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『潰れかけの辺境港を任された元港湾責任者、検疫と荷役を立て直したら世界一の交易都市になった』  作者: あちゅ和尚


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第1話 その船を岸につけるな

「その船を岸につけるな」


 港務代官として、俺が最初に出した命令がそれだった。


 朝靄の向こう、港口から少し離れた海上に三本マストの大型商船が停泊している。


 船名は《白鴎号》。


 船首の索具には、救援を求める黄色い布が結ばれていた。


「乗員七十四名。そのうち発熱している者が十一名、死者が二名。最初の患者が出たのは五日前だそうです」


 港務主任のユリウス・ベルンが、届いたばかりの報告書を読み上げた。


 三十代後半。濃茶の髪を乱れなく撫でつけた、いかにも役人らしい男だ。


 昨日、兄エドガーから港の管理を引き継いだ際に紹介されたばかりだが、数字を覚えるのは早い。今朝も俺が港務所へ着くより先に人夫と荷車の手配を終えていた。


 だからこそ、聞いておかなければならない。


「症状は熱だけですか?」


「そこまで確認できていません。船から来た小舟の者も、詳しくは知らないと」


「誰か白鴎号へ乗りましたか?」


「港務所からは出していません」


 それなら、まだいい。


 俺は岸壁へ目を向けた。


 荷役人夫が四十人ほど集められ、荷車が十数台並んでいる。その向こうでは商会の手代たちがしきりに沖を気にしていた。


 白鴎号は南方から香辛料、染料、生糖を運んできた交易船だ。


 本来なら、日の出とともに接岸して荷降ろしを始める予定だったらしい。


「病人は船内に残します」


 背後から声がした。


 振り返ると、上等な外套を羽織った太った男が歩いてくる。


 デニス・カルヴァ。


 この港でも指折りの商人で、白鴎号の積荷のかなりの部分を買い付けている。


「健康な船員だけ甲板へ出し、こちらの人夫で荷を降ろす。それなら問題はないでしょう」


「その健康な船員が、本当に感染していないと確認できていますか?」


 デニスは一瞬だけ言葉に詰まった。


「……熱がない者です」


「それしか分かっていないわけですね」


 責めたいわけじゃない。


 分からないことを、分かったものとして扱う方が危険なのだ。


「白鴎号は沖止めを継続します。こちらから確認用の小舟を一隻出しましょう。ただし乗り移らない。船長を甲板へ呼び、距離を取って話を聞く」


 ユリウスはすぐ手帳を開いた。


「発症日と症状、寄港地、補給した水と食料、患者の寝床ですね」


「それに、最初に倒れた者の仕事も。厨房、水樽、船倉のどこを担当していたかで見る場所が変わります」


「分かりました。咳、発疹、吐き下しの有無も確認させます」


「お願いします」


 話が早い。


 王都で十年近く海運と補給の仕事をしてきたが、こういう相手が一人いるだけで現場はずいぶん違う。


 前世でも同じだった。


 三浦誠司、四十七歳。


 大規模港湾で荷役から仕事を始め、倉庫、安全管理、危険物、船会社との調整、人員配置を経験し、最後はターミナル全体の運営を預かっていた。


 大型台風への対応を終えた翌朝、自宅で心臓が止まるまでは。


 次に生まれた時、俺はハルデン子爵家の次男セドリックになっていた。


 それから二十九年。


 この世界の船も、魔法も、商売も知った。


 だから、前世のやり方をそのまま押しつける気はない。


 病人を治すのは癒し手の仕事だ。


 港務を預かる俺が先にやるべきなのは、誰が病気なのかも分からない段階で接触を増やさないことだった。


「人夫はいったん作業待機を解除してください」


 俺が言うと、岸壁からざわめきが起こった。


 四十人もの男が集まっている。今日の稼ぎを当てにして来た者も多いだろう。


 案の定、一人がこちらへ進み出た。


「旦那、白鴎号が駄目なら俺たちの今日の仕事は?」


 日に焼けた四十前後の男だ。


「名前は?」


「ロイです。ここの人夫をまとめてます」


 ちょうどいい。


「ロイさん。今日は帰って構いません。ただし、呼び出した分として半日分の賃金は港から出します」


 ざわめきが別のものに変わった。


 今度はユリウスが手帳から顔を上げる。


「港務予備費を使われますか?」


「残りは?」


「銀貨百二十枚ほどです。四十人へ半日分なら銀貨六枚余り。港務代官の緊急支出の範囲には収まります」


「では、そこから」


 デニスが眉をひそめた。


「まだ病がうつると決まったわけでもないのに、六枚ですか」


「熟練の人夫を何十人も倒した後で穴を埋めるより安いですよ」


 港は腕力だけでは動かない。


 荷の重心を読める者、縄を扱える者、船と岸壁の動きを見て吊り荷を誘導できる者。人夫と一括りにされていても、経験には差がある。


 人間を一人休ませる費用と、倒してから補充する費用は同じではない。


「ロイさん。今日集まった人の名前をユリウスさんへ渡してください。勝手に船へ近づかないようにも伝えてもらえますか」


「金をもらえるなら文句はありません。俺から言っときます」


「助かります」


 ロイが仲間の方へ戻っていく。


 ユリウスはその背中を見送ってから沖へ目を向けた。


「白鴎号には水と食料が必要でしょう。東の古い荷役桟橋を、補給用の小舟専用に切り離してはいかがです?」


 俺は彼を見る。


「昨日見た、倉庫の裏手にある桟橋ですね」


「ええ。大型船は着けられませんが、小舟なら使えます。通路も一本ですから、一般の荷役と分離できます」


「それでいきましょう」


 白鴎号をその桟橋へ入れるわけではない。


 船は沖に留めたまま、東桟橋から補給用の小舟だけを往復させる。


「水樽と食料を積んだら、白鴎号の横まで運ぶ。こちらの者は船へ上がらない。綱を渡して、積荷は向こうで引き上げてもらいます」


「空樽は?」


「今は回収しません。こちらへ戻す物を増やしたくない」


 ユリウスが頷き、続ける。


「東桟橋で使った荷車や縄も、当面ほかの荷役へ回さないよう印を付けておきます」


 思わず彼の顔を見た。


「そこまでやってもらえるなら助かります」


「何を警戒しているかは理解できましたから」


 いい。


 全部こちらが指示しなくても、一度目的を共有すれば考えて動ける。


 港を一人で管理するつもりはない。そんなことをすれば、前世と同じことを繰り返す。


「神殿にも使いを出します」


 ユリウスが言った。


「癒し手を二人。まずは小舟から患者の状態を聞かせ、直接診察が必要なら方法を考える。それでよろしいですね?」


「お願いします。乗船することになった場合は、戻った後にそのまま町を歩かせないようにしましょう。着替えと洗浄場所も東側に用意してください」


「承知しました」


 治癒魔法は便利だ。


 傷を塞ぎ、骨折の治りを早め、一部の毒や病にも効果がある。


 だが、すべての病を消してくれるわけではない。


 原因が分からないなら、魔法がある世界でも最初に必要なのは距離と記録だった。


「重症者を船から降ろす必要が出た場合は、北の石材置き場を使えませんか」


 俺が尋ねると、ユリウスが少し考えた。


「三年前から使っていません。古い資材小屋が一棟残っています」


「井戸は?」


「ありません。町の北門から荷車で水を運ぶ必要があります」


「むしろ都合がいい。飲み水を別管理できます。寝台を十二、水樽と桶も専用で。便所穴は水を置く場所から離してください」


「人手はこちらで手配します。ただ、世話役まで日替わりにすると接触する人数が増えますね」


「固定しましょう。人数は少なく、交代時刻を決める」


 ユリウスが手帳へ書き込んだ。


 隣で聞いていたデニスが、ようやく口を開く。


「随分と大がかりですな」


「使わずに済めば、それが一番です」


「白鴎号の荷はいつ降ろせます?」


「癒し手の見立てと、船内の状況を確認してから決めます」


「三日も止められれば、こちらも損が出る」


「分かっています。だから確認を急がせています」


 俺はそこで言葉を切った。


「デニスさんにも手伝ってもらえますか」


「私が?」


「白鴎号の積荷目録を港務所へ。どの商会が何を買う予定だったかも欲しい。荷を長く船に置けない品があるなら先に把握しておきたい」


 デニスの目つきが少し変わった。


 追い払われると思っていたのかもしれない。


「……生糖は急いだ方がいい。染料の一部も湿気を嫌います」


「なら、その順番で確認しましょう。病気と積荷は別々に処理します」


「分かりました。手代に持ってこさせます」


 不満そうではあるが、仕事には戻った。


 商人には商人の都合がある。


 それを無視して正論だけ通せば、次から船が来なくなる。


 安全を守りながら船を回す。


 そこまでできて初めて港湾管理だ。


 ようやく指示が一巡したところで、港務所の若い役人が走ってきた。


「主任!」


 顔色が悪い。


「南市場で人が倒れました。高熱です」


 周囲の空気が止まった。


 ユリウスが最初に口を開く。


「誰だ」


「酒売りのバルドです。今朝、店を開けた直後に倒れたそうで……」


 白鴎号はまだ一度も接岸していない。


 正式な荷役も始まっていない。


 それなのに、町側で発熱者が出た。


「家族は?」


「妻と息子が一人」


「店から出さないよう伝えてください」


 俺は若い役人へ言った。


「ただし、勝手に病名を決めない。発熱者が出た事実は隠さず、癒し手が確認するまで周囲を近づけないように」


「はい!」


 役人が走り出そうとしたところで呼び止める。


「もう一つ。白鴎号が沖へ来たのは昨日の夕方でしたね」


「そうです」


「それから今まで、港側から船へ近づいた人間はいませんか?」


 若い役人が固まった。


 ユリウスの目が細くなる。


「答えろ」


「港務所の船は出していません。ただ……」


「ただ?」


「夜に、小舟を出した連中がいたという話が」


「誰です」


「酒売りが二人と、その手伝い。それから娼館の女が何人か。沖の船員へ酒と食い物を売りに行ったらしいです」


 デニスが低く息を吐いた。


 俺は沖に浮かぶ白鴎号を見る。


 接岸を止めればいい。


 そういう問題ではなかったらしい。


「夜番は気づかなかったんですか?」


 ユリウスの顔が険しくなる。


「南の小舟溜まりは港務所から死角になります。巡回はしていますが、夜中ずっと見張っているわけでは……」


 言い訳をしている声ではなかった。


 事実を並べている。


「小舟は何隻あります?」


「港務所所有が七隻。商会や漁師の私有船までは、正確な数を把握していません」


「昨日、誰が港を出たかの記録は?」


「ありません」


 それで十分だった。


 俺は昨日一日、この港を歩いた。


 崩れかけた桟橋。


 倉庫ごとに違う荷札。


 危険物と食料を隣り合わせで置く船倉。


 人夫の雇用記録は日によって形式が違い、荷車の待機場所も決まっていない。


 商船が減ったせいで金がないのだと思っていた。


 それだけではない。


 誰が港へ入り、誰が出たのか。


 どの船が何を運び、どこへ置いたのか。


 誰が責任を持っているのか。


 肝心なところほど記録も管理も抜け落ちている。


 貧しいから管理できないのではなく、管理できていないから失っているものも相当ある。


「ユリウスさん。まず昨夜船へ行った人間を全員探しましょう。本人、その家族、今朝になってから接触した相手まで確認します」


「港務所の者を半分回します」


「通常の入出港業務が止まりませんか?」


「今日は白鴎号以外に大型船は二隻です。残り半分で回せます」


「ではお願いします」


 ユリウスは若い役人を呼び止め、数人の名前を挙げて指示を出し始めた。


 俺はロイへ向き直る。


「人夫の中で、この辺りの小舟に詳しい人を二人借りられますか」


「漁師上がりがいます」


「午後の仕事として賃金は出します。港にある小舟を数えたい。持ち主と、普段どこへ置いているかもです」


 ロイは一度沖を見てから、俺へ頷いた。


「分かりました。二人連れてきます」


 これで当面、人は動く。


 次は記録だ。


 今夜から小舟の出港を記録させる。夜間は港務所への届け出を必須にする必要があるだろう。


 だが、規則を書くだけでは意味がない。


 見張る人間、記録する場所、破った時の扱いまで決めなければ、紙が一枚増えるだけだ。


 やることは多い。


 それでも、不思議と嫌ではなかった。


 港という場所は、船だけを相手にしているようで、実際には人、荷、金、時間、道路、倉庫、情報が全部つながっている。


 一か所詰まれば、別の場所まで止まる。


 逆に言えば、詰まりを一つずつ取っていけば、港は動き始める。


 沖では白鴎号が、まだ黄色い布を掲げたまま揺れていた。


 着任早々、とんでもない船が来たと思った。


 今は少し見方が変わっている。


 あの船は、この港に問題を持ち込んだだけではない。


 ずっと前からここにあった問題を、見えるところまで引っ張り出してくれた。


「セドリック様」


 ユリウスが戻ってくる。


「昨夜の小舟ですが、一隻はバルドが借りた物だと分かりました。もう一隻あります」


「持ち主は?」


「港の帳簿には載っていません」


 俺はしばらく黙ってから、昨日兄にもらった港務所の鍵束を握り直した。


 どうやら、船一隻を隔離して終わる初日ではないらしい。


「では、その一隻から調べましょう」


 白鴎号の向こうで、朝靄が完全に晴れた。


 港の全景が見える。


 壊れた桟橋も、傾いた倉庫も、狭い岸壁に無造作に積まれた荷も。


 これから自分が任される仕事の量まで、よく見えた気がした。



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