第13話 航路を東へずらせ
「昔の航路を掘り直すのは、いったんやめます」
港口を測り終えた俺がそう言うと、ユリウスは地図から顔を上げた。
「まだ工事費も出していませんが」
「だからです。いくら掛かるか分からない工事を、先にやると決めたくありません」
昨日、暁星号が浅瀬へ乗り上げた。
古い航路標の間を正しく通った船が、だ。
今日は港の午前業務を済ませたあと、昨日と同じく潮が最も低くなる時刻へ合わせ、ハンスたちと港口へ出ていた。
小舟は二艘。
ハンスとニコ。
俺とユリウス、それに図を書かせるためニールも連れている。
測深値は、港務所前の古い石段に刻まれた基準線へ合わせる。
昔の水深図も同じ基準だった。
これなら、一年八ヶ月前と今日の数字を直接比較できる。
「もう一度、そこ」
ハンスが指した。
ニコが重りの付いた測り縄を落とす。
縄が止まる。
目盛りを読む。
「さっきと同じ!」
ニールが紙へ書き込んだ。
暁星号が乗り上げた地点だけではない。
古い航路の西側から中央にかけて、以前より明らかに浅くなっている。
重りの底には細かな砂と泥。
岩が隆起したわけではない。
「こっちは?」
「昔よりかなり浅いです」
ニールが古い数字と並べる。
「次は東へ」
ハンスが小舟を動かした。
数十歩分ずらして、また測る。
深い。
さらに先も測る。
そこも深い。
「もう少し外側」
「はい!」
ニコが楽しそうに縄を投げる。
若いだけあって、朝から何度やっても動きが鈍らない。
点が増えるにつれ、港口の形が紙の上へ浮かんできた。
古い航路より少し東。
十分な深さを保った帯が、港外から内側まで続いている。
「地元の漁師が通っていたところですね」
ユリウスが言った。
「だな」
ハンスが答える。
「俺たちは何年も前から自然にこっちへ寄ってた」
「なぜ港務所へ言わなかったんです?」
「言うほどのことだと思ってなかった」
ハンスは悪びれず、海面を指した。
「小さい船なら、底の色や波を見りゃ分かる。漁師仲間もみんな避けてたからな」
そこが問題だった。
地元の人間には常識になり、役所の記録だけが古いまま残る。
昨日の暁星号は初入港だった。
海面の癖など知らない。
だから港が立てた標識を信じた。
「ここを新しい航路にすればいいんじゃない?」
ニコが言う。
「深さだけならな」
ハンスは小舟から木片を落とした。
潮はもう底を過ぎ、ゆっくり上がり始めている。
木片は真っすぐ港内へ流れず、少し南へずれた。
「流れ?」
ニールが聞く。
「ああ。東へ寄りすぎると、上げ潮で船首を持っていかれる。向こうには別の浅いところもある」
「つまり、深い場所の真ん中を線で結べば終わりじゃない」
「大きい船ならな」
ハンスは一ヶ所を指した。
「外からここまでは東へ寄せる。その先で船首を戻す。昨日くらいの船なら、その方が楽だ」
「幅も測りましょう」
俺は言った。
「一本の線じゃなく、その左右にどれくらい余裕があるか知りたい」
ユリウスが頷く。
「船が少し流されても底を擦らない範囲ですな」
「そうです」
追加で測る。
航路候補の左右。
外側。
内側。
ハンスの見立て通り、十分な幅が取れる区間はあった。
ただし真っすぐではない。
港外から少し東へ寄り、途中で緩く西へ戻す必要がある。
昼を回る頃には、今日確認すべき範囲をほぼ測り終えた。
港務所へ戻り、古い図と今日の図を机へ並べる。
違いは誰の目にも分かった。
「砂が随分出てますね」
ニールが西側を指す。
「少なくとも、ここが昔より浅くなったことは確かです」
俺は答えた。
「いつ、どの嵐で、どれくらいずつ動いたかまでは分からないけど」
ハンスが椅子へ腰を下ろした。
「少しずつだと思うぞ。昔はあっちでも普通に通れた」
「戻せるんですか?」
ユリウスが聞く。
「砂を掘れば」
俺は図を見る。
「ただし、どれだけ掘る必要があるか分かりません」
幅。
長さ。
深さ。
掘った砂泥をどこへ持っていくか。
作業中に船をどう通すか。
それだけではない。
「一度掘っても、同じ流れならまた溜まる可能性があります」
ハンスも頷いた。
「大嵐の後なんか、底は結構変わる」
そこへ扉が開いた。
デニス・カルヴァだった。
「港口を掘り直すという話を聞いたんですが」
「誰からです?」
「人夫から」
「まだ決めてません」
「船が座礁したのでしょう?」
「しました」
「なら直すべきでは?」
「使える航路が別にあります」
今日の図を見せる。
デニスは商人だが、船荷を扱っているだけあって地図を見るのは早い。
「東へずらす?」
「当面は」
「遠回りになりませんか?」
「船数隻分くらいの距離です」
「なら大した差ではない」
「だから先にこっちを使います」
デニスが古い航路を見る。
「元へ戻さないんですか」
「必要になれば戻します」
「必要になれば?」
「船が増えて、東側の航路だけでは足りなくなった時です。その時なら浚渫へ金を掛ける理由があります」
今の港はまだそこまで混んでいない。
使える深水域があるのに、昔の線へ戻すこと自体を目的にして大金を投じる理由は薄い。
「昔そうだったから、では工事費は出ません」
デニスが笑った。
「商人みたいなことを言いますね」
「金を使う側ですから」
「なら、船主にはどう説明するんです?」
そこはすでに考えていた。
「当面、初入港船と喫水の深い船には案内船を付けます」
昨日から始めた暫定運用を続ける。
古い航路標はそのまま航路目印として使わせない。
上部を布で完全に覆い、港外からでも無効だと分かるようにする。
「新しい標識は?」
ユリウスが聞く。
「恒久的な杭はまだ打ちません」
「今日測ったでしょう?」
「一日分です」
季節。
風。
潮。
嵐の後。
底は動く。
今日の結果だけで立派な標識を作り、また一年放置したら同じことになる。
「当面は案内船を必須にして、案内役と船長が位置を共有するための仮浮標を置きます」
「船が浮標だけ見て勝手に入るためではない?」
「違います」
そこは明確にした。
「転針する場所を案内役が説明しやすくするためです」
三ヶ所。
港外で東へ寄り始める地点。
内側へ船首を戻し始める地点。
十分深い港内へ入った地点。
浮き樽へ重りを付け、目立つ旗を立てる。
ニールが口を挟んだ。
「白い布に青い太線なら、倉庫にあります」
「見えます?」
ハンスに聞く。
「晴れてりゃ十分。ただ、霧が出たら無理だ」
「その時は?」
「船を待たせろ」
即答だった。
「ですよね」
見えない標識を頼りに入港させる必要はない。
「じゃあ作ってきます!」
ニールが走り出した。
「一人で重りまで運ばないでください!」
「分かってます!」
本当に分かっているか少し不安だ。
午後。
三つの仮浮標が港口へ出された。
古い航路標には黒い布を被せる。
遠くから見ても、以前の目印が使えないことは分かる。
ちょうどその作業が終わった頃、港外から入港を知らせる鐘が鳴った。
中型商船が一隻。
《翠風号》。
この港は初めてだという。
「ちょうどいいな」
ハンスが海を見る。
「試します?」
「案内付きで」
俺たちは案内船を出した。
翠風号の船長グレイヴには、昨日座礁事故があったこと、新しい航路を測定中であることを最初に説明する。
「それなら先に言ってくれ」
グレイヴはそれだけ言った。
「案内が必要なんだな?」
「お願いします。仮浮標だけ見て自力では入らないでください」
「船を壊したくはない。従う」
話が早い。
案内役はハンス。
自分で舵は取らない。
翠風号の船長へ方角と転針位置を伝えるだけだ。
俺とユリウスは岸側から見る。
翠風号が港口へ近づいた。
一つ目の白青旗。
そこから船首が少し東へ向く。
二つ目。
ハンスの合図で、今度は緩く港内側へ戻る。
潮に少し流されても、今日測った深水域からは外れていない。
三つ目を通る。
船体は止まらない。
傾きもしない。
そのまま中央岸壁へ向かった。
「通りましたね」
ユリウスが言う。
「一隻だけです」
「最近そればかりですな」
「一隻通ったら永久に安全、とは言えませんから」
「否定はしません」
しばらくして、ハンスとグレイヴが小舟で戻ってきた。
「どうでした?」
グレイヴが先に答える。
「案内があれば問題ない」
「浮標だけなら?」
「初めて来た船には勧めん。二つ目のところで、いつ船首を戻すか迷う」
予想通りだ。
「当面、初入港船には案内を付けます」
「その方がいい」
ハンスも補足する。
「上げ潮が強い日は、二つ目より少し前から戻した方がよさそうだ」
「図へ入れますか?」
「数字じゃなく注意書きにしろ。潮で変わる」
ユリウスがすぐ書き留めた。
固定された答えではない。
だからこそ、人が見る必要がある。
翠風号の荷役はロイたちへ任せた。
俺たちは港務所で、今後の運用を決める。
毎朝、案内役が港口を見る。
大雨や強風、大きな時化の後には測深する。
普段も一定の間隔で主要地点だけは測る。
ただし、細かい周期まで今日固定しない。
まず実際にどの程度底が動くかを見る。
「案内役は誰にします?」
ユリウスが聞く。
「ハンスさん一人では回りません」
「そりゃ無理だ」
本人が即答する。
「漁師や元船乗りで、港口を知っている人を何人か挙げてもらえますか」
「三、四人ならいる」
「操船資格みたいなものは?」
「そんな立派なもん、この港にはないぞ」
「では最初はハンスさんと実地で通ってもらう。できると判断した人だけ案内役にしましょう」
「俺が決めるのか?」
「港口を一番知っているので」
ハンスは少し考えたあと、頷いた。
「名前は出す。使えるかどうかは見てやる」
「お願いします」
夕方。
古い水深図の横へ、今日の図を掛けた。
二枚を並べると、航路の違いがはっきり分かる。
昔の航路は中央寄り。
今日使った航路は、その東側を曲がりながら通る。
デニスが帰り際にそれを見た。
「結局、掘らないんですね」
「今は」
「船がもっと来るようになったら?」
「その時は、掘った方が何隻多く入れるか計算します」
「それなら商人も納得しやすい」
「工事費を出してくれるなら、さらに納得しやすいですよ」
「それは領主様と相談してください」
「逃げましたね」
「商人ですから」
言い残して出ていった。
窓の外を見る。
古い二本の航路標は黒い布に覆われている。
少し東側には、白と青の仮浮標が三つ。
そのさらに外では、港務所の小舟が一艘待機していた。
机の上には工事の発注書ではなく、今日測った新しい水深図が残った。
その余白にユリウスが一行書き足す。
『初入港船および喫水の深い船は、当面、案内船に従うこと』
俺はその下へ署名した。
明日から船が見る港口は、昨日までとは違う。
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