第5話 船を待たせない港
「今日の日暮れ前、潮位が十分あるうちに出られなければ、私はこの港に二度と寄らない」
朝から、ずいぶんな挨拶だった。
俺の前に立っているのは三十代半ばほどの女だ。
日に焼けた肌。濃い赤茶色の髪を後ろでまとめ、腰には短剣。上等ではあるが、飾り気のない紺色の上着を着ている。
名はリディア・ヴァレン。
中型商船《海燕号》の船長だった。
「理由を聞いても?」
「聞く必要がある?」
「改善できる理由なら」
リディアは一瞬こちらを見てから、中央岸壁を指した。
「前に来た時は、接岸してから最初の荷が倉庫へ入るまで二時間。船から全部降ろすのに半日以上。そのあと荷車が岸壁を塞いで、出港準備まで遅れた」
数字まで覚えている。
「今日は日暮れ前には港口を出たい。それを逃すと、この先の風向きが悪くなる」
「積荷は?」
「降ろす荷が八十六口。積む荷が三十二口」
少なくない。
しかも白鴎号のように、傷みやすい荷だけを選んで動かす仕事ではない。
普通の商船。
普通の荷役。
昨日の方法が、特殊な状況だけで通用したものなのか。それとも通常の仕事にも使えるのかを見るには、ちょうどいい。
「荷目録を見せてもらえますか」
「もう港務所へ出してある」
ユリウスを見ると、すでに写しを持っていた。
「羊毛二十四梱、塩漬け魚二十樽、陶器十二箱、銅材十八束、南方果実十二籠です」
「積む方は?」
「北方麦二十袋と、加工革十二束」
品目だけでも五種類。
重さも扱い方も、行き先の倉庫も違う。
「昨日と同じ十二人か?」
ロイが後ろから聞いた。
「それでは足りないと思います」
「何人?」
「船と荷を見てから決めましょう」
リディアが眉を上げた。
「今から?」
「実物を見ずに人数だけ決めても、外れた時に困るので」
「港務代官が人夫の数まで見るのね」
「毎朝やるつもりはありませんよ。最初から任せられるほど、この港のやり方をまだ知りませんから」
リディアは小さく鼻を鳴らした。
「その言い方なら、少し信用できる」
中央岸壁へ向かう。
沖には白鴎号がまだ停泊していた。
患者は回復傾向にあり、新しい発症者も出ていない。ただし船員を上陸させる段階ではなく、東の古い桟橋は引き続き白鴎号専用として分けている。
海燕号が着ける中央岸壁は、昨日までとは少し様子が変わっていた。
岸壁上に荷車が一台もない。
商会ごとに勝手な場所へ置かれていた荷車は、岸壁から離れた二ヶ所の待機場へ移してある。
その代わり、岸壁には木札を付けた杭を四本立てた。
一番。
二番。
三番。
四番。
リディアが足を止める。
「これは?」
「荷の一時置き場です」
「岸壁へ積み上げるの?」
「積み上げないための場所です」
ユリウスが荷目録を開いた。
「一番は第一倉庫行き。二番は第二倉庫。三番は第三倉庫。四番は第五倉庫です」
「第四は?」
「今日入る荷がありません」
必要のない場所まで使う理由はない。
ロイが荷目録を覗き込む。
「羊毛が三番。魚が二番。陶器は――」
「その順番では降ろさない」
リディアが遮った。
ロイが顔を上げる。
「船の都合か?」
「そう。羊毛は上、銅材は下。魚樽は船尾側。種類ごとに全部抜いたら途中で前後の釣り合いが崩れる」
俺は海燕号を見る。
「船から降ろす順番は船長に任せます」
リディアがこちらを向く。
「口を出さないの?」
「海燕号の積み方は、俺よりあなたの方が知っているでしょう」
「それなら助かる」
彼女は船員に命じ、積荷の位置を簡単に書いた図を持ってこさせた。
「最初は羊毛八、魚六。次に銅材六と陶器四。その後また上へ戻る」
ロイが顔をしかめる。
「種類が混ざって岸壁へ来るな」
「それを陸側で分けましょう」
船は船の安全な順番で降ろす。
岸壁では倉庫ごとに振り分ける。
無理にどちらかへ合わせる必要はない。
「人夫は?」
ロイが聞く。
海燕号の荷役口と、岸壁の幅を見る。
「船際は六人くらい?」
「六でいい」
ロイが先に答えた。
「二組で受けて、残り二人が吊り荷を見る。陸側は八人欲しいな」
「合計十四人」
「魚樽と銅がある。途中で船際の連中を回すから、十四で始める。詰まるなら増やす」
「任せます」
リディアが俺たちを見比べている。
「ずいぶん人夫頭に任せるのね」
「荷を担ぐ仕事なら、俺よりロイさんの方が詳しいので」
「当然だ」
本人が遠慮なく答えた。
「なるほど」
リディアの口元が少し緩む。
「変な貴族が来たって噂は本当らしい」
「どちら向きの噂か聞くのが怖いですね」
「今のところ半々じゃない?」
「思ったより善戦しています」
海燕号の舫いが取られた。
荷役が始まる。
最初に降りてきたのは羊毛。
二梱ずつ吊り下ろされる。
「羊毛、三番!」
ロイが声を飛ばす。
人夫が三番へ運ぶ。
続いて魚樽。
「二番!」
六樽が下り切る前に、三番の羊毛はすでに荷車へ積み始めていた。
商会の手代が荷を確認し、港務所の役人は品名と数量を記録して正式な鉛札を渡す。
荷車は岸壁まで入れない。
待機場から一台ずつ回し、満載になったものから倉庫へ出す。
次に戻ってきた空車も、前の車が出るまでは動かない。
最初のうちは順調だった。
銅材が六束降りたところで、その流れが崩れた。
「待て!」
ロイの声が響く。
銅材三束が三番手前で止まっている。
「荷車は?」
「一台しか来てねえ!」
担当商会の手代が青い顔で駆けてきた。
「二台出す予定だったのですが、一台の車輪が割れまして!」
海燕号では次の荷を降ろす準備が始まっている。
ここで銅材を通路に残せば、あとから来る荷とぶつかる。
ユリウスが空いている一番区画を見る。
「一番へ一時的に逃がしますか?」
「そうしましょう」
すぐに答えた。
「ただし杭の札を『銅材仮置き』に変えてください。台帳も置き場だけ訂正。荷主の手代にも伝える」
リディアが船上から声を飛ばしてくる。
「せっかく場所を決めたのに変えるの?」
「場所を守るために船を止めたら、何のために場所を決めたのか分かりません」
「それもそうね」
ロイが人夫を動かす。
「銅を一番へ! 三番を空けろ!」
三束が移った。
船側の作業はほとんど止まらない。
銅材を担当する手代にも、置き場所の変更を伝えた。
その後は再び流れが戻った。
羊毛。
魚樽。
陶器。
銅材。
果実。
船は船の都合で順番を組み、岸壁は岸壁で分ける。
「陶器は急ぐな!」
ロイが人夫へ怒鳴る。
「一箱割ったら、早く運んだ分が全部飛ぶぞ!」
歩調が少し落ちた。
誰も走っていない。
それでも荷は岸壁へ溜まらない。
開始から一時間ほど経ったところで、ユリウスが周囲を見回した。
「残っているのは、荷車待ちの銅材三束だけです」
「前回なら?」
「この時間なら、もっと岸壁に積み上がっています」
「荷車待ち?」
「それもあります。荷主の手代が倉庫を確認して戻るまで止まる荷も多いです」
今日は行き先を最初に決めている。
手代がその都度倉庫まで走る必要がない。
「一番の空き場所を使えたのも大きかったですな」
「空いているところは、何か置きたくなりますからね」
その一番には、今だけ銅材が三束置かれている。
使う時に使えるなら、空いている意味がある。
「休憩!」
ロイの声で七人が岸壁を離れた。
残る七人は軽い荷を動かす。
「半分ずつ?」
「全員止めたら船も止まるだろ」
「それでいきましょう」
「昨日より荷が多いからな。十二人の時と同じやり方じゃ無理だ」
そこまで自分で変えてくれるなら助かる。
「今後も任せます」
「じゃあ給料上げろ」
「数字が溜まったら兄へ話を持っていきます」
「そういうところだけ貴族らしいな」
「予算のない管理職よりはましだと思ってください」
ロイが鼻を鳴らし、休憩中の人夫へ水を回した。
昼前。
最後の南方果実十二籠が海燕号から下りた。
「荷降ろし終わり!」
ロイの声が響く。
リディアが船から降りてくる。
「まだ積み込みがあるわよ」
「準備済みです」
北方麦二十袋。
加工革十二束。
これまでは船からの荷をすべて降ろしてから、積み込む荷を呼び集めていたという。
今日は荷降ろし中に、積み荷を岸壁から離れた待機場所まで運んである。
船が空いたところで、必要な順に出せる。
「もう来てるの?」
リディアが麦袋を見る。
「岸壁へ入れると邪魔なので、そこまでですが」
「前は荷降ろしが終わってから呼ばれて、一時間くらい待った」
「なら今日はその一時間を削れるかもしれません」
「積み込みの順番は?」
「そこは船長に」
リディアが笑った。
「革を先。麦をあとで十ずつ」
「お願いします」
積み込みは荷降ろしより単純だった。
待機場所から岸壁へ。
船際で引き渡す。
船員が船倉へ。
行き先は一つだ。
最後の麦袋が吊り上げられても、太陽はまだ真上に達していなかった。
「終わりました」
ユリウスが砂時計を見る。
リディアは船と岸壁を見比べる。
「本当に午前中で終わったのね」
「前回は?」
「昼をかなり回った」
船員たちはすぐ出港準備へ移った。
積荷を固定し、水樽を確認し、索具を整える。
リディア自身も船倉を見てから戻ってきた。
「積み方は問題なし」
「それは良かった」
「でも一つ駄目」
「聞きます」
リディアが一番区画を指した。
「銅材を三番から一番へ移したでしょう」
「ええ」
「商会の手代が一度、三番へ探しに行ってた」
伝えたつもりだった。
だが荷主側の別の手代までは知らなかったらしい。
ユリウスがすぐに手帳を開く。
「変更を口頭だけで回すのは危ないですな」
「入口に配置表を置きましょう」
俺は岸壁の入口を見る。
「区画番号と、今そこに何があるか。変えた時は表も直す」
ロイが横から言う。
「字が読めねえ奴もいるぞ」
「品名の横に印を付けるのは?」
リディアが言った。
「魚なら魚。羊毛なら羊。銅材なら槌でも描けば分かるでしょう」
「船長、港務所で働きませんか?」
「船の方が給料がいい」
「条件で負けました」
「それに海から離れたくない」
「それなら最初から勝ち目がありませんね」
リディアが笑った。
海燕号は予定していた時刻よりかなり早く出港準備を終えた。
余った時間で船員を交代で町へ出し、水と食料も買い足すという。
船が岸壁で何もせず待っている時間が減れば、その分だけ別のことに使える。
商人にも、船員にも、港にも悪くない。
デニスとは別の商人が俺のところへ来た。
「港務代官様」
「はい」
「今日のやり方で、追加料金は取らないのですか?」
「通常の荷役料と倉庫料だけです」
「荷車の場所まで港が決めたのに?」
「今のところ、それ自体で料金を取るつもりはありません」
商人は不思議そうな顔をする。
「金になりませんよ」
「海燕号が次も寄ってくれれば、その時また荷役料が入ります」
「来なければ?」
「別の理由を探します」
料金表を増やすのは簡単だ。
船が減った後で戻すのは難しい。
海燕号の舫いが外される少し前、リディアが港務所へ立ち寄った。
「これ」
一枚の紙を机へ置く。
海燕号の次の航海予定だった。
「三週間後に南方から戻る。予定通りなら、また寄るわ」
「今朝は二度と寄らないと言ってませんでした?」
「今日の出港に間に合わなければ、と言ったの」
「ちゃんと条件付きでしたね」
「商人が条件を省略したら損するでしょう」
もっともだ。
「次も今日と同じ時間で終わる保証はできませんよ」
「そんな保証をする港の方が信用できない」
「厳しい」
「でも今日くらい動くなら、寄る価値はある」
それで十分だった。
「次は何を積んできます?」
「南方酒、香辛料。それと、たぶん油」
「油?」
「植物油よ。樽で三十くらいになると思う」
俺は紙の余白へ書き込んだ。
「何してるの?」
「置き場所を忘れないように」
「三週間も先なのに?」
「魚樽の隣へ置いてから考えるよりはいいでしょう」
リディアが笑った。
「以前は酒樽の横にも平気で置いてたけどね、この港」
「三週間あるのが急にありがたくなりました」
「じゃあ、せいぜい燃やさないように」
「その予定です」
リディアは手を軽く上げ、港務所を出ていった。
海燕号は昼過ぎ、余裕を持って岸壁を離れた。
ユリウスが作業記録を読み上げる。
「荷降ろし八十六口。積み込み三十二口。人夫十四名。破損なし。積み残しなし」
「負傷者は?」
「なし」
ロイが口を挟む。
「腰が痛え奴なら毎日いるぞ」
「今日悪くなった人は?」
「いねえ。交代させたからな」
「なら良かった」
「給料の件も忘れるなよ」
「数字と一緒に残しておきます」
「記録だけは速えな」
ユリウスが記録を閉じた。
「この方法を港の規則にしますか?」
「まだです」
「今日も成功しましたが」
「白鴎号と海燕号で二隻です。しかも条件が違う」
石材を積んだ船。
長い木材。
生きた家畜。
大型船。
荷が変われば、今日の十四人が最適とは限らない。
「ただ、残してよさそうなものはあります」
荷車を岸壁へ入れすぎない。
荷の置き場所を先に作る。
船側の荷役順は船長と合わせる。
人夫配置は人夫頭に任せる。
置き場所を変えたら見える形で共有する。
「この辺りは、次の船でも試しましょう」
「承知しました」
港務所へ戻ろうとした時、ローデンを見ていた若い役人が近づいてきた。
「セドリック様」
「何かありました?」
「ローデンが昼休みに港を出ました。南市場の貸商館で男と会っています」
「どこの商会です?」
「そこが分かりません。普段、港務所と取引のない貸商館で、看板も出ていません」
「相手は?」
「顔は確認しました。港の者ではないと思います」
「追わなくていいです。まず建物を借りている名義だけ調べてください」
「承知しました」
役人が離れる。
机には、リディアが置いていった航海予定表が残っている。
三週間後。
南方酒。
香辛料。
油樽、およそ三十。
俺は最後の一行へ丸を付けた。
油を受けるなら、置き場所だけでは足りない。
火気をどう遠ざけるか。
漏れた時にどこへ流すか。
酒樽と同じ倉庫でいいのか。
次に海燕号が戻ってくるまでに確認することは、もうできていた。
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