第8話 今度は、その船を岸につけろ
「白鴎号を岸につけます」
朝の港務所でそう告げると、倉庫と岸壁を担当する役人たちが一斉にこちらを見た。
ユリウスは驚かなかった。
隣にいる年嵩の癒し手も同じだ。
「病人が出た船ですよね」
若い役人が慎重に聞く。
「本当に入れて大丈夫なんですか?」
「その判断を説明してもらいましょう」
俺が癒し手へ視線を向ける。
「十一名は全員解熱しています。最後に新しい発熱者が確認されてからも数日が経ちました。回復が遅れていた三名についても、熱は戻っていません」
「原因は?」
「確定とは言いません。ただ、問題の水樽が最も疑わしいという判断は変わりません。それに、これまでの経過では、人から人へ次々に広がる様子も確認されていない」
「つまり安全ということですか?」
別の役人が聞いた。
癒し手はすぐに首を横へ振った。
「医者に絶対と言わせない方がいいでしょう。私が言えるのは、白鴎号を沖へ留め続ける医学的な理由が、かなり小さくなったというところまでです」
「それで十分です」
俺は机の上へ白鴎号の記録を置いた。
「接岸を認めます。ただし、何もなかった船と完全に同じ扱いにはしません」
使う岸壁は一ヶ所。
回復が遅れていた三人には、まだ重い作業をさせない。
上陸者の名前は引き続き記録し、異変があれば神殿へ報告する。
そして、原因と疑われている水樽だけは通常の荷役へ混ぜない。
「問題の樽は最後まで船に残します。荷役が終わってから封をしたまま東側へ回し、隔離場所へ移す。食料や商品と一緒には扱いません」
癒し手が頷く。
「その方がよいでしょう」
「人夫は船へ乗せますか?」
「通常の荷役へ戻します。ただし希望者だけです」
入口から声がした。
「嫌がる奴はいるぞ」
ロイだった。
「聞いていたんですか」
「白鴎号を岸につけるって話がもう港中に回ってる。俺だけ知らねえ方が困る」
「それもそうですね」
「乗りたくねえ奴をどうする?」
「倉庫や荷車側へ回してください」
「船側の人数が足りなくても?」
「足りない人数でやります。必要なら時間をかける」
ロイは少しこちらを見てから笑った。
「分かった。そこまで言うなら説明しやすい」
癒し手にも人夫への説明を頼み、俺たちは岸壁へ向かった。
港には、すでにかなりの人が集まっていた。
商人。
船乗り。
市場の店主。
用もないのに見に来たらしい者まで混ざっている。
その中から、見覚えのある男が前へ出てきた。
第1話で倒れた酒売りのバルドだった。
「本当に入れるのか?」
「入れます」
「病人を出した船を?」
「今の状態を確認したうえでです」
「また熱を出す奴が出たら?」
「神殿へ運びます」
バルドはまだ納得していない。
「町に広がったらどうするんだ」
「その時は判断を変えます」
「だったら、あと何日か沖に置いておけばいいだろ」
「白鴎号にとって、その何日かは無料じゃありません」
飲み水。
食料。
船員の賃金。
傷んでいく積荷。
そして、船そのものが次の仕事へ行けない時間。
「危険が高いうちは止めました。でも、その危険が下がった後まで、念のためだけで沖へ置き続けるつもりはありません」
「俺たちが危険を被る」
「だから隠しません」
港務所前の掲示板には、白鴎号の現在の状態を書いてある。
新規発熱なし。
十一名全員が解熱。
癒し手の判断。
接岸後の制限。
字の読めない者には役人が説明する。
「今日また状況が変われば、今日中でも止めます」
バルドは掲示板を見て、それから沖の白鴎号を見た。
「……酒場は?」
「今日はまだ待ってください」
「そこかよ」
「数日沖で待っていた船員を全員酒場へ放したら、病気とは別の問題が起きそうなので」
周囲から笑いが起きた。
バルドまで苦笑する。
「明日は?」
「癒し手の確認次第です」
「分かった。なら今日は食堂だけにしろ。うちの店の前で飲ませねえ」
「助かります」
少なくとも、怒鳴り合いにはならなかった。
ロイは岸壁側で人夫を集めていた。
癒し手から説明を受けたあと、白鴎号へ乗れる者を募る。
最初は誰も手を挙げない。
少し間を置いて、一人。
続いて二人。
やがて十二人が前へ出た。
「十分です」
「残りは陸側へ回す」
ロイが即座に配置を変える。
「船に乗らなかったからって賃金を下げたりしねえよな?」
「同じ仕事時間なら同じです」
「よし。聞いたな!」
人夫たちの顔から、少し緊張が抜けた。
沖で白鴎号が錨を上げ始めた。
三本のマストを持つ大きな船体が、ゆっくり港内へ進んでくる。
この港を任された最初の日。
俺は、この船を岸へつけるなと命じた。
そして今日は、自分の判断で受け入れる。
「舫い、来るぞ!」
ロイの声が飛ぶ。
白鴎号から太い綱が投げられ、人夫が受け取る。
係船柱へ回す。
船体がゆっくり岸壁へ近づき、防舷材へ触れた。
「接岸完了!」
数日間、海の上に隔てていた船が、ようやく陸と繋がった。
舷側から白鴎号の船長が顔を出す。
「長かったな」
「こちらもです」
「やっと岸につけてくれた」
「今度は条件を満たしましたから」
「次からは最初から入れてくれ」
「元気な船で来てください」
「善処する」
「そこは約束してください」
船長が笑った。
デニス・カルヴァも荷目録を持って待っている。
「残りの生糖からお願いします。乾燥果実も長く置きたくありません」
目録を確認する。
生糖。
藍染料。
胡椒。
乾燥果実。
薬草。
南方木材。
すでに一部は限定荷役で降ろしているため、残数は台帳に記録されていた。
「船側の順番は?」
俺が聞く前に、ロイが船長へ声を飛ばした。
「どれから抜けば船が楽だ?」
船長もすぐ答える。
「木材は最後だ。先に生糖と果実。そのあと染料と胡椒を頼む」
「分かった!」
俺が口を挟む必要はなかった。
海燕号で試した待機場と区画分けも、そのまま使われた。
ロイが人夫を動かし、港務所の役人が数量と正式な鉛札を確認する。
デニスの手代は倉庫ごとの荷車を回す。
俺は岸壁脇に立っていたが、開始からしばらくしても誰も指示を聞きに来ない。
ユリウスだけが一度、こちらへ歩いてきた。
「何かありました?」
「何もありません」
「それは報告ですか?」
「ええ。今のところ数量違いなし、荷車待ちなし、置き場の混乱もなしです」
「いい報告ですね」
「以前なら、こういう時ほど私は走っていました」
「今日は?」
「歩いています」
「改善してますね」
「私の健康状態が?」
「それも大事です」
ユリウスが苦笑した。
昼前、一度だけ胡椒の箱数が合わなくなった。
港務所側は十四箱。
船側は十三箱。
以前なら台帳を抱えた手代が倉庫と岸壁を往復していたのだろう。
今日は配置表を確認し、第五倉庫行きの荷車を止めた。
そこに一箱多く積まれている。
「これですな」
ユリウスが箱の札を確認する。
行き先を一つ間違えただけだった。
荷車から降ろし、数字を訂正する。
五分もかからない。
誰かを怒鳴る必要もなかった。
「終わり!」
昼を少し回ったところで、ロイの声が岸壁へ響いた。
最後の南方木材が所定の置き場へ運ばれる。
破損なし。
負傷者なし。
積み残しなし。
白鴎号の船長が船から降りてきた。
「前に来た時よりずいぶん早いな」
「以前にもこの港へ?」
「二年前に一度。荷を全部下ろすのに一日半かかった」
「できれば、その話は兄には黙っていてください」
「今さらだろ」
「俺もそう思います」
船長が港を眺める。
「今日は半日か」
「白鴎号側の協力もありましたから」
「そこは俺たちを褒めるところだ」
「病船で来た減点を返している途中です」
「厳しいな」
荷役を終えた後、原因と疑われている水樽だけを別に扱った。
封は切らない。
商品を運んだ人夫とは別の二人が東側へ回し、石床の隔離場所へ置く。
癒し手が立ち会い、樽番号と船内で置かれていた位置を記録した。
「これはいつまで?」
船長が聞く。
「原因確認が終わるまでです。処分する場合も勝手には開けません」
「持って帰りたくはない」
「そこは同感です」
飲み水の補給も終わっていた。
前日に四十樽。
今日は西井戸十樽、南市場共同井戸十樽。
合計六十。
すべて飲料水専用の貸樽で、水源記録も船側へ渡してある。
ガストンが船長へ近づいた。
「次も水買うなら、先に言ってくれよ。荷車を空けとく」
「今回の水で誰も腹を壊さなかったらな」
「それは俺じゃなく井戸に言え」
「お前が売ってるんだろ」
「だから水源を書いたんじゃねえか」
二人の交渉は、もう俺を必要としていない。
それでいい。
白鴎号の船員についても、接岸後は交代で上陸させた。
港周辺の食堂と商店までは許可する。
酒場は一日だけ待ってもらった。
「船員から不満が出てます」
船長が言う。
「でしょうね」
「数日沖にいて、ようやく岸へついたんだぞ」
「だから食事と買い物は止めてません」
「酒は?」
「明日まで我慢してください」
「恨まれるぞ」
「港務代官になってから、全員に好かれる仕事ではないと分かりました」
「就任して何日だ?」
「十分学べるくらいには」
翌朝。
白鴎号の乗組員に新しい発熱者はいなかった。
十一名全員に再発熱もない。
回復が遅れていた三名だけは、癒し手の判断で引き続き重労働を避けることになった。
それ以外の行動制限は解除する。
バルドは朝から酒場の扉を開けていた。
「今日からいいんだよな?」
「飲ませすぎないでください」
「そこまで面倒見られるか」
「それなら普通の酒場ですね」
「最初から普通だよ」
どうだろう。
白鴎号は昼前に出港する。
出港準備の間に、ユリウスが会計係を連れてきた。
「白鴎号の分がまとまりました」
「見せてください」
一枚の紙へ項目が並んでいる。
入港料、銀貨八枚。
積荷税。
倉庫料。
港が受け取る荷役手数料。
夜間作業はなかったため、その分はなし。
人夫へ支払う賃金と、白鴎号対応で追加した小舟や洗浄用資材の支出も別欄にある。
「収入だけでなく支出も入れたんですね」
「それを見ないと意味がないでしょう」
「さすがです」
「あなたが言いそうなので先にやりました」
最近、本当に仕事が早い。
「差し引きは?」
ユリウスが一番下を指した。
銀貨十九枚と、銅貨がいくらか。
「港の会計へ残る分です。積荷税のうち領主会計へ回す分は別にしてあります」
「人夫の賃金も払ったあと?」
「ええ。初日の緊急対応で出した半日分の賃金、隔離対応の追加費用も入れています」
思っていたより残った。
「病船一隻でこれですか」
「病船だったから余計な支出も多いです」
「確かに」
「普通の船なら、もう少し率は良くなるでしょう」
そこへ白鴎号の船長がやってきた。
「出るぞ」
「お気をつけて」
「次に来た時は、沖で何日も待たせるなよ」
「次は全員元気で来てください」
「それなら最初から岸につけるか?」
「書類と積荷に問題がなければ」
「条件が多いな」
「港なので」
船長が笑う。
「次は病人ゼロで来る」
「それが一番助かります」
白鴎号の舫いが外された。
帆が張られる。
数日前、黄色い救援布を掲げて沖に浮かんでいた船が、今日は通常の商船として港口へ向かっていく。
船影が岬へ近づくまで見送ってから、俺は手元の会計紙へ目を戻した。
入港を拒否しただけなら、荷役も倉庫も動かなかった。
無理に受け入れて病気が広がれば、それ以上の損害が出ていた。
止める時は止める。
動かせる状態になったら動かす。
その結果が、今は帳簿の一番下に数字として残っている。
「ユリウスさん」
「はい」
「これ、兄にも見せましょう」
「港の黒字ですか?」
「それもあります」
俺は初日に使った緊急予備費の記録も並べた。
人夫四十人へ払った半日分。
白鴎号への補給。
隔離に使った費用。
そして今回の収入。
「安全対策に金を使っても、船をちゃんと動かせば回収できる。その方が説明しやすいでしょう」
ユリウスは二枚の帳簿を見比べ、頷いた。
「ロイの賃上げの話も?」
「……一緒に出しましょうか」
「逃げられませんね」
「数字が揃ってしまいましたから」
港口の向こうで、白鴎号の帆が岬の陰へ消えた。
机の上には、銀貨十九枚余りの黒字が残っていた。
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