第9話 銀貨十九枚の使い道
「銀貨十九枚も儲かったのか?」
兄の第一声に、俺は首を横に振った。
「それを利益と呼ぶと、ユリウスに訂正されます」
「もう訂正する準備をしております」
向かい側に座るユリウスが、白鴎号の収支表を一枚持ち上げた。
エドガー・ハルデン。
三十四歳。
父の死後に子爵家を継いだ俺の兄は、昼前に屋敷から港まで来ていた。
白鴎号一隻で港にいくら残ったのか。それを報告したいと伝えたら、数字だけ送れとは言わず、自分で見に来た。
「説明してくれ」
「銀貨十九枚余りというのは、白鴎号から直接入った金から、白鴎号の対応で直接増えた支出を引いた残りです」
ユリウスが項目を指す。
「入港料は銀貨八枚。積荷税の領主会計分は別にし、港側には倉庫料と荷役手数料などが入っています。一方で、人夫の追加賃金、小舟、隔離対応、洗浄資材その他を支出しました」
「初日に人夫四十人へ払った半日分も?」
「入っています」
兄が一番下の数字を見る。
「それでも十九枚残ったのか」
「ただし、港務所の役人の給金、普段からいる人夫の費用、倉庫と岸壁の維持費までは、この一隻だけへ割り振っていません」
「だから利益とは呼べない」
「そういうことです」
兄は椅子へ深く座り直した。
「だが、病船を受け入れたせいで大赤字になったわけでもない」
「そこは確認できました」
沖に置いたままなら、病気を町へ入れる危険は低かった。
同時に、入港料も荷役も倉庫も動かない。
逆に最初から無条件で岸につければ、病気が広がった場合の損失は比較にならない。
今回は止めるところで止め、動かせるところまで来てから動かした。
その結果が十九枚余りだった。
「それで」
兄が俺を見る。
「この十九枚を港へ残したい、と?」
「十九枚だけの話ではありません」
「嫌な前置きだな」
「港の金の持ち方を決めたいんです」
兄の表情が少し変わった。
ここからは、白鴎号一隻ではなく領地全体の話になる。
「言ってみろ」
「港務所に、最低限の運営準備金を残せるようにしたいです」
「毎月いくらか取り分ける?」
「いいえ。月ごとの収入はかなりぶれるはずです」
船が五隻来る月と、十五隻来る月で同じ金額を残すのはおかしい。
嵐や季節風で船が減る時期もあるだろう。
「一定額を積み立てるのではなく、港務所が常に持っておく最低残高を決めます。月末にそれを超えている分は、領主会計へ回す」
「最低残高を下回ったら?」
「通常の支出を抑えます。それでも必要なら兄上へ相談します」
「緊急時は?」
「今ある緊急予備費を使います。ただし、桟橋板を数枚替えるような普通の補修まで、全部そこへ突っ込むのはやめたい」
ユリウスが別の帳簿を兄の前へ置く。
「今の港務所は、小額補修と本当の緊急支出の境が曖昧です」
「どのくらい曖昧なんだ?」
「倉庫の雨漏りを塞ぐ費用と、船が座礁した際の救助用資材を、同じ予備費から出す場合があります」
兄が眉間を押さえた。
「よく今まで回っていたな」
「回らなかった結果が、あちこちに残っています」
ユリウスの言い方は淡々としている。
それだけに重い。
「父上は港を軽く見ていたか」
「農地や城下の方が、優先度が高かったのでしょう」
俺が答えると、兄は首を振った。
「庇わなくていい。俺だって、お前を呼び戻すまでは似たようなものだった。港は船が来れば勝手に金を落とす場所だと思っていた」
「実際は、壊れた桟橋には船も寄りたがりません」
「その辺りは、この数日で嫌というほど聞いた」
兄は窓の外を見た。
中央岸壁では、昨日までに決めた待機場を使って荷車が順番を待っている。
「で、その最低残高はいくらだ?」
「まだ決めません」
兄がすぐこちらを見る。
「決めたいと言って俺を呼んだんじゃないのか?」
「基準を作りたいと言いました。金額は、数字を取ってからです」
ユリウスが資料を開く。
「まず一ヶ月、人件費、倉庫、岸壁、小舟、衛生、臨時対応の六項目に支出を分けます。収入も入港料、倉庫、荷役などで分けて記録します」
「一ヶ月で足りるのか?」
今度は兄から出た。
俺は少し笑った。
「俺も同じことを考えていました」
「港は季節で船の数が変わるだろう。一ヶ月だけ見て『これで十分』と決めるのは危ない」
「なので、一ヶ月後に暫定額を決めて、三ヶ月後に見直したいです」
「それならいい」
兄はすぐ頷いた。
「一ヶ月後の数字で仮の最低残高を決めろ。三ヶ月後、もう一度俺へ持ってこい。季節差まで見るなら、その先も必要になるだろうが、最初から一年待つわけにもいかん」
「助かります」
「ただし」
兄の指が帳簿を叩く。
「港に残す額を増やしたいなら、理由を数字で出せ。領地には港以外にも金が要る」
西の橋は冬前に補修が必要。
収穫後には穀倉の屋根。
守備兵の装備更新も先送りされている。
「港で稼いだ金だから全部港で使う、は認めない」
「そのつもりはありません」
「ならいい」
港だけを世界の中心だと思えば、兄とはいずれ衝突する。
兄が見ているのは子爵領全体だ。
その中で、港へ金を戻す価値を数字で証明すればいい。
「当面の補修はどうする?」
「今の裁量内で払えるものだけ進めます」
「危険物置き場の屋根は?」
ユリウスが紙を差し出す。
「見積もりはこちらです」
俺より早い。
兄が確認する。
「これなら港務代官の裁量で出せるな」
「はい。大きな倉庫を新築するわけではありませんので」
「やれ。ただし後で月次に入れろ」
「もちろんです」
ひとまず予算の話は片づいた。
俺はもう一枚、紙を取り出した。
「それから、もう一件あります」
兄が露骨に警戒した。
「今度はいくらだ」
「まだ金額は決めてません」
「さっきも聞いたぞ、その言葉」
「今度は人の話です」
「誰だ?」
「ロイです」
「知らんな」
「荷役人夫をまとめている男です」
ユリウスが補足する。
「現在は正式な役職ではありません。ただ、現場では実質的に人夫頭として動いています」
「何をしている?」
俺は最近の仕事を書いた紙を兄へ渡した。
人員配置。
交代と休憩の調整。
荷の重さによる人数変更。
危険な時の作業中断。
船側との荷役順の調整。
負傷者が出た場合の初動。
「これを一人の人夫が?」
「俺が来る前から一部はやっていました。今は仕事が増えています」
「日当は?」
「普通の人夫より少し高い程度です」
「それでは責任と合わんな」
話が早かった。
「正式に『荷役頭』という役目にしたいです」
「権限は?」
「人夫の配置、安全確認、休憩調整。それと危険がある時は荷役を一時停止できるようにします」
兄がそこで止まった。
「一人の人夫に、商船の荷役を止める権限を持たせる?」
「無制限ではありません。吊り荷が危ない、人が倒れた、荷車が動線を塞いで作業できない。そういう現場の安全に関わる場合です」
「船長や商人が文句を言ったら?」
「俺かユリウスが引き取ります」
ユリウスも頷く。
「実際には今でもロイが止めています。権限だけが曖昧なのです」
「またそれか」
「何がです?」
「先に現場が仕組みを作っていて、お前が後から名前を付ける」
言われてみれば、夜間仮置きもそうだった。
「必要だから残った仕事なら、その方が外れにくいです」
「まあいい。責任を増やすなら手当も増やせ。ただし役目は書面にしろ。気分で一人だけ日当を上げたように見えるのはまずい」
「同意します」
「額は?」
俺はユリウスを見る。
「なぜこちらを見るのです」
「賃金相場を一番知っているので」
「便利に使われていますな」
「頼りにしています」
「その言い方で仕事が減ったことはありません」
それでもユリウスは紙を受け取った。
「今日中に案を出します」
「本人にも聞きましょう」
兄が言った。
「引き受けると決まった顔で話しているが、本人が嫌だと言ったらどうする」
盲点だった。
「呼びましょう」
少しして、ロイが港務所へ入ってきた。
兄の姿を見るなり帽子を取る。
「領主様。俺、何かやらかしましたか?」
「なぜ最初にそれを聞く」
「心当たりならいくつかあります」
「正直すぎるな」
「後から出た方が怒られそうなんで」
兄の口元が緩んだ。
「セドリックがお前を正式な荷役頭にしたいと言っている」
ロイは俺を見る。
「今も似たようなことやってるぞ」
「だから、正式な仕事にします」
「何が変わる?」
「責任と権限が増えます」
「いらねえ」
即答だった。
ユリウスが視線を帳簿へ落とす。
肩が少し揺れている。
「手当も増やします」
「それ先に言えよ」
「手当だけ聞いて引き受けられても困るので」
「いくら?」
「ユリウスが今から計算します」
「まだ決まってねえのかよ!」
兄が声を上げて笑った。
「額は俺も確認する。役目に見合う分は出す」
ロイは少し姿勢を直した。
「それなら、仕事を聞きます」
現金な男だ。
だが、責任が増える仕事を無償で引き受ける人間より信用できる。
「人員配置と休憩、安全確認。危険な時は作業を止めていい。その代わり、事故や負傷者が出たら必ず報告してください」
「船長と揉めたら?」
「船の積み方は船長に従う。岸壁と人夫の安全なら止めていい」
「人夫が足りねえ時は?」
「増員を申請。勝手に倍は雇わないでください」
「酔ってる奴が来たら?」
「帰してください」
「大商会の親方の息子でも?」
「むしろ帰してください」
ロイが笑った。
「それならいい」
「最後の条件が一番大事でした?」
「酔っぱらいに荷を吊らせるの、ずっと嫌だったんだよ」
兄が俺を見る。
「現場には現場の悩みがあるんだな」
「毎日増えます」
「増やしているのはお前じゃないのか?」
「見えるようになっただけだと思いたいですね」
兄は窓の外へ目を向けた。
中央岸壁では荷車が決めた待機場所から順に動き、人夫が荷を倉庫へ送っている。
数日前までなら、兄が見ても「港で荷役をしている」程度にしか見えなかったかもしれない。
今は、俺にはどこが変わったか分かる。
「一ヶ月だ」
兄が言った。
「まず一ヶ月、数字を取れ。その時点で港務所に残す最低残高を暫定で決める。三ヶ月後に俺と見直す」
「はい」
「ロイの荷役頭も試行で始めろ。問題が出れば変えればいい」
ロイが口を挟む。
「試行でも手当は出るんですよね?」
「そこだけは聞き逃さないな」
「仕事なんで」
「出す」
「領主様、話が早い」
「弟にも聞かせてやれ」
「俺も出すつもりでしたよ」
「金額決めてなかっただろ」
「それはユリウスが」
「私へ逃がさないでください」
三人から言われた。
どうも今日は分が悪い。
兄を送り出した後、ユリウスは港務所の奥から新しい帳簿を一冊持ってきた。
表紙へ自分で文字を書く。
『港務月次収支』
「そのままですね」
「凝った名前にすると、十年後に誰も意味が分からなくなります」
「そのままでいきましょう」
最初の頁には、収入と支出、それが何のために動いた金なのかを書ける欄が作られた。
「六項目で始めます」
「人件費、倉庫、岸壁、小舟、衛生、臨時対応ですね」
「細かくしたくなったら?」
「一ヶ月使ってから考えましょう」
「最近、その答えが増えましたな」
「先に帳簿だけ立派にして、誰も書かなくなるのが一番困ります」
そこへロイが顔を出す。
「手当、決まった?」
「今計算しているところです」
「まだかよ」
「あなたの日当だけ計算しているわけではありません」
「俺にとってはそこが一番大事なんだ」
「分かりましたから、仕事へ戻ってください」
「荷役頭として?」
「まだ正式な紙を書いてません」
「じゃあ今日は普通の人夫か」
「仕事は昨日と同じです」
「損した気分だな」
ぼやきながら出ていった。
ユリウスがため息をつく。
「役職を付ける相手を間違えていませんか?」
「仕事はできます」
「そこだけは否定しません」
会計係が午前中の受領箱を運んできた。
白鴎号ほど大きな船はいない。
それでも入港料が入り、荷が倉庫へ入り、人夫が動けば港にも金が残る。
ユリウスが新しい帳簿へ最初の日付を書き込んだ。
銀貨十九枚をどう使うかという話から始まった。
結局、決めたのは十九枚の使い道ではない。
港が自分で動き続けるために、いくら残しておくべきかを測る方法だった。
その数字は、まだ空欄だ。
一ヶ月後には、埋められる。
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