第2話 帳簿にない船
「港の帳簿には載っていません」
ユリウスの言葉を聞き、俺は南側の小舟溜まりへ目を向けた。
石積みの岸壁沿いに、大小の小舟が窮屈そうに並んでいる。漁に使う細身の船、沖合の商船へ人や荷を運ぶ平底船、船体補修用らしい幅広の作業船まである。
昨日までなら、ただの港の風景として見ていただろう。
今は違った。
この中の一隻が、昨夜《白鴎号》へ向かった可能性がある。それなのに、港務所は誰の船なのかすら把握していない。
「載っていない船があるんですか?」
「正確には、私有の小舟を登録する制度そのものがありません」
ユリウスは言いにくそうに答えた。
「港務所所有の七隻は記録しております。商会の連絡船も、大きなものなら把握していますが……漁師や酒場、荷運び屋が持つ小舟までは」
「夜中に出しても?」
「夜漁へ向かう者もおりますので、届け出は求めていません」
「乗っている人間も、行き先も分からない」
「事故があれば、家族や仲間から知らせが来ます」
ユリウス自身、そこまで口にして顔をしかめた。
「……起きた後に分かる仕組みですな」
「そういう仕組みは、平時には安上がりなんですよ」
俺は岸壁へ歩き出した。
「実際に何隻あるのか数えましょう。規則を作るのはその後です」
「先に決めないのですか?」
「現場を知らずに決めれば、守れない規則が一冊増えます」
王都でも何度か見た。
会議室では美しい手順なのに、倉庫へ持っていけば三日で破綻する。
人が悪いのではない。
そもそも仕事の流れに合っていないのだ。
南の小舟溜まりでは、ロイが二人の男を連れて待っていた。
「旦那、詳しいのを連れてきました」
片方は五十代ほどの痩せた男で、日に焼けた顔に白い髭が混じっている。もう一人は二十歳そこそこだ。
「こっちがハンス。三十年くらい漁師をやってる爺さんで、若い方が甥のニコです」
「爺さんはいらん」
ハンスがロイを睨んだ。
「三十年海にいりゃ十分爺さんだろ」
「お前より働ける」
「それは俺が港で働いてるからだ」
「二人とも、その続きは船を数えながらお願いします」
俺が割って入ると、ニコが小さく笑った。
ハンスは俺の服を一度見たが、貴族相手だからと急に腰を低くする様子はない。
「船を全部調べるって話でしたな」
「持ち主と用途まで分かれば助かります」
「賃金は?」
「半日で終われば半日分。一日なら一日分」
「なら働きましょう」
即答だった。
「気に入りました」
「何がです?」
「無駄な挨拶がないところです」
「金の出る仕事で挨拶ばかりしてたら、日が暮れますからな」
それもそうだ。
端から順に確認を始める。
一隻目は漁師三人の共同所有。
二隻目は魚問屋。
三隻目は港務所の連絡船。
四隻目は船大工が修理作業に使う船だった。
「これは?」
俺が黒く塗られた細身の小舟を指すと、ハンスが船尾を見る前に答えた。
「《赤壺亭》の親父の船だ」
「酒場が船を持っているんですか?」
ユリウスが聞く。
「沖に停まった船へ酒樽を運ぶんだよ。客を拾って帰ることもある」
ロイが鼻を鳴らした。
「高いぞ。陸の三倍取る」
「舟賃込みだ」
「酒より舟賃の方が高いだろ」
白鴎号へ酒を売りに行った者がいたことを考えれば、こうした商売そのものを禁止する気はない。
需要があるから仕事になっている。
問題は、誰がいつ出たのか分からないことだ。
六隻目、七隻目と進み、十隻を越えたところで、ハンスが一隻の前で足を止めた。
「こいつは知らんな」
幅はそれほどないが、船底が深い。櫂は四本。帆柱を立てた跡はなかった。
「漁師の船では?」
「こんな造りにしたら網が扱いにくい。荷運びだろうな」
ニコが係留索を持ち上げる。
「縄は新しいですね。船体は古いのに」
ハンスは船縁へ手を掛け、少し揺らした。
「妙に重いな。雨水が溜まってる」
確かに、他の船より船腹が水面へ沈んでいる。
「沈みかけるほどですか?」
「そこまではいかんが、このまま放っとくと傷む。水だけ抜いていいですかい?」
「船体を壊さない範囲でお願いします」
ニコが柄杓を取りに行き、ハンスと二人で船底の水を汲み始めた。
俺たちはその間も確認を続けた。
商会所有。
漁師所有。
荷運び屋。
船大工。
酒場。
午前中いっぱいかけて、小舟溜まりと隣の漁船岸壁を回る。
所有者まで確認できた船は二十六隻。
港務所が七隻、商会が五隻、漁師が九隻。それ以外に酒場や船大工、荷運び業者などが五隻。
そして、所有者が分からない船が一隻。
「合計二十七隻です」
ユリウスが手帳へ最後の線を入れた。
「今まで二十七隻あることすら知らなかったわけですな」
ロイが岸壁を見渡した。
「毎日見てても、数えねえもんだな」
「必要がなければそんなものですよ」
俺も前世で似た経験がある。
いつも置いてある台車が何台あるか、実際に棚卸しするまで誰も正確に知らない。使えている間は、それでも仕事が回ってしまう。
問題は、事故や盗難が起きた時だった。
「セドリック様」
船の水を抜いていたニコが呼んだ。
「ちょっと見てもらえますか」
例の持ち主不明船だった。
船底の水はかなり減っている。その中央で、ニコが浮きかけていた床板を持ち上げていた。
「水を抜いていたら、板の隙間に何か光る物があって」
板の下から出てきたのは、指二本分ほどの細い鉛札だった。
表には記号と数字が刻まれている。
ユリウスが受け取る。
「倉庫札に似ています」
「似ている?」
「港務所の倉庫へ荷を預けた際に渡す札です。ただ、番号だけではどこの物か分かりません。台帳と照合しましょう」
「そうしてください」
ここで持ち主不明船と白鴎号を結びつける理由はない。
札も、以前運んだ荷から落ちたのかもしれない。
怪しいからといって、都合よく答えを決めれば判断を誤る。
昼前、港務所へ戻った。
壁には大きな紙を一枚貼らせた。
船の種類、所有者、主な用途、普段の係留場所。
所有者が分かった二十六隻を記入し、最後の一行だけは空欄にしてある。
「これを毎朝書き直すんですか?」
若い役人が尋ねた。
「所有者か船が変わった時だけでいいですよ。毎日同じことを書かせても仕事が増えるだけです」
「夜に出る船はどうします?」
今度はユリウスが、古い帳面を一冊机へ置いた。
「使っていない入庫帳があります。紙はかなり残っています」
「十分です」
必要なのは立派な書式ではない。
俺は見本として一行だけ書いた。
時刻。
船。
乗る者。
行き先。
帰港予定。
「字を書けない者もいます」
「夜番が代筆してください。本人には印だけ付けてもらえばいい」
「手数料は?」
「取りません」
若い役人が意外そうな顔をした。
「無料で?」
「最初から金を取れば、書かずに出る理由をこちらで作ることになります」
漁師からすれば、昨日まで自由だったことだ。
いきなり許可制にして金まで取れば、反発する方が自然だろう。
まず記録する。
誰が海へ出ているのか分かる状態を作る。
規制が必要かどうかは、その後で判断すればいい。
「今夜から始めましょう」
ユリウスが帳面を閉じる。
「夜番には私から説明します。朝方に帰る漁師が多いので、帰港時刻も付けさせましょう」
「お願いします」
一つ決まった。
派手ではない。
それでも今夜から、誰かが沖で帰らなくなった時に「どの船で、どこへ行ったのか分からない」という状態は減る。
それで十分だ。
「セドリック様」
朝から神殿へ出していた役人が港務所へ入ってきた。
後ろには、灰色の法衣を着た年嵩の女性がいる。
「白鴎号の船長から話を聞けました」
俺たちは机を空けた。
役人が書き取った紙を広げる。
「発熱した十一名の多くに腹痛と激しい吐き下しがあります。咳と発疹は、今のところ確認されていません」
「患者の仕事は?」
「最初に倒れたのは水夫。その後、厨房係、甲板員にも出ています」
俺は癒し手へ尋ねた。
「どう見ます?」
「まだ病名は決められません。ただ、今聞いている限りでは、同じ水か食事を口にした可能性を先に調べたいところです」
「船の水は?」
「臭いがおかしくなった樽が一つあって、三日前から使っていないそうです」
「患者が出たのは五日前でしたね」
「ええ。その樽をいつから飲んでいたか、船長に確認させています」
やはり専門家に任せて正解だった。
前世の知識があるからといって、俺は医者ではない。
俺が口を挟むべきなのは、人と物の動きを止めるところまでだ。
「船へは?」
「まだ上がっていません。患者が増えるようなら直接診ますが、今は船員同士をできるだけ分け、問題の水樽を触らせないよう頼みました」
「それでお願いします」
「それと、町で倒れた酒売りですが」
「バルドですね」
女性は呆れたような顔になった。
「二日酔いと脱水です。昨日から飲み続けた上に、朝から暑い場所で荷を運んでいたそうで」
ユリウスが額へ手を当てた。
近くにいたロイは遠慮なく笑う。
「あの馬鹿、疫病より酒で倒れたのか」
「本人は笑える状態ではありませんでしたよ」
「白鴎号との接触は?」
俺が聞くと、同行した役人が答えた。
「認めました。昨夜、小舟で酒と干し肉を売りに行ったそうです。ただ、白鴎号には上がらず、向こうの船員三人が小舟へ降りてきたと」
「その三人の状態は?」
「船長へ確認中です」
完全に切り離せる段階ではない。
「家族への外出制限は解除しましょう。バルド本人は、その三人の状態が分かるまで店を休ませてください。家族も体調に変化があればすぐ神殿へ」
「承知しました」
「本人は文句を言いますよ」
ロイが口を挟む。
「元気になったら俺のところへ来てもらえばいいです」
「今は?」
「桶と仲良くしてます」
癒し手が淡々と言った。
ロイがまた笑い出した。
緊張していた港務所の空気が少しだけ緩む。
町側で新たな発症者が出た可能性は、一度消えた。
だからといって白鴎号への警戒を緩める理由にはならない。
そこを混ぜないことが大事だった。
外から荷車の音が聞こえ、カルヴァ商会の手代が書類束を抱えて入ってきた。
「白鴎号の積荷目録をお持ちしました!」
ずいぶん早い。
デニスも船を止められたままでは商売にならないのだろう。
目録を開く。
胡椒、生糖、藍染料、乾燥果実、薬草、南方木材。
かなりの量だ。
「ユリウスさん。白鴎号の入港料は?」
「船格で決まります。白鴎号なら銀貨八枚です」
「積荷にかかる税は別ですね」
「ええ。こちらは荷の種類と申告額によって変わります」
「申告内容は港務所で確認していますか?」
「数量は荷役時に見ます。ただし価格までは商会側の申告が基本です」
「抜き取りで確かめる決まりは?」
「ありません」
なるほど。
入港料そのものは単純だ。
問題は積荷側。
だが今ここで税制度まで触れば、白鴎号の処理、小舟の登録、倉庫の確認が全部中途半端になる。
「そこは後で資料を見せてください。今日は白鴎号の荷を傷めずに待たせる方法を優先します」
「承知しました」
デニスの手代へ向き直る。
「生糖と染料について、船にどれくらい置けるのか商会側の見立ても欲しい。荷を降ろせるようになった時、優先順位を決めます」
「すぐ確認します」
手代が出ていったところで、ユリウスが思い出したように鉛札を取り出した。
「先ほどの札ですが、台帳と照合しました」
その表情から、良い報告ではないと分かった。
「第三倉庫で使っている札と同じ型です」
「番号は?」
「第三倉庫の現行台帳にはありません」
「昔の札という可能性は?」
「過去二年分も見ましたが、同じ番号はありませんでした」
俺は札を受け取った。
細工は粗くない。
少なくとも、その場しのぎで削った物には見えなかった。
「第三倉庫の札は、誰が作っています?」
「港務所です。番号を刻んだ後、倉庫番へ必要数だけ渡します」
「未使用分は?」
「港務所の保管庫にあります」
「数は合っていますか?」
ユリウスが止まった。
「……そこまでは確認していません」
「では確認しましょう」
数分後。
保管箱を開け、台帳と実物を並べた。
不足はなかった。
少なくとも、港務所の未使用札が一枚抜かれたわけではない。
となれば、誰かが同じ型を真似て作った可能性が出てくる。
「第三倉庫も見ておいた方がよさそうですね」
「倉庫番を呼びます」
使いに出した若い役人は、思ったより早く戻ってきた。
ただし、一人だった。
「倉庫番がいません」
ユリウスの表情が変わる。
「勤務日のはずだぞ」
「家にも人をやりましたが、朝から戻っていないそうです」
俺は立ち上がった。
持ち主の分からない小舟。
港務所の台帳にはない倉庫札。
勤務日に姿を消した倉庫番。
並べれば怪しい。
だが、まだ何も決まっていない。
「第三倉庫の予備鍵は?」
「私が持っています」
「開けましょう。先に中身を確認します」
ロイが面白そうにこちらを見る。
「俺も?」
「小舟の一覧を仕上げてもらえますか。持ち主不明の一隻は、勝手に動かされないよう縄を一本追加しておいてください」
「はいはい。面白い方は偉い人の仕事ってことね」
「その代わり、今日から夜に船を出す時は名前を書いてもらいます」
「……そっちを先に言われると、全然羨ましくないな」
ハンスが鼻で笑った。
「お前は字を書けるだろ」
「書けるけど面倒なんだよ」
「帰ってこなかった時に探してほしくなければ書かんでいい」
「書くわ」
これなら、現場でも回りそうだ。
第三倉庫は港務所から歩いて数分の場所にある。
石壁に木造の屋根を載せた大きな建物で、海側には荷車二台が並べる程度の空間がある。
正面扉には鍵が掛かっていた。
封印はない。
「開けます」
ユリウスが予備鍵を差し込み、重い扉を押した。
湿った木と香辛料の匂いが流れてくる。
中は薄暗い。
壁際には樽と木箱、中央には麻袋が積まれていた。
俺は入口で足を止める。
「台帳では、ここに何が入っていることになっています?」
「確認します」
ユリウスが持ってきた倉庫台帳を開く。
「塩漬け魚が十二樽。北方麦が三十二袋。陶器が六箱。ほかに――」
「その奥は?」
俺が指した。
倉庫の最奥。
粗末な布を掛けた荷の山がある。
ユリウスがページをめくる手を止めた。
「……あれに相当する荷はありません」
布を勝手に剥がす前に、俺は周囲を確認した。
「二人で見ましょう。あとで『無かった』『増えた』にならないように」
「分かりました」
ユリウスが役人を一人呼び、中に入れる。
三人で布を外した。
下から出てきたのは、小ぶりな木箱が十八。
どれも同じ焼印が押されている。
「見覚えは?」
「ありません」
ユリウスが一箱の側面を確かめる。
「倉庫番号も、納入札もない」
「開けられますか」
「港務規則上、未申告の保管物なら確認できます」
「ではお願いします」
釘を抜き、蓋を持ち上げる。
中に入っていたのは、布で包まれた青い鉱石だった。
握り拳ほどの大きさ。
表面に細い光が走っている。
俺には種類が分からない。
だがユリウスには分かったらしい。
「魔晶石です」
「高いですか?」
「純度によりますが、安物ではありません」
それだけで十分だった。
この港が貧しいから税収が落ちている。
そう聞かされて戻ってきた。
ところが現実には、港務所が存在すら知らない船が動き、記録にない札が使われ、帳簿にない荷が倉庫へ入っている。
金がない以前の問題だった。
「箱はこのまま封印しましょう。数量を数えて、倉庫内の他の荷も台帳と照合してください」
「倉庫番は?」
「探します。ただし、見つけても最初から犯人扱いはしないでください。鍵が三本あるなら、本人だけで出し入れしたとは限らない」
ユリウスが俺を見る。
「こういう時でも慎重なのですね」
「間違った相手を捕まえると、本当にやった人間が喜びますから」
それに、港を立て直すなら一人を吊るして終わりにはできない。
誰が抜いたか。
どうやって運んだか。
なぜ記録を通らなかったか。
同じことを明日できないようにして、ようやく仕事が終わる。
倉庫の外へ出ると、南側の小舟溜まりが見えた。
ロイたちが、所有者の分かった船へ札を結び始めている。
港務所の入口では、若い役人が今夜から使う出港帳を夜番へ説明していた。
沖の白鴎号へは、東桟橋から二度目の水と食料を積んだ小舟が向かっている。
朝にはなかったものが、三つ増えた。
補給の導線。
小舟の一覧。
夜間出港の記録。
それだけで港が立派になったわけではない。
だが、今まで見えなかった十八箱が見えるようになった。
仕組みを整える意味としては、それで十分だった。
「ユリウスさん」
「はい」
「明日の朝、倉庫番全員を集めましょう。鍵と荷札と台帳の扱いを、一度全部洗います」
「第三倉庫だけではなく?」
「同じやり方なら、ここだけ直しても場所を変えるだけでしょう」
ユリウスが頷き、手帳を開く。
「では第一から第五倉庫まで。倉庫番は七名です」
「お願いします。あと、白鴎号の患者の報告が来たら最優先で」
「承知しました」
俺はもう一度、第三倉庫へ目を向けた。
潰れかけの港を任されたとは聞いていた。
どうやら兄は、一言足りなかったらしい。
潰れかけているだけなら、まだ話は簡単だった。
ここはまず、何がどこから漏れているのかを確かめるところから始めなければならない。




