2ページ 朝(ニ)
――コンコン
閉ざされた扉の向こうから、遠慮がちなノックが聞こえた。
「陛下、そろそろお時間です。今日は早めにお支度をした方がよろしいかと」
扉越しに届いたレイの声に、アランは重い瞼を持ち上げた。
薄暗かったはずの仮眠室には、すでに高い位置から日が差し込んでいる。窓辺から伸びた光が寝台の端を白く照らし、投げ出された腕にも熱を落としていた。
……日が高い。どれ程、眠っていたんだ。
支度?ああ、夜会か……
まだ昼だというのに、もう夜の心配をせねばならんとはな。
胸元に落ちていたネックレスを無造作に衣服の内側へ戻し、アランは軋む身体を起こした。
「ああ、今出る」
寝台から降り、床に転がる装飾品へ一瞥もくれずに扉へ向かう。
仮眠室から出てきたアランを、待機していたレイと侍女たちが一斉に迎えた。眠ったはずの顔には疲労が濃く残り、乱れた髪が額へかかっている。
「身なりを整えろ」
短い命令に、侍女たちはすぐさま動き出した。
湯を満たした器が運び込まれ、卓上には櫛や香油が並べられる。衣装棚からは夜会用の正装が取り出され、皺ひとつない上着が丁寧に広げられた。
……どうせ着替えても酒と香水の臭いが染み込む。
侍女たちが正装の襟元を整えている最中、レイが一歩前へ出た。
「陛下、ご報告がございます」
アランは鏡越しに視線だけを向ける。
「なんだ」
レイはわずかに間を置いた。言わずに済むものなら、そのまま喉の奥へ押し戻したかった。
「……姿絵を贈られた伯爵が、娘は如何だったかと……」
「………」
鏡の中で、アランの瞳がゆっくりと細められる。
その冷え切った視線がまっすぐ自分へ向けられ、レイの背筋が固まった。
(や、やめてぇぇぇ!!私が悪いのか!?睨まないで!無言にならないで!わかる!わかるよ!二週間寝かさない!常に女を娶れの圧にうんざりしてるのはわかる!でも、宰相を睨むのは八つ当たりだろ!あれ?胃が痛むぞ?)
姿絵…… 今朝送りつけて、昼にはこれか
アランは侍女が差し出した上着へ腕を通し、前を整えさせる。磨かれた鏡の中には、疲労も苛立ちも覆い隠された国王の姿が映っていた。
「政務を片付けて出るぞ」
「はっ」
レイは即座に頭を下げた。
それ以上の言葉を交わすことなく、二人は執務へ戻る。
そして、時が流れ、夜会の時間。
夜会の広間には、幾重にも重なる弦楽器の音と、人々の笑い声が満ちていた。
煌びやかな衣装に身を包んだ貴族たちの間を縫うように、ロウズレイン前公爵のオルヴィンがアランへ近づいてくる。
その姿に気づいた周囲の者たちが、さりげなく道を空けた。
「陛下、今宵もお越し下さりありがたく」
オルヴィンは穏やかな笑みを浮かべ、深く頭を下げる。
「……ああ、今夜も世話になる」
ありがたくだと…?毎日招待状を送りつけてよく言うな
アランは杯を持ったまま、表情を崩さずに応じた。
「今宵はとびきりの美女を用意しております。陛下もお気に召すかと」
「……」
返事の代わりに、アランの瞳がわずかに冷える。
オルヴィンはその沈黙すら意に介さぬ様子で、口元の笑みを深めた。
「そう緊張されますな。ロウズレインと縁のあるご令嬢です」
緊張などしていない。
そう言い返すことすら面倒で、アランは黙ったままオルヴィンを見た。
オルヴィンが広間の奥へ向けて片手を上げる。
「リシュエルをここに連れて来なさい」
呼ばれた令嬢が、広間の奥から静かに歩み出た。
淡い色のドレスが床を滑り、宝石の散った髪飾りが燭台の光を受けて揺れる。リシュエルはアランの前まで進むと、淀みのない動作で礼を取った。
「ごきげんよう」
視線を伏せた横顔には、社交の場で教え込まれた微笑が浮かんでいる。
オルヴィンは満足そうに頷き、彼女へ声をかけた。
「リシュエル…… 陛下を癒しなさい。令嬢としての務めだ。わかるな?」
「はい。陛下に仕えるのはわたくしの喜びでございます」
リシュエルは顔を上げ、柔らかな声で答えた。
務め……
喜びだと?ただの義務をよく綺麗に言えたものだ。
アランは彼女の笑みを冷めた目で見下ろした。
「勘違いするな。臣下からの癒やしなどいらぬ。下がれ」
リシュエルの頬が一瞬だけ強張った。
微笑の形がわずかに崩れたものの、すぐに目を伏せ、再び礼を取る。
「かしこまりました」
そのまま退こうとした彼女を、オルヴィンの穏やかな声が引き止めた。
「おや気に入りませんでしたか。しかし陛下、食わず嫌いをされてては、良いものを良いと判断できますまい。どうぞ少しずつリシュエルを知ってくださればこの老骨は嬉しくて涙が出てしまいます」
オルヴィンは胸に手を当て、いかにも感極まったように目尻へ皺を作った。
何?知れだと?お前が用意した娘を強制するのか……
馬鹿にしてるのか?
アランの指が、杯の脚を強く挟む。
周囲では、誰もこちらを見ていないふりをしていた。だが、いくつもの視線が音もなく集まり、返答を待っている。
アランは杯から手を離した。
「……一度だけだ」
「おお!ありがとう存じます」
オルヴィンの顔がたちまち明るくなり、深々と頭を下げる。
……その一度で終わりだ。
だが、その後も諦める気は無いだろう。どうする……
リシュエルが、ドレスの裾を静かに揺らしながら距離を詰めた。
「陛下?よろしければ、ご一緒に散歩はいかがでしょう?」
甘く整えられた声に、アランはわずかに目を細める。
二人きりになるつもりか
既成事実を作るつもりだな?そう上手くいくと思うな
「あいにく政務の疲労が激しくてな。別の機会にしよう」
拒絶と悟らせぬ程度に声音を抑え、淡々と告げる。
「まあ、お疲れですのね。では次の機会にぜひ」
リシュエルは頬へ手を添え、残念そうに眉を下げた。
「……政務が落ち着いていればな」
次だと?お前に次などあるものか
アランは彼女から視線を外し、少し離れた場所に立つオルヴィンへ顔を向けた。
「オルヴィン……控えの間を使う。誰も近づけるな」
有無を言わせぬ声だった。
続けて、背後に控えるレイへ命じる。
「レイ、外で見張れ」
「はっ!」
レイは即座に頭を下げた。
(くっっっ!宰相を便利に使い過ぎじゃあ、ございませんか?陛下、あなたも休めてないということは、私も休みがゼロなんですよ!)
表情だけは崩さず、レイは扉へ向かう。
(ロウズレイン!許すまじ!こっちだってずっと夜会でピリピリしてて、陛下にこき使われて不機嫌をかぶってるんだ!その間も政務!政務!ずっと政務!誰か!休みをくれ!!)
広間の音楽と笑い声を背に、アランは足早にその場を離れた。
――控えの間
……少しでも時間を稼ぐ
誰が夜会など、真面目に出るものか
閉じた扉の向こうから、遠く音楽が聞こえてくる。弦を擦る音も、華やかな笑い声も、厚い壁を隔てればひどく薄っぺらく感じられた。
リシュエル……
今回は逃がさん気だな
どうするか…… リシュエルが側妃だと?冗談じゃない、悪夢だ。
何が嬉しくて押し付けられた女を妻にするんだ。
馬鹿馬鹿しい。
アランはソファへ深く腰を下ろすと、胸の前で腕を組み、そのまま目を瞑った。
柔らかな背もたれに身体を預けても、肩に残った重さは消えない。瞼の裏にまで、オルヴィンの笑みとリシュエルの整えられた微笑がちらついた。
――コンコン
静かな控えの間に、扉を叩く音が響く。
「陛下、一刻経ちます。そろそろ戻られたほうがよろしいかと」
……もう終わりか
またあそこへ行くのか
アランは目を開けた。
休めたというには短く、戻るには十分すぎるほど気が重い。息を吐き、ソファから立ち上がる。
「……扉を空けろ」
――ガチャ
扉が開いた途端、押し込められていた音楽と人々の声が一気に流れ込んできた。
アランは待っていたレイの横を通り過ぎ、再び夜会の席へ戻る。
視線が集まる。
令嬢たちは微笑み、貴族たちは杯を掲げ、先ほどまでと何ひとつ変わらない顔で国王を迎えた。
そして、そのまま、時間が流れる。
途切れることのない挨拶。差し出される酒。遠回しに繰り返される縁談。
やがてアランは、広間を見渡すこともなく片手を上げた。
「今宵はここまでだ」
楽団の演奏が止まり、貴族たちが一斉に頭を下げる。
アランは返礼も最小限に、その場を退出した。
――コツコツ
夜会の喧騒が遠ざかる廊下に、硬い靴音だけが響く。
――ギィ、パタン
重い扉が閉じると、ようやく背後の音が遮断された。
城館の外には馬車が待っている。アランは差し出された踏み台を上り、暗い車内へ乗り込んだ。
続いてレイが向かいへ座ると、馬車がゆっくりと動き出す。
窓の外では、夜の街灯が一つずつ後方へ流れていった。
「レイこれは、いつまで続く?」
「恐れながら…… しばらくは止まらぬかと」
「………」
沈黙が馬車の中へ落ちる。
アランの瞳は窓の外へ向けられたまま、わずかにも動かない。
(当たり前だろ!陛下の妃探しなんだから!!妃を選ぶまで終わらないわ!)
レイは膝の上で両手を重ね、込み上げる言葉を必死に飲み込んだ。
(頼む、このままでは、こちらも過労死する!!問題の無い適当な家の令嬢を側妃にしてくれ!!)
馬車が夜の王都を進む。
車輪が石畳を踏むたび、低い振動が座席の下から伝わった。窓の外には、店じまいを終えた通りと、ところどころに残る灯りが流れていく。
アランは暗い街並みを眺めていたが、ふと窓の向こうへ目を凝らした。
「……ん?なんだあれは?」
道端に、見覚えのある女がいた。
腕にはパンを抱えている。その女は地面に座り込んだ酔っ払いへ近づくと、水の入ったコップをそっと側へ置いた。
何か言葉をかけるでもなく、そのまま離れようとする。
次の瞬間、酔っ払いの手が伸びた。
女の足首を掴む。
「……っ」
アランの身体がわずかに前へ傾いた。
……女を掴んだ?どうする?止まるか?いや、これは王の務めではない。
声を上げるより先に、女が大きく足を振った。
掴んでいた手が弾かれ、酔っ払いの腕が地面へ落ちる。
「おまえ…… ふざけやがってぇぇぇ!」
酔っ払いは顔を歪め、ふらつきながら立ち上がった。怒鳴り声を上げ、そのまま女へ掴みかかる。
女は逃げなかった。
伸びてきた男の手首を片手で掴む。その力へ逆らうのではなく、身体をずらしながら腕の軌道を横へ流した。
勢いのまま進行方向を変えられた男の足がもつれる。
酔っ払いは地面へ転がり、鈍い音を立てた。
「あなた、いい加減になさい!!」
人気の少ない夜道に、女の声が鋭く響いた。
「……っ」
アランの顔が上がる。
窓枠の向こうにいる女へ、視線が釘付けになった。
疲労に沈んでいた瞳がわずかに開き、無機質だった横顔に生気が戻る。口元こそ動かなかったが、その表情には隠しきれない興味が浮かんでいた。
……なんだ、この女は?
向かいに座るレイは、主の変化と窓の外を交互に見た。
(ぎゃあぁぁぁ!!何この一瞬の出来事!え?私は何を見せられている?あの女はなんだ?は?酔っ払いを撃退した?陛下の前で?やめろやめろやめろ!陛下!目を輝かせるな!)
女は地面に転がった男を振り返ることもなく、背を向けた。
腕に抱えたパンを落とさぬよう持ち直し、何事もなかったかのように真っすぐ歩いていく。怯えて足を速めるでもなく、誰かに助けを求めるでもない。その背筋は堂々と伸びていた。
後ろでは、酔っ払いがぶつけた肘を押さえ、呻きながら地面にうずくまっている。
馬車が通り過ぎても、アランの視線は遠ざかる女の背中を追い続けた。
「……衛兵を呼べ」
「……はっ」
レイは短く答え、御者へ合図を送る。
(事情聴取か……そんな事より、もっと厄介な事になったな。誰でもいいとは思ったけど、まさか、ただの民の娘だと?)
夜道に残された酔っ払いなら、衛兵へ引き渡せば済む。
だが、問題はそこではない。
先ほどまで疲労と苛立ちしか映していなかったアランの瞳が、今はまだ見えなくなった女を探している。
(どうする?調べるか?……いや、下手に動いたら目立つ。動けん。どうか、これっきりの出会いでありますように)
――あの女…
毎朝見かけるパンの女か……
アランは背もたれへ戻ることも忘れ、窓の外へ顔を向けたまま考える。
何者だ?なぜ、こんなにも気になるんだ?あの女の顔はどんな顔だった?
女の姿を、記憶の中から拾い集める。
長い黒髪、黒い瞳、他には何がある?
朝の光の中を小走りに去る背中。パンを抱えた腕。酔っ払いを前にしても退かなかった足取り。
――側妃
リシュエルよりあの女の方がずっとましだな




