第12話 潮が戻るまで引くな
「その綱を引くな!」
港口へ着いた時には、二艘の小舟が商船から伸びた太い綱を取っていた。
沖へ引き戻そうとしている。
だが、二本マストの沿岸商船《暁星号》は船首を浅瀬へ乗り上げ、船体をわずかに左舷へ傾けたまま動いていない。
「止めろ! 綱を緩めろ!」
小舟の漕ぎ手が手を止める。
暁星号の甲板から、髭の濃い男が怒鳴った。
「何をしている! 潮が下がっているんだぞ!」
「だから今は引かない!」
「このままじゃ、もっと乗り上げる!」
「底が岩なら、無理に引いた方がひどくなる!」
船長が言葉を止めた。
港務所から一緒に走ってきたユリウスが、書類を開きながら息を整える。
「暁星号。乗員二十七名。荷は麦百二十袋、鉄材四十束。入港申請は正常です」
「浸水は?」
「今のところ報告なしです」
それなら、まだ慌てて船を壊す段階じゃない。
「ハンスさんは?」
「呼びました!」
ニールが答えた直後、港内から一艘の漁船が近づいてきた。
舵を握っているのはハンス。
その横には甥のニコがいる。
「どこから乗った?」
ハンスは挨拶もせず暁星号を見た。
「船首側です。船尾はまだ深みにあります」
「ならなおさら引くな。ニコ、測り縄を出せ」
「分かった!」
ニコが重りの付いた縄を取り出した。
港務所の小舟も一艘出す。
暁星号の船首、左右、船尾へ順に重りを落として水深を測った。
重りの底には脂が塗ってあり、引き上げると細かな砂と黒っぽい泥が付いている。
ハンスが指で確かめた。
「岩じゃない。砂泥だ」
船長が甲板から身を乗り出す。
「なら引けるだろう!」
「今は駄目だ」
ハンスは岸壁の濡れ跡を見た。
「潮はまだ下げてる。もうすぐ一番低くなる。今引けば、船首を砂の上で擦るだけだ」
「では、どうする」
「軽くして、潮が戻るのを待つ」
判断するのは船の方だ。
俺は船長を見上げた。
「一度こちらへ来てもらえますか。荷の抜き方は船長に決めてほしい」
少しして、船長が小舟で岸へ来た。
「オルバンだ」
「港務代官のセドリックです」
「この港は船を早く出せると聞いて来たんだがな」
「今日は入る前で止まりましたね」
「笑えんぞ」
「俺もです」
オルバンは暁星号を睨むように見た。
「鉄材が前寄りだ。麦より先に鉄を抜いた方が船首は軽くなる」
「何束くらい?」
「二十。余裕を見るなら二十四だ」
「左右の釣り合いは?」
「俺が指示する。片側だけ抜くな」
「お願いします」
ユリウスが確認する。
「港務所の小舟は七艘。通常業務を全部止めないなら、四艘まで出せます」
「三艘を荷運びへ。一艘は水深確認と連絡用に残しましょう」
そこへロイが人夫を連れて走ってきた。
「今度は海の上か」
「鉄材二十四束を船から抜きます。船内は暁星号の船員に任せて、こちらは小舟と陸側を」
「分かった。小舟に六人、岸で八人。残りは綱と受け場へ回す」
もう人数の割り振りを始めている。
オルバンがその様子を見る。
「お前が決めるんじゃないのか?」
「人夫を動かすのはロイです。船をどう軽くするかは船長。水深はハンスさんに任せます」
「では、お前は?」
「全員が同じ船を助けているか確認します」
オルバンが鼻で笑った。
「役人らしくないな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
作業が始まった。
暁星号の船員が、前寄りに積んでいた鉄材を指定された順番で出す。
右を抜けば次は左。
小舟へ一度に載せすぎない。
岸へ着いた鉄材は、数量を確認して仮置き場へ積む。
ハンスはその間も水深を測っていた。
「まだ下がってる」
ニコが縄の印を読む。
「さっきより浅い」
「だから引かなくて正解だ」
ハンスが答える。
暁星号の船首は、見た目にはほとんど変わらない。
それでも二十四束を抜けば、船首側の重量は確実に減る。
「最後、二十四!」
ロイの声が上がった。
オルバンが船へ戻り、船内を確認させる。
「浸水なし!」
甲板から返事が来た。
ひとまず船底を破ってはいない。
だが、まだ動かさない。
「次は錨を後ろへ持っていく」
ハンスが言った。
暁星号の予備錨を小舟へ移し、船尾側の十分に深いところまで運ぶ。
そこで落とす。
潮が戻った時、船自身の巻き上げ機で錨綱を巻けば、船尾方向へまっすぐ力を掛けられる。
「小舟でも引っ張るか?」
ニールが尋ねた。
「必要なら補助する」
俺はオルバンを見る。
「そこは船長とハンスさんで決めてください」
オルバンが眉を上げた。
「役人なら『三艘で引け』くらい言うかと思った」
「船の動かし方は船長の仕事です。俺が適当に口を出して船底を壊したら、責任だけ立派に残ります」
「港の中じゃ、お前が責任者だろ」
「だからこそ、詳しい人間に任せます」
オルバンは今度こそ声を立てて笑った。
「そこまで分かってるなら十分だ」
昼を過ぎた。
潮は底を打ち、ゆっくり戻り始める。
ハンスが何度も測り縄を落とした。
最初の一回は首を振る。
「まだだ」
しばらくしてもう一度。
「もう少し待て」
オルバンが落ち着かない様子で甲板を歩く。
「あとどれくらいだ?」
「船を壊すよりは短い」
「それは分かってる」
「なら待て」
ハンスは遠慮がない。
さらに水位が上がったところで、船首側の水深をもう一度測る。
ハンスが縄の印を確認した。
「よし」
オルバンの顔が引き締まる。
「今なら?」
「ああ。ただし一気にやるな」
船員が巻き上げ機へ取り付く。
船尾側へ落とした錨の綱が張った。
補助として二艘の小舟も船尾から綱を取る。
「巻け!」
木製の巻き上げ機が軋んだ。
暁星号の船体も低く鳴る。
最初は動かない。
「そのまま、ゆっくりだ!」
ハンスが叫ぶ。
もう一度綱が張った。
船首の周囲で濁った水が動く。
「少し下がった!」
ニコの声が飛んだ。
「止めるな! 同じ速さで!」
オルバンが船員へ指示する。
巻き上げ機が回る。
小舟も合わせる。
砂泥に載っていた船首が、少しずつ後ろへ滑った。
次の瞬間、暁星号の船体が大きく揺れる。
「浮いた!」
歓声が上がった。
「まだだ! 舵を見る!」
オルバンの怒声がそれを止める。
離礁できても、船底や舵を傷めていれば終わりではない。
暁星号はそのまま岸壁へ入れず、港内の深い場所で錨を下ろした。
船内への浸水を確認。
舵を左右へ切る。
船首側もできる範囲で調べる。
大きな異常は見つからなかった。
オルバンが再び岸へ下りてくる。
「助かった」
「まだ鉄材二十四束が陸にありますよ」
「船が浮いてるなら、それは荷役の問題だ」
「それならうちの仕事です」
ロイが離れたところから、
「聞こえてるぞ!」
と怒鳴った。
オルバンは笑ったが、すぐ港口へ目を戻した。
「それより、あそこはいつからあんなに浅い?」
「確認します」
「確認?」
「こちらも今、気づきました」
オルバンの表情から笑いが消えた。
「俺は航路標の間を通ったぞ」
「間違いなく?」
「初めて入る港で、ほかに何を見る」
ハンスも港口を見る。
二本の航路標は壊れていない。
暁星号は、その間を素直に通った。
「俺たち漁師は、もっと東を通る」
ハンスが言った。
「なぜ?」
「何年か前から西側へ砂が張り出してきた。小さい船なら、東へ寄った方が楽だからな」
「港務所へ報告は?」
ハンスが少し困った顔になる。
「してない」
「なぜです?」
「漁師はみんな知ってると思ってた」
そこだった。
地元の漁船は、標識ではなく経験で浅瀬を避けていた。
だから事故が起きない。
たまに来る商船も、以前来たことがあれば船長が進路を覚えている。
初めて来た暁星号だけが、港が正式に置いている航路標を信じた。
「ユリウスさん」
「戻ったら水深記録を確認します」
港務所へ戻り、古い港口図を出した。
端には、水深を記録した日付がある。
「一年と八ヶ月前です」
「基準は?」
「一番潮が低い時を基準にした水深です」
それなら今日の測定と比較できる。
今日はちょうど干潮付近まで下がった。
古い図では、暁星号が乗り上げた場所にも十分な水深があることになっている。
「その後の測定は?」
ユリウスが帳簿を何冊か確認した。
「ありません」
オルバンも横から図を覗く。
「一年八ヶ月、この数字で船を入れてたのか?」
「地元船は経験で別の場所を通っていたようです」
「俺は初めてだ」
「そこはこちらの落ち度です」
誤魔化しようがない。
「今日の救助費用は?」
オルバンが聞く。
「人夫、小舟、鉄材を一度降ろした分もある」
「座礁で余計に掛かった救助作業については港側で持ちます」
ユリウスがこちらを見る。
「通常の荷役は?」
「通常分は通常通り請求します。岸壁へ入ってから荷を降ろす仕事まで無料にはしません」
オルバンが苦笑する。
「全部ただにはならんか」
「航路標の不備と、普通の商売は分けさせてください」
「筋は通ってる」
救助費用を払うだけでは足りない。
同じことが今日もう一度起これば、今度は言い訳すらできない。
「ユリウスさん。明日の測深が終わるまで、初入港の中型以上の船は古い航路標だけで入れないようにしましょう」
「港外で待たせますか?」
「港務所の小舟を一艘、港口へ出します。入港時に案内役をつける」
「地元の船は?」
「船長が新しい浅瀬を把握しているなら通常通り。ただし、干潮前後に喫水の深い船が来たら待たせます」
ハンスが頷いた。
「明日測れば、どこまで東へ寄せればいいかも分かる」
「航路標は?」
「測る前に勝手に動かすな」
即答だった。
「ですよね」
「船を避けるつもりで、別の船を浅瀬へ誘導したら笑えん」
その通りだ。
「では今日は港務所の小舟で案内。航路標の位置は測量後に決めます」
ユリウスが記録する。
「明日の測深は誰を?」
「ハンスさんとニコにお願いしたいです」
ハンスが先に言った。
「半日は掛かるぞ」
「仕事として払います」
「ならやる」
ニコも横から身を乗り出す。
「俺も行く!」
「測り縄を読めます?」
「今日やった!」
「ならお願いします」
ニコが嬉しそうにする。
叔父のハンスは少しだけ口元を緩めた。
夕方までに暁星号は正式に岸壁へ入った。
仮置きしていた鉄材も、船長の指示を確認してから船へ戻す。
その後、本来予定していた荷役へ入った。
オルバンは船へ戻る前、港務所の入口で足を止めた。
「セドリック」
「はい」
「荷役が早いって話は本当だった」
「まだ荷役してませんよ」
「救助で分かった。人が動くのは早い」
「ありがとうございます」
「ただし、入口は落第だ」
「反論できません」
「次に来る時までには?」
「今日と同じ場所では乗り上げさせません」
「そこは『大丈夫です』って言うところじゃないのか」
「測ってもいないのに言ったら、また怒られますよ」
オルバンが少し笑った。
「それもそうだ」
船長を見送ったあと、俺は古い港口図を机へ広げた。
欄外には一年八ヶ月前の日付。
その横に、今日ハンスが測った地点だけ仮の数字を入れる。
古い図では十分な深さがある場所で、実際の水深は暁星号の喫水を下回っていた。
ユリウスがそこを見て眉を寄せる。
「随分変わっていますね」
「明日、全部測ってから考えましょう」
古い数字は消さなかった。
その横へ今日の実測値を書き加える。
二つ並べれば、砂がどちらへ動いたのか分かるかもしれない。
窓の外では、港務所の小舟が一艘、港口へ向かっていた。
明日の測深が終わるまで、初めて来る船を案内するためだ。
古い航路標は、まだ同じ場所に立っている。
今夜だけは、誰にもあれを信じさせない。
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