第7話 その水は、どこの井戸だ
「水は水でしょう、港務代官様」
昨日から同じ言葉を聞くのは二度目だった。
五十前後の水商人、ガストン・ベイルは、日に焼けた太い腕を組んで俺を見る。
「三十年、水を売ってきました。今さら役所に井戸まで決められたら商売になりませんよ」
「井戸を決めるつもりはありません」
「では、白鴎号へ六十樽。うちに任せてください。今日中に揃えます」
「どこの水を?」
「港外れの古井戸です。近いし、使用料もいらない」
向かい側に座っていた白鴎号の船長が口を開いた。
「それなら買わん」
ガストンがそちらを見る。
今朝まで新しい発症者が出なかったため、船長は最初の上陸者として名前を記録したうえで東桟橋から港務所まで来てもらっている。
行動できる範囲はまだ港務所と補給区域、それに神殿の診察場所だけだ。
「まだ見てもいない水ですよ、船長」
「うちの船では、飲み水が原因で二人死んだ可能性がある」
「俺の井戸とは関係ないでしょう」
「だからこそ、次に積む水がどこから来たのか知っておきたい」
声は静かだが、譲る様子はない。
今日集まってもらった水商人は五人。
白鴎号を診ている年嵩の癒し手とユリウスも同席している。
「まず、普段どう売っているのか教えてください」
俺は五人に聞いた。
「一樽いくら、だけでは分からない。水代のほかに何が入っています?」
二番目に座っていた小柄な女商人が答える。
「樽をこちらで用意するなら樽代。あとは荷車と人足ですね。樽は貸す場合もあります」
「貸した樽は?」
「返ってくれば保証金を返します。戻らなければ、その金で樽を買い直します」
別の男が続けた。
「船が飲み水用の空樽を持っていれば、水と運び賃だけです」
白鴎号については、その方法を使うつもりはなかった。
原因と疑われている水樽がある船だ。
問題の樽だけを避ければ安全とは、まだ言えない。
「今回は白鴎号の樽は使いません。飲料水専用として使っている樽を貸せる人だけ、値段を出してください」
船長も頷く。
「その方がいい」
五人のうち三人が樽まで用意できた。
金額を書いてもらうと、一番高い商人と一番安いガストンではかなり差がある。
「同じ水で、なぜこんなに違う?」
船長が尋ねた。
女商人が答えた。
「同じではありません。私は西井戸を使います。使用料がかかりますし、ここまで距離もある。樽も飲み水専用にして、使うたびに洗って乾かしています」
ガストンが鼻を鳴らす。
「だから高い。古井戸なら使用料なんてないし、港にも近い」
「その代わり、どんな井戸なのか説明していないでしょう」
「飲めれば同じだ」
言い合いが始まりそうになったので、そこで区切った。
「現物を見ましょう」
ガストンが眉をひそめる。
「今から?」
「六十樽汲んでから確認するより安いでしょう」
全員で行く必要はない。
俺とユリウス、癒し手、ガストン、それに西井戸を使う女商人で港務所を出た。
最初は古井戸だ。
港から歩いて十五分ほど。
海岸沿いの道から少し外れた空き地に、低い石組みの井戸があった。
「これですよ」
ガストンは悪びれる様子もない。
水量そのものは十分らしい。
だが、近づけば気になるところも見える。
井戸の縁が低い。
蓋もない。
すぐ脇には荷車の轍があり、その先には魚を捌いた後の水が流れる溝まであった。
癒し手が周囲を見回す。
「大雨の時、この辺りまで水が上がりませんか?」
「上がる時もありますよ」
「井戸の中へ雨水が?」
「多少は入るでしょう。でも、それくらい昔からです」
水を汲んでもらう。
目で見た限り、大きな濁りはない。
強い腐敗臭もしない。
ただ、癒し手は水面を見るだけで「安全」とは言わなかった。
「今この水を飲めば必ず病気になる、とは言えません」
「ほら」
ガストンが言う。
「最後まで聞いてください」
癒し手は井戸の縁と排水溝を指した。
「水の見た目だけでは、病気になるかどうかまでは分かりません。この井戸は雨水や周囲の汚れが入りやすく、海にも近い。大量の飲み水を長く保存する船へ積むなら、私は別の井戸を勧めます」
「漁師は使ってる」
「何に?」
「手を洗ったり、魚を洗ったり、船を洗ったり」
「普段から飲んでいる人は?」
ガストンの返事が少し遅れた。
「飲む奴もいる」
つまり、飲料専用として管理されている井戸ではない。
「ガストンさん。この井戸を使うなとは言いません」
「じゃあ白鴎号にも――」
「船を洗う水、荷台を洗う水、消火用の水として売ればいい」
「値段が下がる」
「でしょうね」
「それじゃ儲からん」
「なら飲み水として売る時だけ、別の井戸から汲めませんか?」
ガストンは黙った。
古井戸なら使用料は不要。
港からも近い。
だから安く売れる。
彼なりの商売上の理由がある。
「井戸まで役所に決められたら、俺たちの商売じゃない」
「決めませんよ」
「今、白鴎号へ売るなと言ったでしょう」
「買わないと言ったのは船長です」
ガストンが口を閉じる。
「港が決めるのは、飲み水として売るなら水源を隠さないこと。それだけにしたい」
「古井戸と書いたら、誰も買わなくなるかもしれない」
「西井戸より安いなら買う船もいるでしょう。飲み水ではなく作業用として買う船もいる」
「それを客に選ばせる?」
「そうです」
俺が値段まで決める必要はない。
次に西井戸へ向かった。
町の内側にある共同井戸で、石組みは腰ほどの高さまである。木製の蓋があり、周囲も石敷きだ。
こぼれた水は溝を通って井戸から離れる方向へ流れる。
「管理は?」
ユリウスが尋ねる。
井戸番の老人が答えた。
「この辺の十七軒で金を出しています。縄と釣瓶を替えて、石組みも直す。底掃除もやります」
「水商人が使う場合は?」
「一樽ごとに使用料をもらう」
安くない理由はそこだ。
癒し手がこちらでも水を確認する。
「古井戸より管理状態は良いです。今のところ目立った濁りや異臭もありません」
女商人が尋ねた。
「なら安全?」
「そこまでは言いません」
癒し手は即答した。
「見た目が良くても、目に見えない病の原因までは分かりません。ただ、周囲の管理と水の状態を比べるなら、私は白鴎号にはこちらを勧めます」
それで十分だった。
「六十樽、一度に汲めますか?」
井戸番の老人が嫌な顔をした。
「冗談じゃない。町の人間が使えなくなる」
「どのくらいなら?」
「今日なら二十五。夕方以降なら、もう少し。明日の昼前ならまた二十くらいは出せる」
女商人が言っていた二十から三十という話と一致する。
大量に必要だからといって、一ヶ所から全部抜けばいいわけではない。
「南市場の共同井戸は?」
ユリウスが聞いた。
「戻る途中です。一度見ていきましょう」
南市場の井戸は、西井戸ほど大きくない。
こちらも蓋があり、周辺に家畜を繋ぐことは禁止されているという。
管理は市場組合。
朝は飲食店や住民の利用が集中するが、昼以降なら十五樽程度までならまとめて汲んでも支障は少ないという話だった。
癒し手も、
「管理状態を見る限り、古井戸よりこちらを選びます。ただし病気が絶対に出ない保証ではありません」
と同じ説明をした。
港務所へ戻ったのは昼前だった。
白鴎号の船長はまだ待っていた。
「どうだった?」
「古井戸は今回は使いません。西井戸と南市場の共同井戸からなら、今日四十樽用意できます」
「六十は?」
「今日一日で一ヶ所から無理に汲めば、町の飲み水を圧迫します」
船長の表情が少し険しくなる。
「こちらも水が必要だ」
「承知しています。最初の希望は最低四十、できれば六十でしたね」
「そうだ」
「なら四十を今日。残り二十は明日、住民の使用が落ち着いてから汲みます」
船長はしばらく考え、頷いた。
「それでいい。四十あれば今夜困ることはない」
ようやく数量が決まった。
次は誰が運ぶかだ。
女商人が西井戸から十五樽。
別の水商人が同じ西井戸から十樽。
南市場の共同井戸からは、ガストンが十五樽を担当すると言った。
「古井戸を使わないんですか?」
俺が聞く。
「飲み水で買ってくれるなら、南市場まで行く」
「使用料がありますよ」
「その分、運び賃へ乗せる」
「船長が買うなら問題ありません」
「もう話した。古井戸より高くなるってな」
白鴎号の船長を見る。
「水源が分かるなら払う」
交渉はすでに始まっていたらしい。
ここへ俺が値段を決めて入る必要はなかった。
一樽の代金については、水そのものに加えて、井戸の使用料、運搬費、人足の賃金、飲料水専用の貸樽代を分けて書いてもらった。
「面倒だな」
ガストンがぼやく。
「今までは全部まとめてたんだぞ」
「運び賃が上がった時、説明しやすくなりますよ」
「役人なら安くしろって言うんじゃないのか?」
「安すぎて水を運ぶ人がいなくなったら困ります」
「高すぎたら?」
「船が別の人から買います」
ガストンが一瞬黙り、それから笑った。
「なるほど。嫌な仕組みだ」
「商人には?」
「怠けられない」
「それなら機能しそうですね」
午後には最初の水樽が東桟橋へ届いた。
今回は白鴎号の既存樽を再利用せず、水商人が飲料水専用として管理している貸樽を使う。
外側へ水源を示す木札を結ぶ。
西井戸。
南市場井戸。
さらに商人ごとの簡単な記号。
港務所側では、船名、水源、水商人、樽数、積み込み日を一枚の記録へ残した。
「西井戸、八、九……十五」
若い役人が数える。
小舟へ積み、白鴎号まで運ぶ。
船側でも数を取り、どの水源の樽を何本受け取ったか帳簿へ記録することになった。
二便目。
三便目。
南市場から戻ったガストンが自分の荷車を降りた。
「遠い」
「古井戸よりは」
「使用料も取られた」
「そうでしょうね」
「今までの値段じゃ割に合わん」
「船長には?」
「先に言った。少し上げた」
「買ってくれました?」
「買った」
「なら商売になってますね」
「利益は減ったぞ」
不満そうに言いながら、ガストンは自分の荷車を見る。
「ただ、一台にもう一樽載せられそうなんだよな」
「車軸は?」
「そこなんだよ。壊したら水代どころじゃねえ」
もう次の計算を始めている。
この人は放っておいても改善する側らしい。
夕方前には四十樽が白鴎号へ渡った。
西井戸二十五。
南市場十五。
数も合っている。
白鴎号の船長が東桟橋へ戻り、受領記録へ署名した。
「明日は残り二十ですね」
「頼む」
「西井戸十、南市場十で調整します。住民が使う時間は避けます」
「分かった」
船長は紙を折ろうとして、手を止めた。
「これは次ももらえるのか?」
「水源の記録ですか?」
「ああ。次にこの港へ来た時も、水を積むなら欲しい」
「役に立ちます?」
「航海の途中で腹を壊す者が出た時、どこで何を積んだか分からんのが一番困る」
白鴎号では、まさにそれが起きた。
「では港務所にも控えを残します」
「助かる」
そのやり取りを聞いていたガストンが近づいてくる。
「船長。次も西井戸か南市場を指定するのか?」
「今回、問題が出なければな」
「なら次はもう少し安く運べる。荷車の回し方を変える」
「値段を見て決める」
「上等だ」
昨日なら、「水を六十樽」で終わっていた商談だ。
今日は水源と運賃と樽代を並べて、買う側と売る側が直接話をしている。
港務所へ戻ると、ユリウスが入口近くで紙を持って待っていた。
「水商人たちから頼まれました」
「何を?」
「今日使った水源記録の用紙を、今後も置いてほしいそうです」
「役所から命令してないのに?」
「白鴎号の話を聞いた別の船から、『井戸を選べるなら水を買いたい』と言われたそうで」
商人にとっても売り文句になるらしい。
「飲み水として売る場合だけにしましょう。船洗いや荷台洗いまで書かせる必要はありません」
「記録料を取りますか?」
「取りません」
「無料?」
「記録する方が高くついたら、書かない取引が増えます」
「確かに」
ユリウスは入口の掲示板へ新しい紙を貼った。
大きな字で、
『船舶用飲み水』
その下に、
『水源を確認して購入できます』
さらに今日扱った二つの名前。
西井戸。
南市場共同井戸。
ガストンが帰り際にその紙を見上げた。
「古井戸は書かないのか?」
「飲み水として売りたいんですか?」
「いや」
少し考えてから首を振る。
「洗い水で売る。そっちなら近い方が喜ばれるだろ」
「それがいいと思います」
「明日から『船洗い用、安い』って札出していいか?」
「水源も書くならどうぞ」
「商売しにくくしたのか、しやすくしたのか分からんな」
「売れるなら、しやすくなったんじゃないですか」
「言うねえ、港務代官様」
ガストンは笑いながら港務所を出ていった。
掲示板には、まだ二つの井戸名しかない。
明日、白鴎号へ残り二十樽を積めば、少なくとも今回の補給は終わる。
俺はユリウスに紙を一枚追加してもらった。
『作業用水――古井戸。飲用ではなく、船体・荷台等の洗浄向け』
これならガストンの安い水にも仕事が残る。
安全な水だけを売れ、と命じるより、その方がこの港では長く続きそうだった。
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