1ページ 朝(一)
王都へ戻る馬車は、まだ人影のまばらな通りを静かに進んでいた。
車輪が石畳の継ぎ目を踏むたび、一定の振動が座席の下から伝わってくる。窓の外には、夜の名残を薄くまとった街並みが続いている。閉ざされた店の扉。朝支度を始める商人。軒先から漂う、焼きたてのパンの匂い。
やがて建物の隙間から差し込んだ朝日が、馬車の窓を白く染めた。
アランは眩しさに目を細めながらも、顔を背けなかった。
同じ道だった。
そして、同じ場所だった。
朝の光の中を、一人の女が歩いている。
華やかな衣装を身につけているわけでもない。護衛も侍女も連れていない。王都にいくらでもいる、名も知らぬ民の一人にすぎない。
それなのに、女の姿が窓枠の中へ入った途端、アランの視線は引き寄せられた。
「……またあの女か」
低くこぼれた声は、車輪の音に紛れかけた。
馬車が進むにつれ、女の姿はゆっくりと後方へ流れていく。アランは身体を動かさないまま、視線だけでその姿を追った。
なぜだ?なぜ、俺は目が離せない?ただの民だ。ただの女だ。
なのに… なぜ?
理由を探そうとするほど、胸の奥に残る引っかかりが濃くなる。
向かいに座るレイは、窓の外へ釘づけになった主の横顔を見つめた。朝日を受けた瞳は、執務中には決して見せないほど無防備に、一人の女だけを追っている。
(陛下ぁぁ… またですか?ここ連日、ボーッとしてると思ったら、女に目を奪われているだなんて…)
レイの背筋を、冷たいものが走った。
偶然ならばいい。
一度きりなら、見なかったことにもできた。
だが、今日だけではない。
アランはここ数日、同じ場所を通るたびに窓の外を見ていた。その原因が疲労でも考え事でもなく、名も知らぬ女だったとすれば、話はまるで違ってくる。
(不味い、非常に不味い、この事を前公爵が知ったら事故る。政治的に事故る)
馬車の中に漂う穏やかな朝の空気とは裏腹に、レイの頭の中では、貴族たちの思惑が次々と衝突していた。
表情だけは崩さず、声にも動揺を乗せない。
「陛下、お疲れでしょう。少々休まれては」
レイ…… 今、明らかに俺の目を逸らそうとしたな?まあいいだろう。レイにバレてるならどこから漏れてもおかしくない。ならば、貴族どもに嗅ぎつけられる前に対策を考えねばならんな
アランは返事をせず、再び窓の外へ視線を戻した。
朝の王都は、まだ眠りから覚めきっていない。石畳を行き交う者も少なく、馬車の車輪が刻む音ばかりが、静かな通りに長く響いていた。
何を見るでもなく街並みを眺めていると、建物の間から一人の女の背中が現れた。
両腕に抱えているのは、紙に包まれたパンだった。
女は馬車の気配に気づいたのか、抱えた包みを落とさぬよう胸元へ引き寄せる。そのまま靴音を小さく弾ませ、パタパタと通りの先へ走り去っていった。
朝日が、その背中を一瞬だけ明るく縁取る。
豪奢な装いも、目を引く供回りもない。ただパンを抱え、早朝の道を急いでいるだけの女。
それでも、人気のない王都の景色の中で、その姿だけが酷く鮮明に残った。
馬車が通り過ぎても、アランの目は女が消えた先を追っていた。
朝の冷気をまとったまま、玄関の扉が開いた。
紙袋いっぱいのパンを両腕に抱え、マリナが足早に家へ入ってくる。頬は外気でわずかに赤く染まり、袋の隙間からは焼きたての香ばしい匂いが漂っていた。
「ただいま〜」
静まり返っていた家の中に、弾んだ声が広がる。
「今日も焼きたてのパンが買えたわよ!やっぱりあのパン屋は安いわね」
クリスは口元に指を当てかけたものの、楽しげな顔を見れば強く咎める気にもなれなかった。
「おかえり、マリナ」
マリナは抱えていたパンを食卓へ置くと、すぐに寝室の方へ視線を向けた。
「子どもたちは?」
「まだ寝てるよ。さすがに早すぎるからね」
窓の外は明るくなり始めたばかりだ。家の奥からは物音ひとつ聞こえず、子どもたちの眠りはまだ深いらしい。
マリナは納得したように頷くと、袖を軽くまくり、朝食の準備へ取りかかった。紙袋を開く音に続いて、食器が触れ合う小さな音が台所へ響く。
まったく…… 子どもたちが寝ているのに、ずいぶんと元気だな?
クリスはその背中を眺めながら立ち上がった。
「何か手伝う事はある?」
「うーん…… そうね?スープの火の番をしてほしいな」
マリナは鍋の蓋を少しずらし、立ちのぼる湯気を確かめてからクリスを振り返った。
「いいよ。ここで見てる」
クリスは竈の前へ移動し、揺れる火を覗き込む。鍋の中では具材がゆっくりと踊り、燻した肉の香りが温かな湯気とともに鼻先をくすぐった。
いい匂いだ、今日は燻製肉のスープだな。
子どもたちが喜ぶ
火が強くなりすぎないよう薪の位置を整えながら、クリスは台所へ目を向けた。
マリナは買ってきたばかりのパンを一つずつ取り出し、厚さを揃えて切っている。刃が焼きたての皮を割るたび、ぱり、と軽い音がした。隣には果物が色よく並べられ、朝の光を受けて瑞々しく艶めいている。
その手元を見つめていたクリスに、マリナが何気ない調子で声をかけた。
「クリス、仕事はどう?順調?」
「そうだね。順調だけど、忙しいよ。この前の即位式の後に、急に貴族の家やサロンに運ぶ荷物が増えたんだ」
鍋の縁で小さな泡が弾ける。クリスは木杓子で中をひと混ぜし、火加減を確かめた。
「まあ…… 貴族は社交が仕事みたいなものだものね」
マリナは果物を皿へ移しながら、どこか呆れたように息をこぼした。
「そうだね。さ、今の俺たちには関係ない事だ。子どもたちを起こしてくるよ」
クリスは鍋の火を確かめ、木杓子を脇へ置いた。
「ええ。お願いね」
マリナの返事を背に、クリスは台所を離れる。朝食の匂いが満ちた居間を抜け、まだ薄暗さの残る寝室へ向かった。
並べられた寝台では、アイリーンとメイリーンが布団にくるまり、互いに背を向けるように眠っている。窓から差し込む朝の光も、二人を起こすにはまだ弱いらしい。
クリスは寝台の脇に腰を下ろし、まずアイリーン、それからメイリーンの身体をそっと揺らした。
「アイリーン、メイリーン起きて?」
メイリーンは顔を布団へ押しつけ、逃げるように肩をすくめた。
「いやー!!まだ寝るの!!」
その声に反応したのか、隣ではアイリーンの布団がもぞもぞと動く。顔を出す気配はないまま、眠気の残る声だけが聞こえた。
「私も……」
クリスは二つの布団を見比べ、わずかに眉を下げた。
「そんな事を言ってたら、昼になるぞ?昨日言ってたじゃないか、朝ご飯を食べたらお母さんと山菜を採りに行くって」
「メイ、行かない!寝るもん!!」
メイリーンは布団を頭まで引き上げ、完全に閉じこもってしまう。
「………」
アイリーンの方も返事はない。布団の膨らみが、静かな呼吸に合わせてゆっくり上下しているだけだった。
二人とも、駄目だなこりゃ……
着替えだけ準備するか
「そんなことばかり言ってたら、お父さんが着替えさせちゃうからな」
クリスは困ったように笑いながら、わざと大げさに袖をまくってみせた。
「ほらほら、起きて」
それでもメイリーンは布団から出ようとしない。クリスは諦めたように息をつき、眠ったまま力の抜けている小さな腕をそっと持ち上げた。
寝間着を脱がせ、頭からワンピースを通す。メイリーンはされるがままに身体を揺らし、ときおり不満そうに眉を寄せるだけだった。
着替えを終えると、クリスはその身体を抱き上げた。メイリーンはすぐに彼の肩へ頬を預け、まだ眠りの続きを探すように目を閉じる。
その隣では、アイリーンが布団からゆっくりと這い出していた。眠たげに何度も瞬きをしながら、自分でワンピースへ着替えていく。袖に腕を通す動きも、背の留め具へ手を伸ばす仕草も、いつもよりずっと鈍い。
クリスはメイリーンを片腕で抱き、もう片方の手をアイリーンへ差し出した。
小さな手が重なる。
二人を連れて寝室を出ると、朝食の匂いが廊下まで流れてきた。燻製肉の香ばしさと、焼きたてのパンの甘い香りが、まだ冷えた朝の空気を少しずつ温めている。
扉を開けた先では、マリナが鍋からスープを掬い、器へ盛りつけていた。
物音に気づいて振り返り、三人の姿を見ると、柔らかく目を細める。
「アイリーン、メイリーン、おはよう」
メイリーンはクリスの肩へ顔を押しつけたまま、くぐもった声を漏らした。
「メイ、まだ眠い」
「……おはよう、お母さん」
アイリーンも欠伸を噛み殺しながら、かろうじて挨拶を返す。
二人とも昨日の夜は、はしゃいでたもんな……
飴作り、楽しかったんだろ
クリスは、まだ眠気の残る二人の顔を交互に見た。
「アイリーン、メイリーン、朝ご飯を食べたら昨日作った飴を見に行こう。もう固まってるだろ?」
その言葉に、メイリーンの瞼がぱっと持ち上がる。先ほどまでクリスの肩に預けられていた顔が勢いよく上がり、眠気が一瞬でどこかへ消えた。
「飴!昨日の飴!食べていい?」
隣を歩いていたアイリーンが、まだ眠そうな目を擦りながらも、姉らしく口を挟む。
「メイリーンおやつの時間じゃなきゃ駄目だよ」
「やだ!!やだ!!アイリーンが意地悪言う!」
メイリーンはクリスの腕の中で身体を捩り、姉へ向かって頬を膨らませた。朝の静けさなど構わず響く声に、クリスは慌てて口元へ指を立てる。
それから、スープを盛りつけているマリナの背中をそっと窺った。
「アイリーン、メイリーン、お母さんに内緒だぞ?ほら、口を空けて」
クリスは声を潜め、隠し持っていた小さな飴の欠片を取り出した。
二人が素直に口を開ける。
その口へ一つずつ飴を入れると、メイリーンの頬がたちまち嬉しそうに緩んだ。アイリーンも咎めるような顔をしていたくせに、舌の上で転がる甘さに、ほんの少しだけ目を細めた。
――同じ時間。
エレスタ王国の王城では、国王アランが遅い軽食を取っていた。
広い室内に人の気配は少なく、銀の食器が触れ合う音ばかりが妙に耳につく。夜会で口にした酒の余韻も抜けきらぬまま、皿に並べられた料理を機械的に口へ運ぶ。
……あの、狸め
女を押し付けることしか考えていない。
どいつもこいつも、王妃を迎えろ、側妃を迎えろ、他に言うことは無いのか?
夜会が終わると政務、仮眠、夜会……
これが王の務めだと?
くだらない
喉を通る料理の味など、ほとんど分からなかった。
側に控えていた宰相レイが、手元の書状へ一度だけ視線を落とす。差出人を確かめた後、封筒とともに一枚の姿絵を差し出した。
「陛下、こちら、南方の伯爵からでございます」
「ああ」
アランは低く応じ、差し出されたものへ目を向ける。
姿絵?やっと夜会から解放されたと思えばこれか。いい加減にしろ
描かれていたのは、華やかな衣装に身を包んだ若い令嬢だった。伏せた睫毛も、慎ましく整えられた微笑みも、絵師によって欠点なく仕上げられている。
その背後に透けて見える意図まで、隠せるはずもなかった。
(うわぁぁぁぁ!!陛下の機嫌が氷点下!!誰だよこれ見せたの!!私だ!)
表情を崩さぬまま、レイの内側だけが激しくのたうち回る。
(勘弁してくれ、陛下宛なんだから、無視できないだろ……?けれど、直接不機嫌が向かうのはこっちなんだぞ!?それも考えてほしいもんだな!)
アランの瞳が、見る間に冷え込んでいく。
女たちは、王冠しか見ていない。後ろに控えてる貴族は更にそうだ。
なんて、面倒なんだ
アランは姿絵から目を逸らし、何の興味もないものを扱うように卓上へ置いた。
レイは、卓上へ置かれた姿絵を見ないようにしながら、もう一通の封書を手に取った。
指先に伝わる厚い紙の感触だけで、差出人が誰なのか分かってしまう。封蝋に刻まれた紋章を確かめ、わずかに息を整えた。
「陛下…… 本日も、招待状が届いています」
――ちっ
鋭い舌打ちが、静まり返った部屋に鳴り響いた。
壁際に控えていた近衛兵たちの背筋が、一斉に伸びる。鎧の金具がわずかに触れ合い、乾いた音を立てた。
アランは差し出された招待状を受け取ると、封を開くことすらせず、手の中でグシャッと握り潰した。
……ロウズレイン前公爵
あの狸め、妃を決めるまで離さないつもりか?
こちらが断れないのを知って……
皺だらけになった封筒が、掌の中でさらに軋む。
「レイ、ロウズレインに本日は断りの連絡を入れろ」
レイは一瞬だけ口を閉ざした。だが、伏せた目を上げると、慎重に言葉を返す。
「お言葉ですが、伝統派を抑えているロウズレインを蔑ろにするのは非常に不味いかと」
「………」
返事はなかった。
アランは握り潰した招待状を卓上へ落とし、椅子から立ち上がる。そのまま誰とも目を合わせず、部屋の奥にある仮眠室へ向かった。
近衛兵たちが道を空ける中、靴音だけが冷えた床に響く。
「少し休む。何かあったら言え」
レイが深く頭を下げる。
その姿を背に、仮眠室の扉が閉まった。
仮眠室へ入るなり、アランは胸元へ手を伸ばした。
留め具を外すことすら煩わしい。衣服に留められていたブローチを、そのまま乱暴に引っ張る。布地が小さく軋み、外れた装飾品が掌の中で冷たく光った。
続けて指輪を抜き、近くの机へ放り投げる。
硬い音を立てて跳ねた指輪は、卓上を転がり、書類の端にぶつかって止まった。
アランは確かめようともせず、無造作にベッドへ倒れ込む。柔らかな寝具が身体を受け止めても、張りつめた肩から力は抜けなかった。
――二週間、朝まで夜会が連日連夜続いている。
誰も止められない。
誰も止めるつもりがない。
俺が妃を選ぶまで、ずっと
くそっ
アランは深く沈み込むように目を瞑った。
その拍子に、襟元から細い金属が滑り出す。胸の上へ落ちたネックレスが、微かな音を立てた。
薄暗い室内で鈍く光るそれは、装飾品というより、まるで鉄の鎖のようだった。
まるで国の奴隷じゃないか
俺は何のためにこうしてる…… 何のために王になったんだ
王なんて、くだらない。
胸の上に横たわる鎖が、呼吸のたびにわずかに上下する。
政務は後だ、もういい休ませてくれ
――ちゃりっ




