出た。
足取りに迷いはない。
レイと侍従を残し、そのまま控えの間へ向かっていった。
――一時間前。
マリナは屋敷の一室で、子どもたちの支度を見守っていたリタへ声をかけた。
「お母さん、なぜか城に行かなければいけないの。衛兵が絡んでいるから事情聴取をするんだって…」
言いながらも、マリナの眉間には薄く皺が寄っている。
「すぐに戻れるとは思うけど、子どもたちをお願いできるかしら?」
リタは子どもたちから顔を上げ、訝しげに首を傾げた。
「変ね、衛兵が絡んでるなら詰所でしょう?なぜわざわざ王城なのかしら?」
「私も同じ事を思っていたのだけど、王城の衛兵長直々だから断れないのよ」
マリナは困ったように息を吐き、アイリーンとメイリーンへ一度だけ目を向けた。
それから外套を羽織り、屋敷を出る。
王城へ続く道は、昼を迎えて人通りが増していた。荷車の音や商人たちの声を聞きながら歩いても、胸の奥に残る違和感は消えない。
やがて巨大な城門へ辿り着くと、マリナは門前に立つ衛兵へ声をかけた。
「ごめんください。衛兵長様からのお呼びで参りました。マリナと申します。」
「はい。ここで少々お待ちください」
衛兵は短く答え、城内へ使いを走らせた。
「………」
マリナは門の脇で待ちながら、見上げるほど高い城壁へ視線を巡らせる。
事情聴取にしては、あまりにも仰々しい。
ほどなくして、重厚な衣装に身を包んだ男が城内から現れた。
男はマリナを頭から足先まで値踏みするように眺め、ゆっくりと口元を緩める。
「ほう、お前がマリナか」
マリナはその視線を正面から受け止めた。
「……どちらさまで?」
「無礼な。私はザルモンド男爵だ」
男は顎を持ち上げ、名乗るだけで十分だと言わんばかりに胸を張った。
マリナはその態度を眺めた後、表情を変えずに尋ねる。
「……衛兵長様はどちらでしょうか」
「衛兵長は私の甥だ。仕事が忙しくてな、今日は代わりだ」
その言葉を聞いた瞬間、マリナの目がスッと細められた。
「ほう…?」
声は静かだったが、先ほどまでとは明らかに空気が違う。
「衛兵長の叔父ですって?一体どんな権限があり、事情聴取をするのです?答えよ」
「なっ!無礼な」
ザルモンドが顔を赤くする。
マリナは相手の怒声など意に介さず、周囲をキョロキョロと見回した。城門の前には衛兵だけでなく、出入りする侍従や使用人の姿もある。すでに何人かが、こちらのやり取りへ視線を向けていた。
「ふむ、ここでは目立つわね?これ、そこのあなた。ほどよい場所に通しなさい。」
マリナは姿勢をまっすぐに整え、近くに立っていた衛兵へ言い放った。
命令を受けた衛兵は反射的に背筋を伸ばす。
「こ、こちらへ…… 衛兵長の控えの間がございます。」
「ふむ、良いでしょう。」
マリナは当然のように頷き、衛兵の後へ堂々とついていく。
置いていかれかけたザルモンドは慌てて足を速め、二人の間へ割り込もうと小走りになった。
――衛兵長控えの間。
扉が閉まるなり、ザルモンドは肩を上下させた。小走りで追いついたせいか、呼吸がわずかに乱れている。
「貴様!先ほどから無礼だぞ!私は男爵だ!礼を取らんか!ただの民め!」
怒声が室内に響き渡る。
マリナは足を止め、ゆっくりと振り返った。
「……なんですって?」
「民が貴族に礼を取るなど一般常識だろうが!今すぐ跪け!」
ザルモンドは顔を赤くし、床を指さす。
「護衛!女を跪かせろ!」
命令を受け、ザルモンド付きの護衛が二人、左右からマリナへ近づいた。
一人が腕を掴もうと手を伸ばす。
その瞬間、マリナの身体が沈んだ。
踏み込むと同時に、揃えた指先を相手の急所へ鋭く差し込む。護衛は声も上げられず身体を折り、そのまま床へ崩れ落ちた。
もう一人が息を呑み、慌てて手を伸ばす。
マリナは振り向きざまに足を払うように蹴りを入れた。
踵が膝裏を正確に打ち抜く。
護衛の脚から力が抜け、身体が傾いた。受け身を取る間もなく床へ転がり、鈍い音が室内に響いた。
――ガチャ
扉が開き、アランが控えの間へ足を踏み入れた。
その後ろにはレイが続いている。
室内に転がる二人の護衛。顔を赤くしたザルモンド。そして、その中央に立つ女。
マリナは入ってきたアランに目もくれず、足元で倒れている護衛の頭を靴底で踏みつけた。
「あら?思わず足が滑ってしまったわ」
「………」
アランの足が止まる。
………は?
何が起きている?
視線を下げれば、男の頭に置かれた女の足。さらに床には、身体を折って動かないもう一人の護衛がいる。
レイも扉の前で立ち尽くした。
(んんん?ん?んんんんん?なんだ?女?足?頭?え?頭と足の位置が何やら間違えていませんか?あれ?入る場所間違えた?)
レイは理解できるものを探すように、辺りをキョロキョロと見回した。
ようやく人の気配に気づいたマリナが、護衛を踏んだまま顔だけを向ける。
「……あら?どちら様?」
「なっっ!!こちらの方は……」
ザルモンドは言葉を詰まらせ、アランの姿を認めた途端、弾かれたように背筋を伸ばした。
「へっ!陛下、どうかこの無礼な民を罰してください!!」
マリナの黒い瞳が、初めてアランを正面から捉える。
「………陛下?へえ?あなたもこんな所までご苦労な事だわ」
その口調には、畏れも動揺もなかった。
「心にも無いけど、念の為礼は取りましょう」
マリナは護衛の頭を踏みつけたまま、背筋をすっと伸ばした。
身につけているのは、民が普段着る粗末な服にすぎない。それでも、片足に体重を残した不安定な姿勢など微塵も感じさせず、指先から首筋の角度に至るまで、洗練された貴族式の礼を優雅に取る。
足元の護衛が、低く呻いた。
アランは、優雅な礼を取ったままの女を見つめた。
粗末な服。男の頭を踏みつけた足。そして、場違いなほど洗練された所作。
どれ一つとして噛み合わない。
「……お前は、何者だ」
マリナはゆっくりと顔を上げた。
「見たらわかるでしょう?ただの民よ」
足元から低い呻き声が漏れても、靴を下ろす気配はない。
「とは言っても、こうしてここにいるんだからそのうち調べられるわね?」
そう言って、マリナは首を傾げた。
まるで、自分が置かれている状況を他人事のように眺めている。
(………陛下?なぜそんなに顔が生き生きしてるんだ?嫌だ……まさか…?このご令嬢を気に入ってる…?)
レイは、隣に立つアランの横顔を盗み見た。
夜会では死んだように冷えていた瞳が、今は目の前の女を一瞬も逃すまいと見つめている。
(こんなじゃじゃ馬、嫌だぁぁぁ!!)




